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かりやど〔四拾弐〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
それが運命ならば
 
他の道を選んだつもりでも
辿り着く場所はきっと同じ
 
 

 
 

 美鳥がマンションに戻ると、扉を開けてすぐの壁に朗が寄り掛かり、立ち尽くしていた。
 
「……朗……?」
「……翠(すい)……」
 顔を上げた朗が、怯えた目で美鳥を抱きしめる。
「……もしかして……あれからずっとここにいたの……?」
「……心配で……」
 抱きしめられた指から伝わる、微かな震え。
「……大丈夫だって言ったのに……」
 痛いほどの想いを感じ、美鳥が睫毛を伏せた時、その腰を引き上げるようにして朗が口づけて来た。手が早急に動く。
「……朗……待って……待って……私、まだ……」
「……いい……このまま……」
 
 朗の腕は、そのまま美鳥を離さなかった。
 

 
「副島は、きみの知りたい事に答えたのかい……?」
 腕の中に抱えた美鳥に問う。
「……うん……」
 少し間を開けて答えると、朗が心配そうに顔を覗き込んだ。
「……何かあった?」
 黙り込む美鳥。その様子が不安を煽ったのか、朗の表情が再び翳る。
「……知らなくても良かった事を……知っちゃった……」
 朗の不安を読んだのか、ポツリと呟いた。
「………………?」
 言うか言うまいか迷っているのか、それとも、どう話そうか迷っているのか。美鳥は考え込むように再び黙り込んだ。朗はじっと待った。
「……私の代わりに死んでしまった……私の遺体として処理されてしまった子は……」
「……本当の美薗さんの事……?」
 頷いた美鳥は、朗の胸に顔を埋めた。息を吸い込む。
「……副島の娘、だって……」
 朗の腕に力がこもった。
「……そうだったのか……」
 今、その娘の名を名乗っている美鳥。戸籍すらも。その心情を慮ると言葉が見つけられず、ただ抱きしめるしかなかった。
「……でも、知りたかった事も確認出来たから……」
「……うん……」
 その声音に、知りたくて堪らない、でも美鳥の方から話してくれるまでは聞かない、と言う気持ちが詰まっていた。『待つ』と言っていた通りに。
 
 少し考え、身体を起こした美鳥が朗と向き合う。
「……朗……」
「……ん……?」
 朗も半身を起こして訊き返した。
「……松宮は血が広がりにくい家系だ、って話……覚えてる?」
 一瞬の間の後、神妙な顔になった朗が完全に身を起こした。冷えないよう、美鳥の身体をシーツで包む。
「……覚えてるよ……」
 脳裏を駆け巡る、『あの時』の夏川と美鳥の会話。堪え切れずに男泣きした夏川の姿。
(……忘れるはずもない……忘れられる訳がない……)
 美鳥の思わぬ強さと、壊れそうな儚さ、そしてどこかに行ってしまいそうな怖さ……それを同時に感じた日。何よりその日は、朗が初めて美鳥に触れた日でもあった。
「……歴史だけは長かった松宮家だけど、本当に細く細く、何とか繋がって来た家なんだって」
 美鳥は記憶を辿るように話し出した。
「それでも何とか途切れる事なく続いて来て……でもきっと、近年の大きな状況の変化に、お祖父様は不安になったんだと思う……財閥、としての松宮家の存在意義に……」
「……だから、きみも『天が松宮家を必要ないと判断した』と……?」
 朗自身も振り返り、記憶を手繰る。
「……それもある……」
「……それ……も……?……他にも何かあるのかい?」
 歯切れの悪い言い方に、話し辛い何かがあるのだろう、と朗は判断した。
(これ以上は敢えて訊かない方がいいのか……?)
 だが、美鳥は再びポツリと話し出した。
「……これは世代の問題もあるから、どちらがいいとか悪いとかじゃないんだけど……お祖父様の生まれ育った時代を考えたら、やっぱり自分の代で、自分が生きている間に、松宮が終わってしまったら、って言うのは重圧だったんだと思う」
「……でも、きみのお父さんが……陽一郎おじさんが正統な後継者としていたじゃないか。おじさんは周囲にも認められている立派な人だったと……高校生だったぼくでも感じていた」
「……うん。でも、父様はある部分に関してだけは、お祖父様と正反対の考えだったから……」
「ある部分?」
 美鳥が頷く。
「……父様は何て言うのか……全て自然に任せる、じゃないけど、後継ぎとか、家とか、そう言うものに躍起になるお祖父様とはちょっと一線を画していて……そこだけは合わなかったみたいで、よく言い争っていたのは憶えてる。他の事では普通にうまく行ってたんだけど……」
 二夏を過ごしただけではあるが、確かに陽一郎は美鳥が言うような雰囲気を纏っていた、と朗は思う。そして、美鳥の母親である美紗も。
 
 朗は先代の松宮昇蔵氏の事は知らない。だが、陽一郎夫妻は財閥の当主夫妻とは思えないほどに気さくで朗らか、何より家族を含め、使用人に至るまで周囲の人間を大切にしていた。
 
 それよりも、この話がどこにどう繋がるのか、それが朗には気になった。ここまで話すと言う事は、話の流れとして、美鳥にとっては必然な事であるのは理解出来る。ただ、朗には行き先が見えなかった。
 
「……父様がまだ結婚する前……うんと若い時に、かなり精密な技術が開発されたって聞いたお祖父様が……」
「……ちょっと待って。……何の技術だって?」
 朗の質問に目線を下げる。言いにくそうに目線を動かすと、聞こえないほど小さな声が洩れた。
「…………の…………」
「……え……?……何……?」
 目を合わせないまま、キュッと唇を噛む。
「……冷凍保存……精子とか卵子の……」
 朗の瞬きが止まった。口も半開きになるが、言葉は出て来なかった。
「……心配したお祖父様が、父様の遺伝子を保存しようって考えたみたいで……もちろん、賛成とか反対とかって言うのは個人の考え方の問題だから、私にはどっちがどうとか言えない……今でこそ病気治療中の人のための、なんて選択肢もあるくらいだから……でも当時は、まだそこまで浸透してないし、それでなくても当然父様は反対で……断固、拒否だったらしくて……」
 どう言えばいいのか迷っているのであろう。ポツリポツリと断片的に話す美鳥に、だが朗の方も、何と言えば良いのかわからないでいた。
「……それが、父様が大学生の時に母様と知り合って、交際が始まって……母様が卒業したら結婚したい、って父様は思ったらしくて、その話をお祖父様にしたら…………」
「……反対された……?」
 美鳥の言葉が途切れたため、朗の方からあり得そうな展開を質問する。
「……ううん。……条件を出された、って……」
「……条件……?」
「……万が一に備えて、父様と母様の遺伝子を保存しておくこと、を……」
「……え……じゃあ……」
 朗の脳裏には、それが美鳥の出生の秘密なのか、と言う考えが過った。朗の表情からその疑問を読み取ったのか、美鳥が首を振る。
「……私はそう言う方法で産まれた訳ではないんだって。結婚して何年も経って、もう諦めかけた時に産まれた、って……ただ……」
「……ただ……?」
「お祖父様の出した条件に、もちろん父様は反発して大喧嘩になったんだって。自分だけでなく母様にまでそんな事をさせるのか、って。お祖父様はお祖父様で、じゃあ子どもを授からなかった時は他の女性の卵子を使ってもいいのか、みたいな言い争いになって……父様は相手は母様以外には考えられない、って言って、お祖父様は相手の女性はともかく、とにかく父様だけでも受け入れないなら認めない、って言って……終いには父様が松宮を出るとまで言い出して……」
 松宮夫妻の結婚にそんな経緯があったとは、朗には到底信じられなかった。信じられなかったが、本当の事なのだろう、とも思う。
「……結局、事態を収めたのは母様のひと言だった、って……」
「……おばさんの……?」
 朗は美紗の様子を思い返した。あの人がどんなひと言で周りを得心させたのか、と。
「……母様はお祖父様に面と向かって、平然と言ったんだって。『その程度の事でいいんですか。そんな事で、陽一郎さんと自分の事を認めて戴けるのなら、私は構いません』って。やっと母様に事の次第を告げる事が出来た父様は隣で驚いて、向かいにいたお祖父様も驚いて、傍にいたお祖母様だけが平然としてた、って」
(……あのおばさんが……)
 朗は、女性の強さ、そして陽一郎に対する愛情の強さに感心するしかなかった。
「それで結局、父様も折れて……でも父様からもお祖父様に条件を出して……ふたりが自然に子どもを授かるのが無理な年齢になるまでは、絶対にその方法を使わない、って。お祖父様も納得して、それでふたりは結婚したんだけど……」
(時間がかかっても、それで美鳥を授かったのなら、もう問題はなかったんじゃないのか?)
 朗が心の中で密かに考えた時、美鳥が再び下を向いた。
「……だけど……その後すぐに、それが盗まれたって……それは間違いだったらしいんだけど……。それから何年も経って、私が産まれる何年か前にも盗まれたって内々で騒ぎになったらしいんだ……」
「……何だって?」
「でも結局、また間違いだった、って父様が直々に声明を出して、それきりその話は出なくなったんだって……」
「……おじさんが?」
 頷いた美鳥が朗の腕を握り、額を胸に押しつけた。
「……父様はたぶん……犯人を知っていたんだと思う……だから……」
 朗はその言葉の裏にある可能性を考え、美鳥を腕で包んだ。あり得る可能性、それは━━。
「……きみと血を分けた人が、この世の中にいる可能性が……?」
「……今の話は推測だから何とも言えない……でも問題なのは、兄弟がいるとか、いないとか、そんな事じゃない……もし盗まれたのが間違いじゃなくて本当の事だったとしたら……」
「……したら……?」
 腕の中で、美鳥が身体の向きを変えた。朗の胸に背を預け、回された腕に手を添える。
「……財閥の存在意義、だけの問題じゃなく……ただでさえ行き詰まっている松宮の意志……当主である父様の摂理に反する意識が生じた事が……必要ない、と天に判断される理由、だったんだ……きっと……」
「……翠……?」
 美鳥の言わんとしている事は、今の朗が理解するには難し過ぎた。
(……松宮の意志……?……それに反する意識が生じた……どう言う意味なんだ?それよりも、おじさんはそこまで美鳥に話していたのか?あの頃、まだ美鳥は中学生か……下手したら小学生だぞ?子どもに話すような内容じゃないだろうに……)
「……朗……」
 困惑が伝わったのか、美鳥はもう一度朗に向き直った。
「……たぶん、それが今回の事件の本当の黒幕……」
 美鳥の目を見つめ、息を飲む。しかし、翠玉の中に感情の揺らぎはなく、見つめる朗の瞳の方が困惑を顕にしていた。
「……こんな面倒くさい家、だったんだよ……松宮家は……」
 反して美鳥は、半ば自虐的な笑みを浮かべた。
「……だから父様は……」
「……え……?」
「……ううん……何でもない……」
 朗の胸に凭れて目を閉じる。
(……まだ何か、肝心な事を話してくれていない……自分で抱えたままなんだな……美鳥は……)
 それがわかっても、それ以上は訊けなかった。
(……今はもう止めておこう……また少しずつ訊いて行けばいい……)
 一度に話させるには重過ぎる話だった。反芻させて良いものなのか迷いも生じる。
 
「……朗……」
「……ん……?」
「……ごめんね……」
 意味がわからず、一拍の間。
「……何が……?」
「……私が……『松宮美鳥』で……」
 言いながら顔を伏せた。何故、美鳥がそんな事を言うのか、朗にはわからなかった。だが、頭に浮かぶ言葉はただひとつ。
「……きみが『松宮美鳥』でなかったら、ぼくには意味がない。きみにとって、ぼくが『小松崎朗』では意味がない?」
 俯いたままの美鳥が首を振った。
「……ならば同じだ」
 
 下を向いたまま、美鳥が小さく頷いた。
 

 
「……先生?さっきから何をお考えになっているんです?」
 春さんの呼びかけに、夏川はハッと我に返った。
「いや、すみません……大した事じゃないんですよ」
「お疲れなんじゃないですか?医者の不養生にならないようにしてくださいよ?」
 春さんの言葉に苦笑いが浮かぶ。
「……肝に命じます」
 出て行く春さんの後ろ姿を見送り、夏川は再び己の思考と言うベッドに潜り込んだ。
 
 思い出していたのは、四年ぶりに戻って来た朗と話した時の事であった。
 
「……朗さまが……ご存知だったとはなぁ……」
 ひとり言が洩れる。
(……それでも……)
 朗の真剣な顔が脳裏に甦った。
(……どこまでおれに出来るか……)
 美鳥、昇吾、朗……三人共に幸せになって欲しい、それだけが夏川の望みであった。
(……まだおれは……陽一郎さまへの恩も返し切れていない……)
 
 目を閉じ、夏川は遠い過去へ、そして三人の未来へと思いを馳せた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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