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〘異聞・阿修羅王30〙雅楽

 
 
 
 月が翳った刻。

「…………!」

 暗闇の中で、突然インドラは目を開けた。

 天井を凝視した眼(まなこ)が、何かを確認するように、様子を窺うように、やがてゆっくりと四方を巡り出す。

「…………」

 しばらくすると、舎脂(しゃし)を起こさぬよう、そっと腕を離し、静かに寝台から立ち上がった。

「……何ぞ、ございましたか……?」

 振り向くと、半身を起こした舎脂が不安気な表情を浮かべている。

「大事ない。そなたは今しばらく寝ていよ」

 そう言って、インドラは寝所を後にした。

「…………」

 インドラが去った方を、舎脂が凝視する。

 やがて、何かに掻き立てられるように起き上がり、自身も追うように寝所を後にした。

 阿修羅を見送った雅楽(がら)は、残った家人たちと共に敷地内の痕跡を全て消し去った。

「では、奥方様。我らは王のご指示通りに……」

 人界との境界線近くひっそりと建つ邸跡で、家人たちは雅楽に跪拝した。

「上方は羅刹(らせつ)殿たちが、万事、整えてくれているはず……状況は絶えず伝えます故……」

「は……お任せを……奥方様もお気をつけくださいませ」

 そう言い残し、彼らはすぐ四方に散って行った。

「頼みましたぞ……」

 見送りながら呟き、一人になった雅楽は竪琴に向かった。そうしていることによって思考が澄み渡り、遥か昔の記憶でさえ明瞭になってゆく。

(王のお傍近く侍り、どれほどの時が過ぎたのだろう。わたくしと話すためだけに、王が来てくださったあの日から……)

 この時、雅楽の奏でる旋律の一番の役割は、その音色を以て様々なことを一族に伝達するためのものだった。もちろん、それだけではない。託された役目は彼女にしか出来ないことであり、要(かなめ)と言っても過言ではなかった。

『私は、何度も違う私となる。私であって、私でない者に。そして、いつの日にか、私となるために、そなたを使わねばならぬ。そなたを娶ると言うことは、そなたを利用すると同義だ。それでも……』

(あの時、王はそう言われた……)

 その言葉の意味するところを、雅楽は訊ねなかった。

 例えどんなことであれ、受け入れる覚悟は決まっていたし、それが己の運命(さだめ)であると理解していたのもある。何より、決心を鈍らせないために敢えて聞くまい、とも。だが、同時に、阿修羅の思うところが手に取るようにも理解出来た。

(いつも王は、そのことに負い目を持たれていた。わたくしは決して不幸せなどではなかったのに、どうお伝えしてもお心から贖罪の気持ちが消えることはなかった……それだけが申し訳ない)

 今生の別れ、と言うのではない。人のように生き死にする訳でもなく、死んで肉体が朽ちる訳でもない。

 ただ、もう、須彌山の邸にも、隠れ住まったこの邸にも戻ることはなく、ここで阿修羅や舎脂と過ごすこともない──そのことが、人の生死や別れと何が違うのか、雅楽はそこをこそ本当は知りたかった。

(考えても致し方ない……今は、わたくしもわたくしの役目を果たさなければ……)

 雅楽の奏でる音(ね)は、須彌山に、そして人界にも、染み入るように広がって行った。

「羅刹、後は任せた。出来る限り、見つからぬように……手筈通り頼んだぞ」

 須彌山の山頂に近づくと、阿修羅はすぐ脇に控えている羅刹に命じた。

「……御意。必ずや、雅楽様と我らで……」

「うむ」

 力強く頷き、阿修羅は軍勢から飛び出した。

「王こそ、どうぞご武運を……!」

 ひとり言のような羅刹の声は、それでも阿修羅の耳に届いた。それが、雅楽の奏でる──須彌山と人界を包む──音色の恩恵のひとつでもあった。

「我らもゆくぞ!」

 微かに振り向いて頷く主を認め、羅刹は羅刹で、自らも役目を果たすべく動いた。

 ひとり善見城に向かった阿修羅は、眼前に迫るそれを見上げた。

「む……」

 そして、近づいて来る気配に、一層、表情が引き締まる。

「そこか……」

 阿修羅たちが近づいていることは、善見城はおろか、忉利天全体に於いても気づいている者はなかった。今までのような目立つ動きをしていないこともあるが、それだけで気づかぬはずはない。

(さすがだな、雅楽)

 口元に不敵な笑みを浮かべ、阿修羅は善見城の最奥に降り立った。静まり返った城内で、まるで目指す場所がどこであるかわかっているように、淀みなく歩を進める。

「……やはり、そなたは気づいたか」

 ふと足を止めた阿修羅が、誰もいない回廊に向かって言い放った。返事はない。

「出て来られよ」

 しばし待ち、もう一度、呼びかける。

「そこにいるのはわかっておるのだ……乾闥婆王(けんだっぱおう)……」

 柱の向こうで影が揺れ、乾闥婆王が姿を現した。

「……久方ぶりだな……阿修羅王……」

 静かに、だが威厳ある佇まいで立ちはだかる。

「……雅楽が珍しい音(ね)を奏でておった故、胸騒ぎを覚えて参じてみれば……」

 乾闥婆王の表情には、どんな感情の波もなかった。それは阿修羅の方も同様であったが、二人共に、避け得ぬ何か──運命はわかっていた。

「私ではそなたの相手にならぬことなど、十分にわかっておる。しかし、このまますんなり通す訳にはゆかぬ……!」

 楽師であれど、八部衆であることが守護者たる証。

「……舎脂様の元へは行かせぬ……!」

 雅楽の輿入れ以来幾星霜、二人は静かに向かい合った。
 
 
 
 

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