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〘異聞・阿修羅王4〙四天王と八部衆

 
 
 
 平和なはずの須彌山(しゅみせん)にも、時折、別界の輩が紛れ込み、悪さをすることがある。

 そんな者たちを見つけ、元の世界に戻す、あるいは掃討するのも守護者たる須羅(しゅり)たちの役目のひとつであった。ことに今は、インドラが正式に忉利天(とうりてん)の主として立っていない微妙な時期でもある。

 いつものように見回っていた須羅は、ふと動きをとめた。悪意は感じないものの、自分を見ている視線を感じる。

「…………」

 自然な動作で動き出すも、視線だけは油断なく四方に送る。

「阿修羅よ……私だ」

 須羅が警戒したのを見て取り、巨木の影から男が自ら姿を現した。

「……多聞(たもん)……」

 多聞とは、四天王のひとり、北方の守護者である毘沙門天(びしゃもんてん)の別名である。

「私はまだ阿修羅ではないぞ」

「細かいことを。おまえが阿修羅王となるは必然……もう、決まっていることだ」

 睨みつけるように眉根を寄せ、須羅はふいと顔を背けた。

「覗き見とは趣味が悪い」

「邪魔するつもりはなかったのだ。様子だけ見て過ぎるつもりであった故な」

 毘沙門天の言葉に、やや冷ややかさを湛えた目線だけを向ける。

「その言葉、本気で言うておるのか?」

 問い掛けの意味に気づいた毘沙門天は苦笑した。

「……おまえに気づかせぬなどと、無理な話であったな」

「それよりも何用だ?」

 たたみかける須羅に肩をすくめる。

「ただ、様子を見に来た……ではいかんのか?」

 一瞬の間の後、須羅が訝しむように首を傾げた。

「理由になっておらぬ」

 毘沙門天は今度こそ盛大に苦笑する。

「変わらぬな、おまえは……」

「何が言いたい?」

 少し考える様子を見せた後、毘沙門天は須羅の問いかけには答えず、すっかり元の表情に戻った。

「どうするのだ?」

 ほんのわずかなの間。

「何のことだ?」

「乾闥婆の娘御との件だ」

 如何にも、面白くない、という表情を顕わにした須羅に、毘沙門天はやや後悔した。それでも、今さら取り下げられる訳でもないと思い直す。

「八部衆に関して、私の耳に入らぬはずがなかろう」

 それはその通りである。

 乾闥婆は、四天王のひとりである東方守護者・持国天の眷属で、名目上、同じ八部衆として在る立場なのだ。

「雅楽(がら)と言ったか……乾闥婆に勝るとも劣らぬ楽(がく)を奏でるとか……」

 乾闥婆は緊那羅と並んでインドラの楽師であった。緊那羅の歌声と乾闥婆の楽の音が、インドラの御世を称え、彩る。

「……乾闥婆の娘だ。驚くことはあるまい」

「それに大層美しいそうではないか」

「一体、何が言いたいのだ?」

 苛立ちを顕わにした須羅に、毘沙門天は探るような視線を向けた。

「……良いのか?」

「雅楽しだいだ」

 毘沙門天が言わんとしている核心に、もちろん須羅は気づいていた。そして、毘沙門天もまた、須羅が故意に話の本筋を逸らそうとしていることに。

 だが、そこに敢えて触れるつもりがない返答に、諦めて嘆息する。

「思うのだが……」

 去ろうとする須羅の背を、ひとり言のような毘沙門天の声が追いかけた。須羅の足が止まる。

「……時には、違う道を通ってみても良いのではないか、と。結果的に同じ場所に辿り着くとしても……いや、だからこそ、過程は違っても良いのではなかろうか」

 言葉を背で受けて立ち去る須羅を、毘沙門天もただ見送った。

「陽と月を背負うあやつを変えることは出来まいな……だが、摩伽さまを変えるとすれば、あやつしかおるまい……何度、繰り返しても……」

 今度こそ、本当のひとり言を唱え、毘沙門天はしばしその場に立ち尽くしていた。

 毘沙門天と別れた須羅は、見回りながらある場所に向かっていた。

 やがて、目の前に現れた広大な花野。そのまま躊躇うことなく踏み入り、足を進めて行くと聞こえて来る楽の音色。

 その主が視界に入ったところで、須羅は足を止めた。目線の先には、ひとりの少女が竪琴を奏でている。

 演奏の邪魔をすることなく、須羅は足を止め、目線を落としたまま少女の楽の音に耳を傾けた。淡く、儚く、それでいて傅(かしず)くことなどないかのような不思議な音色。それが、静かに、軽やかに空間に溶けて行く。

 艶を帯びた黒髪が風になびいた。ところどころ銀色の輝きが混じり、まるで水の流れのような不思議な色彩。片側は黒く、もう片方は淡いグレーの瞳は、現実の風景を映しているのかさえ怪しいまでに澄んでいる。

 と、突如、音が途切れた。

「……王……!」

 須羅が佇んでいることに気づき、竪琴を置いた少女が慌てて跪く。

「久しいな、雅楽」

「お出でであることにも気づかずご無礼を……」

「いや、私の方こそ、音色に聞き入って盗み聞きのような真似をした。一層、腕に磨きがかかっている……見事であった」

「畏れ多いことでございます」

 かしこまりながらも、仄かに嬉しそうな表情で礼を取る。

「先触れも出さず、突然すまなかった。ここに参れば、誰にも邪魔されずにそなたと話せると思うてな」

 そっと顔を上げ、須羅を見上げた少女──雅楽は、即座に話の内容を理解し、納得したように睫毛を伏せた。

「……父からのお願い、ご迷惑であることは承知しております故、どうかお気になさらず……」

 須羅が自分との婚儀を望んでおらず、密やかに伝えに来てくれたのだと。

「そうではないのだ、雅楽。迷惑などと思うておらぬ。ただ、そなたに言うておかねばならぬことがある。それを聞いて尚、私の元に来て構わぬと言うなら、断る理由はないのだ。が、受け入れられる内容と思うてはおらぬ」

「……王……?」

「まだ先のことと、後回しにしておきたくはないのだ。聞いてくれるか……?」

 須羅の言葉に、雅楽の顔が引き締まった。それは、紛れもなく八部衆のひとり・乾闥婆王の息女に相応しい凛々しい面立ち。

「お聞きしとうございます」

 うなずいた須羅も膝をつき、雅楽と目線を合わせて向かい合った。
 
 
 
 
 
 

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