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社内事情〔48〕~置き土産~

 
 
 
〔静希目線〕
 

 
 「主任……何かあったんですか?」

 金曜日の夜、かなり遅い食事を済ませ、主任の部屋で寛いでいる時だった。

 「……いや……何もないよ……」

 私の問いにハッとした様子で答えた主任は、話を逸らすかのように優しい笑顔を浮かべる。とても無理しているのが手に取るようにわかってしまう顔。

 思えば、今日は朝から様子が変だった。

 昨日も遅くまで社に残って仕事をしていたみたいで、疲れているのかとも思ったけれど。昨日の昼間は特に変わった様子はなかったし、どうもそれだけではないような気がする。

 ━つまり、『何か』があったのは昨日の夜、なのだと思う。普段なら、私は大抵、これ以上は口を挟まないのだけど……。

 私がジッと見つめると、困ったような曖昧な笑みを浮かべた。

 「……そんなに『何かあった顔』をしてるんだ?ぼく……」

 「……いつもと目が違います」

 私の言葉に苦笑いする。そして少し下を向き、言葉を探している様子。

 「……ぼくはね……ずっと人にも環境にも恵まれて幸せな人生を送って来ている、と思っていたんだけれど……」

 ポツリとひとり言のように言った。

 「……違ったんですか?」

 主任は一点を見据えたまま小さく笑い、また黙ってしまう。でも、何か考えている様子が感じられ、主任から話してくれそうな気がしたので、私はそのまま待った。

 「……そんなものじゃなかった。……自分が考えていたよりも、もっともっとずっと……大切に思われて守られていたことに……この歳になって気づいてしまったんだ……」

 主任がそんな風に感じる相手って……。

 「……それは……片桐課長に、と言うことですか?」

 思わず訊ねると、少し驚いた顔をし、すぐに恥ずかしそうに笑った。

 「……バレたか……」

 他の人が思いつかなかっただけなのだけど。やはり昨日の夜、何かあったのだろう。だけど、これ以上は訊くまい、と考えた瞬間━。

 「……もし五年前、課長が決死の覚悟でぼくを守ってくれなかったら……ぼくは今、ここにいなかったのかも知れない」

 五年前……主任が企画室に異動した頃だろうか。黙って聞いていると、主任は私の手を取って引き寄せた。

 「……きっと、きみと、こうしていることもなかった……」

 私を抱きしめながら、息を吐き出すように苦し気に洩らす。

 「……片桐課長はご自分の元にいる部下だけでなく、他の部署の社員のことも大切に守っていらっしゃいます。……でも、主任を特に大切に思っていることは、誰の目から見ても明らかです」

 頷きながら溜め息をついた。

 「……ぼくのために使ってくれた労力がね……そりゃあ、もう半端じゃなかったことを知ったんだ」

 主任のその言葉尻には、子どもが親に返せない恩、のようなニュアンスを感じる。

 「……いつか……別の形でお返し出来ることもあるでしょう」

 そう言うと動きを止め、じっと私の顔を見つめて来た。私からそんな答えが出ると思っていなかったらしい。

 「……そう……かも知れないね。……きっと返し切れる日は来ないけれど。……でも、とにかく今は、課長の役に立つ情報を出来る限り集める……!」

 主任にとっては、返し切れるものではないほど大きなことがあったのか……そう思いながらも、決意を感じる言葉に賛同し頷く。頭の中では別のことも考えながら。

 ━五年前。

 それはきっと、主任が企画室に異動になったことが関係しているのだろう。それだけではなく、当時、米州部の部長だった島崎部長の他社に奪われた契約。それを奪回した、当時はまだ係長だった片桐課長の執念。

 これらのことも、皆、今回の件に繋がるに違いなかった。━そして。

 「……静希……?」

 黙りこくった私に、心配そうに呼びかける主任の顔を見上げる。

 今、話すべきだろうか。今が話すべき時だろうか。迷うけれど……。

 「……主任……」

 「ん?」

 言い淀む私に、主任は心配そうな表情を向ける。

 「何か心配事でもある?」

 心配事、とは少し違う。だけど、どう説明すればいいのだろう?

 「……あの……かなり前の話なのですけど……」

 「うん?」

  少しの邪気もない表情。真っ直ぐな瞳。

 「アジア部の坂巻さんからお預かりしたものがあります」

 「………………!」

 坂巻さんの名前に、主任が明らかに狼狽え、息を飲んだのがわかった。

 いくら私だって、主任と坂巻さんのかつての関係くらい知っている。だから、さすがに坂巻さんの話題を出されると気まずいのはわかるけれど、そこまでわかりやすいと驚きを通り越して、可愛らしいとすら思ってしまう。

 「……坂巻さん……から……?」

 狼狽を隠し切れない声。そんなに狼狽えなくてもいいのに。

 「はい。いつか必要になる日が来るかも知れない、と」

 主任が不思議そうな顔をした。

 「……それは……必要にならない場合もあるかも知れないと言うこと?」

 「はい」

 ますます訳がわからない、と言う表情。

 「坂巻さんは、もしも……もしも主任が、片桐課長とのことで悩まれることがあったら、その時に渡して欲しい、と」

 「……え……」

 主任は驚いて言葉も出ないようだった。瞬きすることも忘れ、私の顔を凝視する。私は自分のバッグから、いつも持ち歩いていた封筒を出した。

 封をされたその封筒には、坂巻さんの手書きと思われる文字で『雪村さんへ』と書かれている。

 私は封を切った。

 取り出すと、中身はSDカードと一筆箋。その一筆箋には『片桐係長━写真・映像・音声』と書かれている。

 パソコンを起動してデータを確認してみる。

 写真は坂巻さんが撮ったと思われる、今よりも若い時の片桐課長と主任、ふたりが写っている写真。笑顔で楽しそうなふたり。課長が主任を見る目はとても優しい。中には課長と里伽子さん、里伽子さんと坂巻さんの写真も混じっている。

 短い動画は新年会なのか……何か、集まりの映像。すごい人数。緊張した顔の主任に、課長が笑いかけている。近くに里伽子さんの姿も映っているけれど、社内の集まりではないかも知れない。

 「……得意先のレセプションだ。初めて連れて行ってもらった時の……確か欧州部とアジア部も一緒で……」

 主任が画面を見つめたまま呟いた。

 映像が途切れると、ファイルは残りひとつ。これがどうやら音声ファイルらしい。開いてみると小さな音。雑音も多くて良く聞き取れない。耳を凝らす。

 『……ぜっ……に!潰さ……たりしな…………お前た……くろみ……潰れ……しない……!……おれ………………る!』

 片桐課長の声だと言うことはわかったけれど、切れ切れ過ぎて良くわからなかった。ただ、何となく━。

 「主任……これはもしかして、五年前に流川麗華相手に話しているところなんじゃ……」

 私の言葉に主任も頷いた。

 「……そんな気がする。どうして坂巻さんがこんな録音を……」

 その疑問は坂巻さんにしかわからないけれど、ひとつだけわかったことがある。

 周りが見ていてわかる『課長の主任への親心』ではなく、明らかに課長本人が語っている気持ち、と、それを映し出した映像と写真。坂巻さんはきっと、主任に『課長とのことで悩む必要なんてない。恩なんて返せなくていい。ただ、信じて進めばいい』と言うことを伝えたかったんだと思う。

 現に、主任の目が見る見るうちに変わったから。明らかに光を帯びて。

 「……主任。片桐課長たちが落としたいと思っていらっしゃる企業で、手強くて難航しているところが……R&Sの要とも言えそうなところがあります。でも、逆に言えば、そこを落とせれば形勢は一気に有利になるかと……なので、明日からはそこの情報を重点的に収集します」

 「……頼むよ。ぼくは他の業者への引き続きのアプローチを同時進行するための材料を集める」

 『片桐課長が主任のためにやることに悩む必要はない。ただ信じて進めばいい』

 そのことを自覚して気持ちが楽になったのか、引き締まった、でもやや穏やかな顔になった主任と頷き合った。
 
 
 
 
 
~社内事情〔49〕へ~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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