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社内事情〔22〕~内示~

 
 
 
〔片桐目線〕
 
 

 
 
 その日、珍しく藤堂が米州部に顔を出した。

 開口一番、おれに『ロバート・スタンフィールド』と言う名前に憶えがないか、と言う。

 しかし。どう記憶を手繰っても、その名前は記憶の中にはなかった。

 ━が、ファースト・ネームの『ロバート』と言うありふれた名前。忘れられない過去のひとつ、その当事者のひとりに、その名前の人物がいる。

 もちろん別人ではあろうが、その名前を聞いた瞬間、おれの脳裏に一番思い出したくない記憶のひとつが甦った。

 「……ロバート……か……」

 思わず洩れたおれの呟きに、藤堂が訝しげな目を向ける。

 「課長。心当たりがあるんですか?」

 「いや。スタンフィールドと言う名前には憶えはない。ロバートと言う名前には、昔……ちょっとな」

 おれの濁し方に、藤堂の目がその先を催促しているのがわかった。だが、この話は、藤堂に話す訳にはいかない。

 「……まあ、珍しくもない名前だ」

 そう言って、おれは強引に話題を打ち切った。

 その後、いくつかの情報を交換した藤堂が企画室に戻り、根本くんと二人だけになった時だ。

 「片桐課長。先ほど課長が仰っていた“ロバート”と言うのは、5年前のあの時の……?」

 彼らしい、控えめな切り出し方。

 根本くんは藤堂より長く……と言うよりは、今、いる営業の中で一番長くおれの傍にいる。その分、諸々の事情を熟知しているのは当然だろう。

 しかし、それは単に長くいるから、と言うだけではなく、彼の控えめでいて鋭い、理知的な部分も大きく関与している。

 「……そうだ」

 「……では確かに、藤堂くんには話せませんね」

 根本くんの言葉に、苦笑いでしか返すことが出来ない。

 「でも、いつか……話さなければならない時も来るのでは?」

 彼の言う通りだ。いずれ、そう言う日が来るかも知れない。いや、確実に来るだろう。

 「……そうだな」

 だが、それ以上の言葉は返せなかった。まさか、その時が間近に迫っているなどと、この時は思ってもみなかったから。

 「……課長。今さらではありますが、あの時、藤堂くんを手放さない方が良かったんじゃないですか?」

 静かな、それでいて強い声。

 「……そうかも知れないな。だが……」

 実際、今となっては根本くんの言う通りなのかも知れない。だが、あの時のおれには……。

 「……他の方法が浮かばなかったからな……ヤツらのやり方を考えたら、おれも手段を選んでる時間がなさ過ぎた……あの時は、な……」

 おれの言葉に、根本くんは寂しげに睫毛を下げた。その時━。

 「片桐課長!」

 朽木が急ぎ足でこちらに向かって来る。

 「おう、どうした?」

 「今、入り口でちょうど大橋秘書官とお会いして……課長に専務室に来てくれと」

 入り口まで来たのなら直接来ればいいものを……とは思うものの、まあ、いい。

 「わかった。……根本くん、あと頼む」

 「はい」

 おれはその足ですぐに専務室へと向かった。途中、林部長の執務室から出て来る里伽子を見かける。

 それ自体は珍しいことでもない。だが、何となく顔付きがいつもと違う気がする。だからと言って、声をかける間はなかったのだが。

 気になりつつ、おれは専務室へと急いだ。

 「あぁ……片桐くん、急にゴメンね~」

 いつもと変わらない専務のテンション。この事態にあっても、この状態を保っていられると言うのは、ある意味では大したもんだと思う。

 「いえ……何かありましたか?」

 おれの質問に、専務は少しばかり表情を引き締めた。見れば、何故か大橋も微妙な表情を浮かべている。

 「片桐くん。今回のことが全て解決したら、なんだけど……」

 専務の歯切れが珍しく悪い。

 「はい?」

 「また、アメリカへ赴任してもらいたい」

 「……は……」

 この部署にいて、おれの立場なら当たり前の話。なのに何故か、一瞬、躊躇して返事が出来ない自分。

 何故か、二人がおれの顔を窺うように見つめて来る。

 (何だ?)

 だが、今はそれどころじゃなかった。

 「……ああ、はい……了解しました」

 おれの返事に、顔を見合わせた二人がホッとしたような安堵の表情。

 「出来れば来春には、と思ったけど、この調子だと秋口になるかも知れないね」

 「まあ、ではそれは状況しだいと言うことですね?」

 「そうだね。早いとこ片を付けたいけどねぇ」

 淡々と会話を進めながら、おれの脳裏に浮かぶのは里伽子の顔。

 ついに、来るべき時が来てしまった。
 
 
 
 
 
~社内事情〔23〕へ~
 
 
 
 
 
 
 
 

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