社内事情〔9〕~ざわつく心~
〔里伽子目線〕
*
軽井沢に向かう車の中、一見、課長の様子はいつもと変わらなかった。あくまで、一見、だけど。
運転している課長の横顔を盗み見ると、時折、前方に向けた視線が固く固く定まっているのを感じる。何を、どこを見ているのかわからないくらいに。
考えているのは、これから出席する定例会のこと?米州部の仕事のこと?
━それとも。
それとも、さっきのこと?さっきの、あの女の人の━。
*
思いもかけずに遭遇した、課長とその女の人が向き合う現場。
どうすればいいのかわからないまま、私は立ち尽くし、課長とその人の様子を見ているしかなかった。
(どうしよう……声、かけずらい……)
柱の陰で固まって様子を窺っている、なんて……覗き見で何か気分が重い。だけど━。
課長がしきりに後ろを気にしているのがわかる。あの感じは私に、早く来てくれ、って思ってるに違いない。
だって、課長にしては珍しく、背中から助けを求めてる感が溢れていたから。
私は演技力総動員で、さも走って来たように足音を鳴らしながら呼びかけた。
「片桐課長!お待たせして申し訳ありま……」
振り向いた課長の、その表情。ばつが悪そうでいて『助かった』と言う安堵感、そして、その中に妙に嬉しそうな様子が見え隠れしている。
「……し、失礼しました。お客様でしたか」
その言葉に、ホッとした様子で私を招き寄せた課長は、
「寄木さん。直属ではありませんが、海外営業部の今井です」
『その人』に私を紹介し、私の方に向き直ると、
「今井さん、こちらは以前、我が社の経理を担当されていた寄木さん……今はご結婚されて戸倉さんと仰るらしい」
気のせいなのか、「らしい」を心持ち強調するように紹介してくれた。
「海外営業部の方……そうでしたか。はじめまして。戸倉と申します」
目を細めるように、私の顔を見つめながらの丁寧な自己紹介。
「先輩でいらっしゃいましたか。はじめまして。アジア部の今井と申します」
私も無難に返す。
「そんな大層なものではありません。ほんの数年しかお世話になっておりませんから……。今は、海外営業部にも女性の方がたくさんいらっしゃるんですか?」
「米州部は男所帯ですが、現在は欧州部とアジア部併せて4名が所属してます」
課長が急いたように答えた。嬉しそうに頷く『戸倉さん』に、
「より……戸倉さん、申し訳ない。我々はこれから出張に出なくてはならなくて……」
そう告げる様は、早く切り上げたくて堪らない、課長の気配を肌で感じる。
……とは言え、私が口を挟む訳にも行かず、黙って二人のやり取りを見ているしかない。
「主人の用事で近くまで来たら、つい懐かしくて……お忙しいところ、お引き留めしてすみませんでした」
「いや、こちらこそ。久しぶりにお会いしたのに時間を取れず申し訳ない」
「とんでもないです。お会い出来て良かった。どうぞお気をつけて……部長たちにもよろしくお伝えくださいませ」
「ありがとうございます」
自己紹介と同じように、丁寧な言葉と会釈を残し、『戸倉さん』は去って行った。
後ろ姿を見送った課長は、突然、我に返ったように私の方へ向き直って目配せした。
課長が開けてくれた助手席の扉から車に乗り込むと、いつものように私が足を入れたのを確認して運転席に回り込む。
車が走り出した時、歩道の方を見ていた私は、タクシーを掴まえていたらしい『戸倉さん』が、走り去る私たちの車を静かに見ていたことに気づいた。
*
それから関越道、上信越道を通って軽井沢に向かう車中。
時折、以外はほぼ普段通りの課長で、たぶん他の人から見たら何ら変わりないだろう。
「寒くなったし、また帰りに温泉でも寄って来るか」
妙にウキウキした様子で切り出す課長。
「それはいいですけど……もう貸し切り風呂とかイヤですよ」
この間のことを思い出して釘を刺す私。
「里伽子~……そんなこと言うなよ。おれはそれを楽しみにしてるのに」
そんな会話もいつもと変わらないのに。
あの戸倉さん……寄木さんと言う人は、うちの社員だった、と言う以上に、課長とはどんな関係だったんだろう。
……もしかして、課長の昔の恋人?
その可能性がない訳じゃない。なのに、私は何故だか、その可能性に信憑性を感じないのだ。
戸倉さんの方は、例え今は結婚しているにしても、課長にひとかたならぬ心を寄せていたのがハッキリとわかる。社員として働いていた頃は、間違いなく課長のことが好きだったに違いない。
普通だったら、ここ、私がメチャクチャ疑うシチュエーションじゃない?それなのに、課長の方にはその気配を微塵も感じない。
課長から感じたのは。
『早く話を終わらせたい』
『早く離れたい』
『出来るなら会いたくなかった』
そのことばかりで。
もし、戸倉さんが課長の昔の恋人だったとしたら。
例えどんなことがあったにしても、かつて一度は大切に思っていた人に、課長があんな様子で接するだろうか。
私にはそこが引っかかる。
でも逆に、そうじゃなかったとするなら、じゃあ一体どんな関係だったのだろう。
ただの昔の同僚、と言う訳はない。何か……何かがあったに違いない、と思う。課長のあの様子は、少なくとも私は初めて見たから。
それが気のせいでなかったことは、その夜、定例会が終わってからハッキリとわかった。
と同時に、突然、戸倉さんが現れたその理由も知ることになる。
~社内事情〔10〕へ~
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