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かりやど〔弐拾六〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
思い出せば楽になれるのか
思い出さない方が楽でいられるのか
 
思い出したいのに
思い出したくない
 
思い出したくないのに
思い出さなければならない
 
 

 
 

 遭遇した仇の娘たちは、あまりにも対照的なふたりであった。
 
 大輪の花のように女王然とした黒川玲子。
 控えめで真面目そうな堀内承子。
 
 しかし黒川玲子の美しさは、まるでどす黒いコールタールの中に、図々しく毒々しいまでに咲く赤黒い花のようであった。
 人を値踏みする目、含みを感じる笑み、相手を下に見る口調──どれを取っても、本能的に、生理的に受け入れがたい。いや、受け付けない。昇吾にとっては、胸が悪くなりそうな嫌悪感だった。
 
「……朗?……何かあったの?」
 帰宅した途端、ソファに沈んだ昇吾に不穏な気配を感じたのか、美鳥が心配そうな目を向けて来る。
「……いや……何もないよ。どうしてだい?」
 努めて平静を装おって返事をしても、美鳥の表情は晴れない。
「……だって……」
 美鳥は言葉を飲み込んだ。
(……今まで感じたことない……こんなトゲトゲした……)
 ──昇吾──と言う名前も飲み込む。
「すごい大勢だったし……仕事の顔合わせだから、少し緊張して疲れたかな」
 くっついて来る美鳥を抱き寄せながら誤魔化す。
 
 疲れていたのは事実であった。
 玲子の毒気に当てられた、とでも言うのか、ひどく消耗した気がする。精神的に不安定な美鳥といてさえ、こんなことはない、と思うほどに。
 いつもは昇吾を頼るばかりでありながら、懸命に包もうとしてくれる小さな手と頼りなげな身体。腕の中に抱える、あたたかくやわらかい感触に、心が和んで行く。
 
 昇吾自身は、とりあえずの目的を果たしたら、例え歓迎会の途中であっても抜け出して帰宅しようと考えていた。ところが、その『目的』のひとりである玲子が、執拗に昇吾を誘って来たのである。
『ねぇ、歓迎会終わったら飲みに行きましょうよ。他の若いバイトメンバーも誘って。何ならもう抜け出してもいいし……つまんないもの。ね、承子も行くでしょ?』
 有無を言わさない強引な聞き方。堀内承子は困ったような表情を浮かべながら『……ええ……少しだけなら……』と、本当は行きたくない様子で答える。力関係でもあるのか、はっきりとは断りにくい様子。
『……申し訳ないですが、ぼくはもう失礼しなければならないので』
 恐らく、断られることなど想定外だったに違いない。昇吾が断ると、玲子の片眉があからさまに反応した。すぐに元の表情に戻ったものの、昇吾はその一瞬に込められた、恐ろしいまでの玲子の自尊心を見逃さなかった。
『少しくらい大丈夫でしょ?一杯くらい付き合いなさいよ』
『……いえ、あの……』
 ひと昔前の上司のような口調。世界は自分を中心に回っている、としか考えていないかのように。
(本多さんが言ってたように、関わらない方が良さそうな女だ)
 そう判断した昇吾は、頭の中で断り文句を慎重に選別する。──と。
『……玲子……あまり無理を言っちゃ悪いわよ……皆、それぞれ事情があるんだし……』
 その時、承子が取りなそうとしてくれた。
『……そうね。残念だわ。せっかくお近づきの印に、と思ったのだけど』
 その甲斐あってか、玲子は諦めてくれた様子。あくまで表向きは。
 昇吾の方は、近づかないで済むのなら近づきたい訳じゃない、と内心苦笑いする。
『……申し訳ないです。あまり自宅を開けられないんです。月にほんの数日の出社以外は、自宅で仕事出来ると言うのに惹かれて応募したので』
 昇吾はやんわりと言った。
 承子は納得したように頷いているが、玲子の目は明らかに疑っているのがわかる。だが、押し切るしかなかった。
『……仕方ないわよね。じゃあ、またの機会に』
『……ええ……』
 
 そう言って別れたのが、ほんの1時間ほど前のことである。『またの機会』を作るつもりはなく、これ以上、関わるのは御免だった。
 足掛かりにするのは気が引けるが、この際、堀内承子の方に絞るしかないか……そう考えた矢先、朗の携帯電話が鳴った。朗が昇吾に預けて行った、朗名義のものだ。
「………………!」
 画面に表示された名前は『小松崎陸(りく)』──朗の実兄で、当然、昇吾の従兄のひとりでもある。一瞬、躊躇い、美鳥から少し離れてから恐る恐る繋ぐ。
「……もしもし……」
『……陸だ。返事だけしていればいいから、そのまま聞いてくれ。大丈夫だ。母さんから話は聞いてる。そこに誰かいるんだろう?朗として話を合わせろ』
 久しぶりに聞く、変わらない穏やかで優しい従兄の声。
「……はい、兄さん……」
 言う通りに返事をするも、懐かしさと嬉しさで声が震えそうになる。
『……母さんを通して本多さんと言う人から聞いたんだが……黒川玲子のことだ。近づくのは止めておいた方がいい。ぼくも直接の関わりはないし、関わりたくもないが、在学中、他校とは言え危険な話しか聞かない女だった』
「……そんなに、ですか……」
 思わず声に出てしまう。いくら本多たちの調査力を以てしても、学生にしかわからない内部のこともある。昇吾を心配し、陸は何とか知らせようと連絡して来てくれたのだ。
『家が製薬会社なのを良いことに、相当、えげつない真似もしているようだ。認可されていないどころか、禁止されている薬物まで流して……被害にあった学生も数知れないらしい。大病院との繋がりもあるからな。しかも、後ろにはチンピラから本格的なのまでいるって噂だ』
 昇吾は絶句した。自分が感じた嫌な感覚は間違いではなかったのだ、と。背筋を寒気が走る。
『とにかく、極力、避けろ。本当に何をするかわからない女だ』
「……わかりました。ありがとうございます、兄さん」
『……ん。母さんにも言われたと思うけど、忘れるなよ。ぼくにとってはお前も朗と同じ……弟と同じだってこと。列(れつ)にとっても、お前は兄同然なんだ』
「……はい……」
 電話を切っても、感無量の体で携帯電話を握り締める昇吾の腕に、近づいて来た美鳥が躊躇いがちに触れた。
「……お兄さんから?」
 何となく寂しげな顔。昇吾はハッとした。美鳥にも元々兄弟がおらず、しかも従兄でさえも、昇吾ひとりしかいないことを思い出す。
「……そうだよ。仕事で役に立つ情報を教えてくれたんだ」
 その事実には気づかないフリで答え、美鳥の身体を持ち上げた。
「……きゃ……」
 いきなり自分の身体が浮き上がったことに驚く美鳥を、そのままベッドに運ぶ。
「春さんから聞いてるよ。今日、ちゃんと昼寝をしてないんだって?」
 美鳥が俯いた。昇吾が不在だったから眠れなかった──それは容易に想像がつく。しかも、大して動いている訳でもないから、眠くならないのも納得は出来る。だが、夜でも熟睡している時間が少ない上、身体自体が弱くなってしまっているため、寝不足が及ぼす影響は大きかった。
「……シャワー浴びて来るから、ちゃんと寝ていること。いいね?」
 渋々、頷く。
「すぐに戻るよ」
 美鳥の頬を撫で、昇吾は灯りを小さくした。
 
 ほんの30分程で戻ると、ちゃんと横になっている。眠っているのなら大丈夫かと、念のため離れる前に覗き込んだ。すると、顔が不自然に下を向いている。
「……翠(すい)……?……もしかして、起きてる?」
 返事はなく、ピクリとも動かない。
「……翠……?」
 そっと肩に触れると僅かに反応し、顔を更に下に向ける。不審に思い、頬に手を当てて上向かそうとすると拒否の手応え。
「……翠?……どうした?」
 頬に触れる昇吾の手を押さえ、枕に顔を埋めようとするので、そのまま腕を差し入れ、身体ごと持ち上げて仰向けにさせる。抵抗しようとするも、軽い身体はクルリと簡単に返ってしまった。
「……翠……」
 泣いてでもいるのかと思いきや、ひどく険しい顔の美鳥に、一瞬、昇吾はたじろいだ。
「……どうしたんだ?……そんな顔をして……」
 ベッドに腰掛けて頭を撫でる昇吾の手を握り、美鳥は身体を起こして俯いた。昇吾の手を胸に抱いて。
「……朗……ホントのこと言って……」
「……どう言うことだい?」
 本心から意味がわからず、昇吾が訊き返す。
「……隠さないでよ。……何か危ないこと、しようとしてるんでしょ?……何をしようとしてるの?」
 見えないのに見透かすかのような美鳥の瞳が、昇吾の胸に迫って来る。息を飲みそうになるのを堪え、言葉を探した。
 「……前に昇吾が先生たちと話してたの……。……一緒にいると私が危険じゃないかって。……一番、危険な立場にいるのは昇吾だからって。その時は冗談だと思ってた。だって、何で私じゃなくて、昇吾が一番危険なの?狙われたのは松宮の家なのに……昇吾は松宮から見たら外戚なのに。だけど、だからこそ昇吾は追われて、今、行方不明になっちゃってるんでしょ……!?だから朗は何かしようとしてるんじゃないの……!?何をしようとしてるの……!?」
 沸騰した湯が吹きこぼれるように、一気に吐き出された美鳥の不安。
「……翠……」
 昇吾は、ただ、言葉に詰まる。
「……それならば……私が表に出れば……公に訴え出れば全部解決するんじゃないの……!?……そうしたら昇吾は帰って来れる……全部から……私からも……解放されるんじゃないの……!?」
 ひと筋の涙が零れ落ちた。翡翠色の瞳が滲み、昇吾の手を握る指に力がこもる。
「……翠……良く聞いて欲しい……」
 昇吾は美鳥の手を握り返し、言葉を選びながら話し出した。
「……もし、きみが公の場に出たとしても、昇吾を取り巻く状況は恐らく変わることはない。むしろ、きみが生きていた、と言うことになれば、きみも危険になる。だからと言って、昇吾の立場が安全になる訳じゃない。そして何より、昇吾はきみに囚われて身動き出来ない訳じゃない。松宮の家を狙った奴らにしてみれば、『松宮の血を引く者』は全て邪魔なんだ。……わかるかい?」
 真っ直ぐに昇吾を見つめ、だが、美鳥は首を振った。
「……わからない……どうして……?」
「……それを、ぼくも知りたいんだ。何故、こんなことになったのか……何故、こんな風にされなければならなかったのか……」
 握った美鳥の手を引き寄せ、腕の中に閉じ込める。
「……朗……私……」
「……うん?」
 昇吾にしがみ付きながら、美鳥が何かを伝えようとしている。
「……私……思い出せないの……あの時のこと……」
「……あの時……?」
 何の話かピンと来ず、昇吾は鸚鵡返しのように訊き返した。
「……あの日……事件の前後のこと……良く思い出せないの……」
 反射的に、昇吾は美鳥を強く抱きしめた。
「……翠……無理に思い出す必要はないんだ。思い出せる時が来れば、自然に思い出せる」
 だが、腕の中で美鳥は首を振った。
「……でも……でも……何かすごく大事なことを忘れてる気がして……思い出さなくちゃいけない何かを忘れてる気がして…………怖い……」
 胸にしがみ付いて震える。
「……思い出すのが怖い…………でも、思い出せないでいることが、もっと怖い……」
 その葛藤が、美鳥を苦しめるもののひとつであることを、昇吾は初めて知った。美鳥を生かすことに精一杯で、『あの時』のことを訊いたこともなければ、敢えて話題に出すこともなかったからだ。
「……翠……翠……大丈夫だ。心配しなくていい。今は、ちゃんと身体を治すことを一番に考えて欲しい。……大丈夫だから」
 
 その夜、どんなに宥めても、昇吾の腕に抱かれていても、美鳥の心の震えが止まることはなかった。
 

 
 初めての出社日から数週間。
 
 昇吾は数回、社に足を運んでいたが、かなりの確率で黒川玲子に捕まっていた。
 執拗な誘いを、そのたびに穏やかに断っているのだが、やはり彼女のプライドが許さないらしい。さすがに昇吾の忍耐力も限界が来そうで、バイト自体を辞めようかと思うほどであった。
 父親の力のせいもあるのか、学生のバイトでありながら、社のお偉い相手にも臆することなく渡り合っているように見える。あのお喋りな専務とでさえも、対等に話すほどに。
 
 その様子を遠目で見た時、昇吾は咄嗟に現場を回避し、遭遇しないように引き揚げようとした。その時──。
「小松崎くん」
 不意に後ろから声を掛けられ、絶望的な気分に陥った。仕方なく止まって振り返ると、堀内承子がおずおずと会釈する。
「堀内さん……」
「……あの……いつも玲子がしつこく誘ってごめんなさい。悪い子じゃないんだけど、ちょっと強引なところがあって……」
 玲子のフォローをしようとしているようだが、昇吾は皮肉っぽい笑いしか出せなかった。
(堀内さんは黒川玲子の本性……彼女が裏で何をやっているのかまでは知らないのか)
 ──であれば、仕方ないことではあるが。
「皆、それぞれ事情があるんだから、って言ってるんだけど……少しくらい大丈夫なはずだ、って言い張ってて……。まして、小松崎くんは大変なのに……」
「……いや、まあ……大変って言うか……」
 さすがに、詳しい事情を話すことは出来ず、言葉を濁すしかない。
「でも、すごいわよね、小松崎くん。病気の親戚の人を面倒見てるなんて……」
「…………え?」
 自分の頭を、まるで鈍器で叩かれたのかと錯覚する。
「……その話、どこで……」
「え、違うの?遠い親戚の人が病気で、お家で面倒を見てるって……」
 辛うじて声を出した昇吾に、承子が驚いたように、不思議そうに訊き返した。
「……一体、誰が……」
 当然だが、昇吾はそのことを誰にも話していない。そもそも、追及されると困るからこそ、人と関わらないようにしているのだから。
「……え、あの……玲子がそう言ってたんだけど……もしかして違うの?」
(……黒川玲子が……!?)
 昇吾の様子に、何か不穏な空気を感じた承子がオロオロし始めた。
「……やだ……私ったら…………ごめんなさい……」
 慌てて深々と頭を下げる。
「…………何で…………」
 だが、呟く昇吾の目にも耳にも、承子の様子は入って来なかった。逆に言えば、その状況は承子を更に慌てさせるには充分で、昇吾が自分に腹を立てて無視しているようにしか見えない。おとなしい承子は、泣きそうな顔で謝り続けた。
(……何故、黒川玲子がそんなことを知っている!?)
 
 茫然とする昇吾。
 そして、昇吾に謝り続ける承子。
 
 恐ろしい毒の棘を纏った花が、知らぬ間に背後に忍び寄っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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