候補2

薔薇の下で ~ Under the Rose 奇譚 ⑩ ~

 
 
 
【~Under the Rose~】 秘密で・内緒で・こっそり

 

***
 
 

何故、今になって

「……きみは何者だ……?」

思わず口をついて出ていた。

美雪(みゆき)のことだけでなく、『立野壱貴(たてのかずき)』の名まで知っていた薔子(そうこ)に、驚きを隠せるはずもない。そして、その質問を予期していたであろう彼女は、口ごもってうつむいた。

「古い知り合いだと言ったな。どう言う関係だ?」

やはり答えようとしない。

「薔子……!」

苛立ちを感じ取ったのか、ようやく顔を上げてぼくを見た。

「……少しだけ待って……三日……いえ、明後日まででいい。そうしたら、私の案件は終わるから……」

ぼくの表情から、信用していないことが丸わかりだったのだろう。

「……今さら、逃げたりしないわ。だって、どちらにしても、貴方、全て探り出そうとするでしょう?」

薔子が逃げる、などと考えてはいない。考えるとすれば、それはむしろ自分の身の危険だ。だが、それならそれでも良いか、と思える。

抱えていた同時進行の仕事も明日には完遂できると計算し、ぼくは彼女の話を受け入れた。

翌日、ぼくは任務を終え、久しぶりに自分の部屋に帰っていた。週に何度か戻っていても、寝泊まりしてはいない。最近は、ほとんど薔子の部屋だったから。

ぼくに何かあった時の後始末を任せている知人以外、決して誰にも開けられない場所から、何年かぶりに取り出したのは古いアルバム。その中に詰まっている過去。

「……立野……壱貴……」

全てを知りたい。けれど、知りたくない。

渇望と恐れの狭間。

(ぼくは明日、一体、何を知ることになるんだろう……)

なかなか眠れぬままに、夜は更けて行った。

浅く短い微睡みでは、眠った気はしない。

夜までにはまだ間があり過ぎた。何があるかわからない今夜のために、ぼくは一度起きて一服し、その後しばらく横になることにした。

目を瞑っても、都合よく眠れる訳ではない。脳裏を過って行くものたちは際限なく、そして途切れることなくやって来る。

どんなに忘れようとしても、忘れてはならないぼくの罪。忘れようもないぼくの過ち。

まとわりつくそれらに、引きずられるように微睡みを繰り返し、再び目覚めた時にはとうに昼を回っていた。いい加減、起きなければ。行きつけの店で時間を潰すことにし、それを見越した席に陣取る。

店主たちと二言三言交わし、しばらくの間、本を開いたり、次の仕事の資料に目を通りしたりした。そうは言っても、今夜の状況次第では次の仕事はなくなるのかも知れないが。

そのまま軽い夕食を摂り、ぼくは意を決して薔子の部屋へと向かった。静かに扉を開けると、いつもと変わらぬ部屋の様子。

薔薇の花が見下ろす下で、薔子は窓辺で遠くを眺めていた。いや、実際に何を眺めていたのか、ぼくにはわからない。遠くを眺めているように見えた、だけなのかも知れないから。

「薔子」

ぼくの呼びかけに、彼女はゆっくりと振り返った。もちろん、呼びかけるまでぼくの存在に気づかなかった訳ではないだろう。

絡み合う視線。恐らく、ぼくの言いたいことはわかっているはず。だから、何も言わずに、ただ待つ。

身体をこちらに向けた薔子は、今日はシャツではなく薄いドレスを纏っていた。いつもは薄手のシャツに透ける絶妙な曲線のシルエットが、ピタリとフィットしたドレスに表れている。ゆっくりと近づいて来る彼女の身体の動きに合わせ、しなやかにフォルムを変えながら。

ぼくの目の前に立ち、見上げて来る瞳。見下ろしたその中に映るのは自分の姿。薔子がゆっくりと首を傾げ、長く翳る睫毛の下から意味ありげな視線を向けて来る。

その仕草だけで、ぼくは彼女が考えていること、望んでいることを理解した。考えることは同じ。恐らく、今夜が最後の時。

そっと、指で顎を掬い上げると、初めて会ったあの日にぼくを瞬殺した、潤いを帯びた眼差しが、艶やかな唇が呼んでいる。

ゆっくり顔を近づけると、彼女の腕が合わせたようにぼくの首を捉えた。爪先立ちになった腰をさらに引き上げる。

比類ないほど美しい肢体(からだ)を抱きながら、彼女は美雪とは別の意味で、ぼくにとって忘れられない女になると確信していた。

今夜は、長い夜になるだろう。

「……初めて Under the Rose で見かけた時、後ろ姿だけで『私たちの望む条件を全て兼ね備えている』ってわかった……」

ぼくの胸に背を預けた薔子が、躊躇いがちに話し出した。

「……だけど、横顔が見えた瞬間……」

言葉が途切れる。何かを堪えているかのように。

「……ひと目で『貴方』だとわかったわ……」

そのひと言に、薔子が本当にぼくを知っていた事実が表れていた。

「懐かしくて、迷って、迷って、迷って……結局、貴方以上の適任者を見つけることは出来なかった」

後悔の念を隠し切れない声音。

それでも、敢えてぼくを選んだと言うならば、その目的の行きつく先はどこだ? そして、『懐かしい』と思うほど、薔子はぼくと近しい人間だったのか? もしくは、近しい人間と知り合いだったと言うことなのか?

「ぼくが誘い出した女たちはどうしたんだ? まさか、全員殺した訳じゃないだろうな」

「そんなことしない……危害を加えたりなんて……全員、生きてるわ。それぞれ、誰も知らない安全なところで生活しているだけよ」

下を向いたまま、薔子はポツリと言った。

「ならば、何のために彼女たちを誘い込んだ?」

「……彼女たちの持ってる、山際産業の情報を全て欲しかったから……」

「情報?」

これで、彼女たちの誰もが、山際産業との関わりを少なからず持っていたことについては疑問が解けた。

「何のために、何の情報を集めていたんだ?」

「……山際産業の社長だった男を、完全に潰すためよ……」

「…………!?」

それは俄かには信じられない内容だった。そんなことは有り得ないはずなのだから。

「あの男、死んだはずじゃなかったのか……!? 山際産業が事実上の破綻と決まった時に……!」

二度と、かつての規模には立て直せないようにしたはずだった。絶望して行方をくらまし、見つかった所持品や衣服から自殺したとも事故死とも囁かれ、その後、死亡が確定していた。

「巧妙だった。死んだ、と見せかけて、協力関係にあった別の企業の口利きで逃げ果せたわ……政治家の力まで借りて、ね……」

「バカな……! 全てを失った奴を匿って何の得になる……!」

そこで彼女は唇を噛んだ。

「……極上の貢ぎ物があったのよ……」

震える声。その言い回しに、一瞬、思考が停止した。嫌な予感しか湧いて来ない。

「……奴の手元に、一体、何が残ったと言うんだ」

薔子の下向き加減に拍車がかかり、重苦しいほどに言い淀んだ。

「まずは、今までに集めた他企業の情報……それも、外部には洩らされたら困るような黒いものばかり……山際がどれほど卑怯な手口を使って来たのか、容易に想像出来るほどに……」

『まずは』と言うからには複数あるのか? 本当に奴の手にそんなものが残っていたのだろうか?

「……それから?」

山際がどれほどの悪(わる)だったかなど、誰よりもぼくが一番良く知っている。例え、恨み殺されても驚いたりしない。命を狙われて当然の行ないをして来た奴だが、それが故に自衛もすごかった。決して、相手に手出しをされないよう、決定的な弱みを握るための労力を惜しんだりはしなかった。

沈黙の間。

薔子は、ぼくに預けていた身体をゆっくりと離し、立ち上がった。無言のその背中から、圧倒されるほどの葛藤を感じる。

「……女を、ひとり……」

脳が受け入れて理解しようとすることを、心臓が否定するような一瞬だった。

「……女……」

鸚鵡返しでつぶやいたぼくに、薔子は自分で自分の身体を抱きしめる。

「……“あの男”……たまたま、山際のところで見かけて目をつけて以来、ずっと狙っていたらしくて……渋る山際に身の安全の引き換えを仄めかした……」

心臓が波打った。

(……まさか……)

自分の鼓動と呼吸の音が内耳に響く。そんなことはありえない、と言う思いと、それしか考えられない、と言う思いが交互に巡る。

何より、何故、薔子がそんなことまで知っているのか──。

「……きみは……誰だ……?」

彼女は顔だけをぼくに向けた。うつむき、こぼれた髪の毛の隙間から、哀し気な瞳が見つめている。

「……薔子、答えろ……! きみは、一体……!」

自分を抱きしめていた腕を解き、彼女は身体ごとゆっくりと向き直った。真っ直ぐにぼくの目を見つめ、その睫毛がすぐに翳りを帯びる。

「……美雪がよく一緒にいた少女を憶えてる……? 」

当時の記憶の中を探るも、特に思い浮かぶことはなく首を傾げた。美雪とぼくは、大抵、一緒にいた記憶しかない。そして何より、当時のぼくには美雪以外に記憶に留める大事なものなどなかった。

「……学校は違ったけど、たまにあなたが一緒じゃない時……」

その言葉が胸に満ちると共に、やがていくつかの光景が脳裏にフラッシュバックした。

(……あれは……彼女は……)

美雪とは違う、だが、引けを取らないほど綺麗な少女。朧気な記憶の中、違う制服を着たふたり、楽し気に連れ立って歩くふたりの姿が次第に鮮やかに甦って来る。

何度かは顔を合わせ、紹介もされたはず。だが、如何せん、当時のぼくの記憶に留める理由がなかった。それもあってか、当時の彼女の面影と、今、目の前にいる薔子の顔が一致しない。もちろん、理由はそれだけではないかも知れないが。

彼女は美雪の遠い親戚だと聞いただろうか。確か、名前は……。

「……美花(みか)……?」

薔子の顔が微かに歪んだ。必死に泣くのを堪えている顔、それは薔子が美花である事実を物語っていた。

「……何故、きみが……」

薔子の唇が震えている。

「………………かったの……」

「……えっ……?」

堪えた声は、ぼくの耳に届かないほど掠れていた。

「……彼女を……助けたかったのよ……」

ようやく絞り出した声。けれど、その内容が結論として変換されることはなかった。

「……なのに……」

聞きたくない、と直感が訴えた。聞いてはいけない、とも。

上乗せされるだけだ。ぼくの罪が。

「……助けられなかったばかりか、結局……」

やめろ。元はと言えば、原因はぼくにあるんだ。

「……私を助けようとして……」

やめてくれ。

「……彼女は自分から……」

それは、ぼくの罪。

この罪を

どうやって雪げばいいのだろう
 
 
 
 
 
 
 

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