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かりやど〔参拾壱〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
取り戻したと思ったものは
儚く消える幻のようで

取り戻したかったものよりも
深く哀しい想いだった

 
 

 
 

 まさに衝撃の朝──であった。
 
 その日、春さんが朝食の用意を終える頃、美鳥の様子を見に行こうとした朗──昇吾に佐久田からの電話。リビングの外で通話している昇吾はなかなか戻らず、どうやらすぐに終わりそうもない。
 長くかかりそうな様子。気を利かせた春さんが、代わりに美鳥を見に部屋へ向かおうとした時であった。
「………………!」
 リビングを出ようとした春さんは、言葉を失ってその場に立ち尽くした。後ろにいた夏川も口を開けて固まる。
「…………美鳥…………!?」
 佐久田との話を終え、リビングの方を向いた昇吾も驚きを隠せなかった。
 美鳥の姿は、いつもの徘徊のような出で立ちではなく、ちゃんと着替え、身支度も整えた様子が窺える。
 昇吾は、自分の方を振り向いた美鳥に近づき、震える手を恐る恐る伸ばした。触れたら溶けて消えてしまう夢に触れるかのように。
 美鳥の頬に触れ、夢ではない、と脳が認識した時──。
「おはよう、朗」
 美鳥が、しっかりと昇吾の目を見つめて言った。
「……美鳥……見えるのか?……ぼくのことが……わかるのか……?」
 声に反応した、と言う風ではない。近づく昇吾を、頬に手を伸ばす昇吾の目を、真っ直ぐに見つめ、言葉もはっきりしている。
「……最後に見た時より背が高くなってる」
 昇吾の頭を見上げる表情は、子どもの頃から見慣れた表情。
「………………!」
 昇吾は美鳥を強く抱きしめた。
「……ちょ……苦しい……朗……苦しいよ……」
 それでも弛まることのない腕の力。美鳥がモゾモゾと腕を動かし、昇吾の背中に回す。
「……美鳥……」
 感極まる昇吾に、美鳥は睫毛を少し伏せた。
「……いつから……」
 『見えていたのか』『周りの認識が出来るようになったのか』──続く言葉は出て来ず、涙だけが溢れ出そうになる。
「……今朝、目を開けたら、何か白いものが見えて……そしたら天井だった」
 思わず目を見開いた昇吾は、泣きながら吹き出しそうになった。
「……おかえり、美鳥……」
 それがやっと出せた言葉。
「……ただいま、朗……」
 美鳥も応えた。
 ふたりの姿に春さんが泣き、夏川も目を潤ませている。そして、昇吾の腕の中で身を捩った美鳥は──。
「春さん、お腹空いた」
 全員が呆気に取られ、そして笑った。
「ちゃんと玉子焼きも用意してありますよ」
 泣き笑いしながら答える春さんの言葉に、今度は美鳥が笑った。
 和やかな朝のひと時。
 
 偽りの平和だと、誰ひとり気づかずに。
 

 
 食事が終わり、何を話すでなく皆がリビングで寛いでいた。
 正確に言えば、誰もが何を話していいのか、何から話していいのか、もしかしたら何も話さなくていいのではないか、などと考えながら。
 だが、本当は話さない訳には行かない事もわかっていた。今までの事、これからの事、そして美鳥の記憶のどのくらいが確かで、どのくらいが不確かなのかも。
「先生。私、マンションに戻りたい。戻ってもいい?」
 そんな静寂を破り、唐突に美鳥が訊ねた。
「……美鳥さま……」
 夏川は驚いた。荒らされたマンション内のリフォームは既に済んでおり、確かにすぐに戻っても問題はない。部屋自体には。
「……正直に言えば、まだ反対です。美鳥さまの身体の事を考えれば、もうしばらくの間はここで療養して戴きたいと思っています。視力が戻ったとは言え、まだ戻ったばかりですし、体力的にも身体的にも、あまりに不安要素が多過ぎますから」
 それは医師としての率直な見解。であればこそ、美鳥も強くは出れずに俯いた。
「何故、そんなに早くマンションに戻りたいのですか?こことそんなに距離がある訳ではないんですよ?」
「……だって、昇吾が帰って来るから……」
 即答する美鳥に、全員が沈黙する。
 マンションに美鳥がいなければ、昇吾──朗がこの施設に足を運ばない訳がない。なのに、美鳥にとっては、『マンションで待たなければ意味がない』とでも言うのかのようだった。
 それほどに、三人で『普通』に過ごした短い日々。それが美鳥にとっては、何にも代えがたい特別なものであったのか──昇吾も夏川も迷った。──が。
「……週に二回は、こちらに戻って検査を受けると約束出来ますか?水曜日と、土日は泊まりがけで……それと、きちんと食事と睡眠と薬を摂る事、無理に動き回らない事も。それが守れて、とりあえず検査の結果に異常が出なければ継続的に認めます。外泊、と言う扱いで、ですが」
 少し考えた夏川が、躊躇いがちに提案した。
「守れる!ちゃんと守る!」
 ギリギリ妥協した案に、美鳥が飛び付く。美鳥の顔を見つめた夏川は、昇吾に視線を移した。
「……朗さま……」
 後は昇吾の決断に委ねるしかない。夏川の視線を受け、じっと考え込んだ昇吾は、ゆっくりと美鳥の方を向いた。美鳥が縋るような目で見ている。
「……周囲に親衛隊の警護を付ける事。そして、絶対に、どんなに近いところであっても、ひとりで出掛けない事……それも守れるなら……」
「……わかった。必ず誰かといる。それもちゃんと守るから……だからお願い……!」
 美鳥の懇願に、とりあえず二週間、様子を見て継続するかを決める事になった。身体的に、まだ心配である事は否定出来なかったが、とにかく目が見えるようになった、と言う点は大きい。
 
 美鳥にとって、三人で過ごした空間と時間が特別なものである事は事実だった。
 しかし──。
 
 美鳥が戻りたい最大の理由──真の目的は、誰も知り得る事はなかった。
 

 
 数日後。
 美鳥は朗──昇吾と共にマンションへ戻った。
 
 荒らされ、土足で入り込まれた室内は密かに片付けられており、新築同様になっている。
 あの事件の後、人質として春さんに鍵を開けさせた管理人は、ショックと恐怖のために退職してしまっていた。今は、元々いたもうひとりの管理人と、新しく来た管理人とで数人体制らしい。
 美鳥の事件を公にはしなかったものの、防犯対策の強化はされたようであった。それほどの効果が見込めるとは思えない表向きの事で、あくまでも素人レベルではあったが。
 
「……久しぶり。でも、良く考えたら、この部屋を見るのは初めてだったんだ、私……」
 室内を見回しながら美鳥が言う。美鳥のベッドも新しいものが入れられ、連れ去られた時の形跡は残っていない。
「……そうだね。何だかんだで、夏川先生の施設も、春さんの顔も、何もかもが久しぶりなんだな……」
 美鳥の後ろに立った昇吾を振り返り、その目を見つめた。昔より幾分、薄くなったグリーンの瞳。射竦められたように見つめ返す昇吾に、「朗の顔もね」とイタズラっぽく笑いかけた。
 少し困ったような目をした昇吾の胸に、ゆっくりと凭れて目を瞑る。
「……やっぱり、昇吾も同じくらいの背だった?」
 美鳥の質問に、昇吾は本当の朗の姿を思い浮かべた。
 背は同じくらいだった。ただ、離れていた期間に鍛えられたと言っていた身体は、昇吾より少ししっかりしていただろうか。とは言え、自分も本多に多少は鍛えられてはいたから、傍目にはわからない程度であったかも知れない、などと考える。
「……そうかな。ふたりともあれ以上は伸びないな、なんて言い合ってたら……ぼくはその後の一年で、また伸びた感じだった。……昇吾もそうかも知れない」
 聞きながら、美鳥の腕が背中に回され力がこもった。昇吾も緩く抱きしめる。
「……この胸に……この腕に……ずっと抱かれていたのに……背が伸びてたなんて気がつかなかった……」
 ひとり言のように洩らすと、不意に顔をあげて昇吾の首にするりと腕を回した。首を僅かに傾げ、美鳥の翡翠色の瞳が見上げて来る。
「………………!」
 息を飲もうとして止めた昇吾が、覚悟を決めて美鳥の頬に触れた。
(……朗が戻るまでは……ぼくは朗として生きるしかないんだったな……)
 更に重ねる決意。『昇吾の心』を凍らせ、かりそめの朗の心を以て、ゆっくりと美鳥に口づけた。
 
 美鳥の目が見えるようになり、ひとりで動けるようになったため、新しいふたりの生活もすぐに馴染んだ。
 美鳥は規則正しい生活をし、薬も昇吾の監視の元できちんと服用している。水曜日と土曜日には検査のために、夏川のところに行く約束も守っていた。
 
 ここに至り、昇吾は美鳥の事で後回しにしていた事──つまり黒川玲子への具体的な報復計画を再び考え始めた。
 緩やかな日々の生活を失いたくはなくとも、そのまま放置して忘れる事など、昇吾には到底出来ない。
 
 だが、そんな中、昇吾が行動を起こす前にことは起きた。
 

 
 ある日の夕方、珍しく美鳥が電話で話している。夏川か佐久田、春さんであろうと気にも止めなかった昇吾が、電話を終えた美鳥に夕食をどうするか訊ねた。
「今日は私が作る」
「えっ!?」
 美鳥の申し出に昇吾は仰天する。
「そんなに全力で驚かないでよ」
 不満気な美鳥に、
「……いや、だって……」
 不安気な昇吾。
 それも無理ない事で、生まれた時から傍にいるが、美鳥が料理をしているところなど一度も見たことがなかった。だが、今、自分は朗なのだ、昇吾としての意見を言ってはいけないのだ、と自分に言い聞かせる。
「……料理出来るの?」
 恐る恐る訊ねる。
「出来るよ」
 あっさりと答える。
「……食べても死なない?」
 半ば冗談、半ば本気で念を押す。
「ひっど!」
 美鳥がふくれた。
 困ったような顔の昇吾。それをムクれ顔で見上げた美鳥が、くるりと踵を返すとキッチンに向かう。
 料理をする美鳥の様子を、怖いものでも見るように、そして見張るように後ろで眺めていた昇吾は思わず息を飲んだ。
(……速い……上手い……!)
 見事な手際で作り上げて行く後ろ姿を、唖然としながら見つめる。
「……ん~……やっぱり久しぶり過ぎて鈍ってるなぁ……手が思った通りに動かない……」
 そう言いながらも、微塵切りも見事なものだ。大財閥の箱入り娘、本当に何も出来ないのではないか、などと考えていた自分に反省する。
「……美鳥はすごいお嬢様だし、春さんが付いてるから料理なんてしないと思ってた」
「その春さんと母様にメチャクチャ仕込まれたの。毎年やってた昇吾の誕生会のケーキとか、10歳くらいから私が作ってたんだよ。……あの年も誕生会してれば、朗にも食べてもらえたのにね」
 その言葉に昇吾は「え、あのケーキ!?」と言いそうになるのを必死で堪えた。確かに数年前からケーキの感じが変わってはいた事には気づいていた。だが、それも春さんが焼いてくれたのだとばかり思っていたのである。
(……そうか……あれ、美鳥が焼いてくれてたのか……)
 今さら知る自分が情けなかった。
「出来た!ゴハンにしよ」
 テーブルに並んだメニューは、イメージから洋食かと思いきや和食。白飯、味噌汁、焼き魚、煮物、和え物、香の物、と王道である。
「この煮物……春さんのに似てるけど違う……うまい……!」
「うん。煮物は母様に習ったから」
 などと、まるで昇吾と美鳥のような、和やかな会話を繰り広げながらの食事。
 それも終わり、リビングで寛いでいた昇吾の前に、湯気の立つマグカップが置かれた。
「ミルクティー」
 簡潔に説明し、自分もソファに座って飲み始める。
 美鳥が元気になった今、敢えてこの時間を壊したくない思い、このまま朗が戻って来るのを、ただ待っていたい思い、だが、それを許さぬ己の心。
 葛藤しながらカップを口に運んでいると、美鳥がうたた寝態勢に入っている。ため息をつきながらも綻ぶ口元。いつものようにベッドに運ぶ。
 抱き上げるとしがみつく子猿のような習性でもあるのか、美鳥は十中八九、昇吾を離さなかった。だが、今日は──。
「……もしかして、狸寝入り?」
 仕方なく添い寝したものの、美鳥の様子を訝しんだ昇吾の言葉に上目遣いで舌を出した。
「……困ったお姫様だ……」
「……ダメ……?」
 イタズラっぽく笑い、見下ろす昇吾の首に腕を回す。
「狸寝入りに騙されるなんて、修行が足りないな……」
 言いながら顔を近づけ、唇を重ねた。ゆっくりと深めて行く。
 
 だが、美鳥の吐息を飲み込みながら、昇吾は不思議な眠気に襲われた。
(……何だ……?……この感じ……?)
 必死に繋ぎ止めようとするも、知らぬ間に吸い込まれた意識。自分でも気づかぬ間に眠りに落ちていた。
「……朗……?」
 自分の身体を抱えたまま意識を失った昇吾に呼び掛ける。何の反応もない事を確認し、静かに腕の中から抜け出すと、手早く服を身に着けた。
 昇吾の身体を覆うように布団をかけ、そっと口づける。
 その時、美鳥の携帯電話に着信ランプが光った。音もバイブレーションも切ってあるのか、ただ、光だけが点滅している。確認だけした美鳥は、携帯電話をポケットに入れた。
 もう一度、昇吾の方を向き、しばらくその寝顔を見つめる。何を映しているのかわからない瞳。だが、その目に光を帯びた時。
 
 灯りを落とした美鳥は、ひとりでマンションを出て行った。
 
 
 
 
 
 
 
 

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