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かりやど〔弐拾伍〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
どんなに運命に抗おうとしても
 
その運命自身も変わりようのない
その運命としてしか存在しない
 
 

 
 

 本多たちが必死の捜索を続けるも、10日ほど経っても朗が戻ることはなかった。
 
 長丁場を覚悟をした昇吾は、これまで通り美鳥に気を配りつつ、朗の生活をそのまま引き継ぐ決意をも固める。つまり、朗として生きる──それこそが、昇吾の覚悟の最たるもの、であった。
 
 昇吾が目をつけたのは、朗が最後に見ていたパソコンの画面であった。
「……黒川製薬社長令嬢、堀内建設社長令嬢、柳沢……そして須田の息子の学校……バイト先まで……」
 どうやら朗は、大学同士の交流があるサークルか、アルバイト先に入り込むつもりでいたらしい。何とか接点を持つために、アルバイト先へのエントリーシートまで用意してある。
「……朗……」
 ならば、その足掛かりを無駄にしたくはないと、まずはサークルの方を調べてみた。こちらは特に接点を持てそうになかったが、
(……このバイトの内容……)
 入り込もうとしていたバイト先には、何か足掛かりになりそうな気配。同時に、朗が良くパソコンに向かっていた理由も理解出来た。
(……なるほど。朗は多才だな)
 デザイン、製図、情報収集に処理、資料作成……自分の従兄弟ながら感心する。そして、情報を共有すると共に、色々なことを教わっておいて良かったとも思う。
「……これは……伯母さんの影響か……?」
 昇吾はグループ会社の跡継ぎとして、経営や経済、そしてある種の帝王学など、そう言った方面の教育は重点的に受けていた。
「……エントリーしてみるか……」
 手っ取り早く目的に近づけるのなら、この状況から解放されることにも繋がる。
 昇吾は、データの入力や処理、整理などを行なうバイトにエントリーシートを送った。後は先方からの返事を待つしかない。
 
 そして、もうひとつ、しなければならないことがあった。
 それは、朗の母である伯母・斗希子にだけは真相を話しておかねばならない、と言うことである。
 それにしても、何と報告すればいいのか──。
『朗はぼくの身代わりになって行方不明です』
 それで済む話ではない。さすがに昇吾も気が重かった。それでも言わない訳にはいかない。
 きっと罵倒されるだろう。殺されても文句は言えない、と思いながら伯母に連絡を取った。もちろん、朗の名に於いて、である。
 
 春さんに美鳥のことを頼み、指定された時間に伯母を訪ねた。
 伯母の顔を見た瞬間、握り締めた拳に一気に汗が浮き上がる。だが、何と切り出せばいいのか、言葉を探す昇吾の顔を見た途端、伯母の方から切り出した。
「……朗に何かあったんだね、昇吾」
「………………!」
 思わず息を飲む。
 黙ったまま顔を見つめる昇吾に、斗希子は優しい笑顔を向けた。
「気づかないとでも思った?あんたも私にとっては息子みたいなもんなんだよ、昇吾」
「……伯母さん……」
 下を向き、昇吾は唇を噛んだ。
「……申し訳ありません、伯母さん。……ぼくの身代わりで朗が……行方がわからなくなってしまっています……もしかしたら、もう……」
 やっとの思いで絞り出した言葉に、斗希子は目を瞑って答える。
「私はそうは思わないよ」
 昇吾がゆっくりと顔を上げた。斗希子の顔を凝視する。
「朗があんたを探すと言い出した時から、実際にここを出るまでの間に、私は出来得る限りのことを仕込んだ。詰め込んだと言ってもいい。それこそ、松宮家の親衛隊の力まで借りて、大抵のことは乗り切れるように、生き延びられるように。ある意味、両家の血をバランス良く受け継いでいるからね、あの子は」
 声も出せず、驚いた顔のまま立ち尽くす昇吾。
「そして、ここを出る時、あの子は私たちにこう言った。『この先、自分の身に何があったとしても諦めて欲しい。もう小松崎とは関係ないものと思って欲しい』ってね。先回りして言ったつもりなんだろうけど……バカバカしい」
 斗希子は笑った。
「確かに、今はまだ小松崎の名が介入する時じゃない。だけど息子や甥を……そのふたりが命懸けで守りたいと思うものを支援するのに、何の不都合があるって言うのか……だからね……朗にもあんたにも、私から言うことはこれだけだ」
 昇吾の真正面に立ち、斗希子が顔を見上げる。
「あんたたちが守りたいものを大事におし。ただし、絶対に最後の最後まで諦めるんじゃないよ。何があろうと可能性を捨てるんじゃない。私たちがいることを忘れるんじゃない。私は朗のことも諦めちゃいない。そして昇吾……あんたの未来も、ね」
 そう言うと、斗希子は昇吾を抱きしめた。
「いいね?わかったね?」
「…………はい…………」
 涙で言葉になっていなかったかも知れない。それでも斗希子は昇吾の背中を叩いた。
「信吾のことは、私が何とかするよ」
「…………はい…………お願いします…………」
 もう、それしか答えられなかった。
 

 
 伯母への報告が終わってすぐのこと。
 バイト先からの返事が届き、自分が作ったものを何点か送るように指示される。恐らくはレベルの確認だろう。
 このバイトの良いところは、自宅で行える、と言うことが第一にあった。時には社に顔を出さなければならないが、基本的は人と顔を会わさずに済む。とは言え、ターゲットには直に接触する必要があるため、出社日には顔を出すつもりでいた。だが、そもそも採用されなければ意味がない。
「……さて……どんな奴らかな……」
 写真でしか知らぬ仇に思いを馳せる。そして、その子どもたちは?自分たちの親の、裏での行ないを知ったらどんな顔をするのだろう?己のしたことを後悔する様を見たら?
 必ず、自分たちの犯した罪がどんなものなのかをわからせてみせる。美鳥が失ったものが戻ることはなくとも、せめてもの償いをさせてみせる。そう決意した時──。
「…………朗…………」
 昼寝をしていた美鳥が、目を擦りながら起きて来た。
「……翠……気分は?」
「……ん……大丈夫……。…………昇吾はまだ帰って来ないの?」
 一瞬、言葉につまる。
「……ああ……まだ帰って来ない。だけど大丈夫だ。必ず無事に戻る。昇吾がきみを置いてきぼりにするはずがない」
 朗を装おい、平静さをも装おいながら答えると、
「…………うん…………」
 頷いて手を伸ばし、声のする方に近づいて来ようとした。立ち上がろうとする昇吾に、
「……大丈夫だから、そこにいて……」
 そう言って壁やテーブルを伝いながら、ひとりで昇吾に辿り着こうとしている。
 昇吾はその場に立ち、ただ待った。
「……気をつけて……」
 感覚と言うのは不思議なものである。微かにも見えることがない頃は、聴覚など他の感覚が研ぎ澄まされるのか、それとも『見えない感覚』に慣れるのか、室内の状況にも早く慣れることが出来ていた。ところがぼんやりとでも、例え一度でも見えてしまうと、その感覚は一気に薄れてしまうものらしい。
「……いた!……朗……!」
 指先が触れると、嬉しそうに昇吾の腕に飛び込み、安心した顔でくっつく。
「……掴まったか……」
 見下ろす昇吾の顔が弛む。頭を撫でながら背中を抱くと、見上げた美鳥が首を傾げた。
「……何かあったの?」
「えっ?」
 じっと昇吾を見つめる目が、実は見えているのではないかと錯覚しそうになる。
「……ちょっと……怖い顔してる……」
 ハッと胸を掴まれ、息を飲み込んだ。
「……バイトのね……データの作成が思ったより難しかったんだ……」
 咄嗟についた嘘。バレているかも知れない……美鳥には。だが、本当のことは言えない。
「…………そう…………」
 そう言って見上げたまま、伸ばした腕を昇吾の首にするりと巻き付けた。昇吾にはわかる、美鳥なりの励まし。
「大丈夫。もう、出来たよ」
「……ホント?」
 まだ心配そうな美鳥の目。
「ああ。そろそろお茶にしようと思っていたところ。ミルクティーでも飲むかい?」
「…………うん」
 美鳥を椅子に座らせ、キッチンで大きめのヤカンを火にかけようとする。──と。
「……翠……?」
 いつの間にか近づいて来た美鳥が、昇吾の背中にしがみついた。
「……危ないじゃないか……キッチンで……」
 やんわり窘めると、前に腕を回して背中に顔を埋める。強く言い過ぎたかとヒヤリとする昇吾に、
「……どっか行っちゃう気がして……」
 ポツリと呟いた。
 どんなに傍にいても、例え抱き合っていても、どうやっても不安に苛まれ続ける小さな身体が堪らなく不憫になる。美鳥の手を外して向き直り、やんわりと抱きしめた。
「そんな訳ないだろう?」
 だが、昇吾の胸に顔を埋めたまま、しがみついた手を離そうとしない。
 美鳥にも、自分が足手まといである自覚が当然あり、だからこそ「いなくなってしまいたい」と言う気持ちが湧く。いつ、どうなっても構わないと考える一方で、不意に生じるひとりでいることへの本能的な恐れや不安──その矛盾こそが、より美鳥を混乱させていると言える。
 そして、これは朗──本当の昇吾──にしても、同じことが言えた。
 本当ならば、昇吾──本当の朗──が消息を断った後、夏川の施設に戻ろうと考えていたのだ。誰かと顔を合わせるリスクを考えても、その方が美鳥にとっては安全だからである。昇吾の中にも、意識している『失いたくない』と言う気持ちとは別物として、漠然とした『美鳥を失うことへの恐れ』があった。
 前にも増して、ひとりでいることが困難になった美鳥とふたりきりでは、突然の外出は出来ない上、何かあった時の対処法がなさ過ぎる。夏川と春さんに、毎日通ってもらうのも難しい。
 ところが、これには当の美鳥が首を縦に振らなかった。
『昇吾が帰って来た時に誰もいなかったらどうするのか』と言い張る。
 夏川のところで合流出来ると説明しても、頑として譲らなかった。
『……私がひとりじゃ何も出来ないせいだってわかってる……わかってるけど……でも、昇吾を置いてここを離れるなんてイヤ……!』
 必死の懇願。それならば、しばらく様子を見て、どうしても無理そうなら移動する、と言うことを約束させたのである。
「……朗……朗……お願い……」
 背中に回された指が、必死にシャツを掴む感触。強く抱き返してから片手で頬を撫でた。
(……そんな目で見ないでくれ、美鳥……)
 潤いを帯びた瞳に見つめられ、昇吾は目を逸らしそうになる。
 苦しさを堪え、唇で美鳥の額に触れた。次いで口づける。シャツにぶら下がるようにしがみつく美鳥の背を抱え上げ、何度も触れる。
「……ごめんなさい……」
 やがて、美鳥は頬を撫でる昇吾の手に自分の手を重ねた。
「……何を謝ることがある?」
「……だって……私のせいで……私がここに残りたいなんて言ったから……」
「……きみがそう思うのは当たり前のことだ。ここで昇吾を待っていたい……正直に言えば、ぼくだって同じ気持ちなんだ。だけど……」
 見上げる美鳥が続きを待っている。
「昇吾がいない今、ここで何かあった時に自信がないことも事実だ。だから、もし無理そうなことがあったら、その時は翠……」
「うん……わかってる……」
 美鳥は頷いた。
「……その時は……夏川先生のとこに戻るから……」
 俯いた美鳥の手が、今度は昇吾の胸元を握りしめる。返事の代わりに、昇吾はもう一度強く背中を抱きしめた。
 
 漸く、少し落ち着いて来た美鳥であったが、先日の一件以来、夜、かなりの頻度で昇吾のベッドにもぐり込んで来る。腕の中で眠る顔を見ながら、昇吾はいつも葛藤していた。
 昇吾にとっては、美鳥は『女』ではない。女として見るには、かなりの無理を要求される。それは美鳥のことを、生まれつき男として見ていなかった、見ようとしていなかった、見ては行けないとすら思っていたことも関与している。
 朗として生きる限り、今さら美鳥を拒めるはずもなく、自身の軽率さに自己嫌悪するばかりであった。
 それでも、朝までずっと眠っていてくれればいいのだが、寝しなや朝方、もしくは夜中に、ふいに弾かれたように目を覚まし、昇吾の存在を確かめるかのように触れて来るのだ。昇吾の腕の中で眠っているのに、である。
 そのたびに昇吾は、優しく、そして辛抱強く美鳥を宥め、時には望むように包み込んだ。昇吾の名を呼び続ける美鳥を。
 さすがに『自分のことを呼んでいる』と思えるものではなく、それでも美鳥のために、美鳥が望むように朗として振る舞う。
 
 いつか、自分が必要なくなる日が来ると信じて。
 本当の朗が戻ると信じて。
 

 
 その間、他の方法での情報収集も怠ってはいなかった。
 本多たちも何とか足掛かりを作ろうとしてくれていたが、やはりそれなりの立場にいる人間の懐には、簡単に入り込めるものではない。素性を知られないようにしているため、難航するのは尚の事であった。

 一方、昇吾の作成したデータの試作品は、先方を大いに唸らせ、「ぜひに」の一文が添えられ、すぐに採用内定の通知が届いた。
 簡単な面接のため、一度だけ社に足を運び、その場で採用の裁可が下された。後は敵との、正確には敵の息子や娘との接触の機会を待つ。必ず来る、出社義務の時を。
 黒川製薬社長と堀内建設社長の娘と関われば、いずれは須田や柳沢の息子たちとも接触する機会がある、と言う目算である。
 そのことを報告すると、さっそく本多は娘たちのことを調べて報告書を上げて来た。それによれば、堀内の娘は真面目でおとなしいが、黒川の娘は裏では相当危険なことをしていると言う。学生とは思えないような裏の繋がりまで。
 黒川の娘自身が目的なら話は別だが、そうでないのなら、敢えて危険なことに深入りする必要はない。
「くれぐれもご用心ください」
「わかりました。迂闊に深入りはしないようにします」
 本多の言葉に気が引き締まる。
 
 数日後、出社日の連絡が来た。待ち兼ねた顔合わせである。挨拶の後、歓迎会になだれ込むようで、今回、採用になったメンバーは全員揃うらしい。
 その日、美鳥のことは春さんに頼んであり、万が一に備え、夏川もいつでも駆け付けられるよう態勢を整えておく、と言ってくれていた。
 
 かなり広い会議室。
 昇吾は、ずらりと揃った社員一同に目を走らせた。だが、相当な人数が犇めき合う室内で、顔合わせと歓迎会の境目も良くわからない。胸につけたプレートを見なければ、社員とバイトの区別もつかなかったが、若い女性を目指していれば、いずれ黒川と堀内の娘にもぶつかるだろう、と様子を窺う。
「おお!きみが小松崎くんか!」
 突然、昇吾は40代くらいの男に声をかけられた。驚いて振り返ると、男はニコニコと愛想良く笑いながら捲し立てる。
「人事の方から話は聞いているよ。すごくデキるんだって?ぼくは一応、この社の代取で専務の肩書をもらっている田中。ぜひ、頑張ってくれたまえ」
「……あ……あの、小松崎朗です。このたびは採用して戴きありがとうございます……」
 昇吾が自己紹介するも、最後まで聞かないうちにペラペラとしゃべり、あっという間にいなくなった。
(……あんな専務で大丈夫なのか……?)
 父の元にいた専務を思い浮かべ、つい比べてしまう。
(……まあ、ぼくの会社じゃないし……)
 余計なお世話だと考え直し、全体が見渡せる隅の方に立っていると、
「あなたもバイト?」
 横から女の声。振り向くと、声の印象通り、見るからに自信ありげで気位の高そうな顔付き。昇吾のことを、まるで値踏みするように見通す目付きも気になる。
「……ええ。資料作成と情報処理の部署ですが……」
「そう。あたしは広報の方なの。彼女は商品製作。若い人ならバイトかなと思って声をかけたんだけど……学生?」
 美人ではあるが不快感は拭えず、何とか堪える。
「……そうです」
 女の隣には、陰に隠れるようにして、存在すら希薄な女がもうひとり。昇吾が目を向けると、おとなしそうな印象そのままに控えめな会釈。声をかけて来た女の毒々しい華やかさと比べれば、地味過ぎるほどであるが、むしろ昇吾にとっては普通に感じられた。
「あまり会うことはないだろうけどよろしくね。あたしは黒川玲子。こっちは堀内承子よ」
「………………!」
 まるで自分の持ち物のように、人の名前の紹介までしたが、昇吾にとって重要なのはそこではない。
(……黒川……!……堀内……!……このふたりが……!?)
 言葉を失った昇吾に、意味ありげな上目遣いを向けて来た。
「あなたは?」
 波立つ気持ちを必死に抑える。
「……小松崎です……」
 昇吾が名乗ると、黒川玲子は妖しい笑顔を向けた。
 
 深入りするつもりはなかった相手に、深入りされるなどとは思いもよらず──。
 
 恐ろしい相手との出会いだった。
 
 
 
 
 
 
 
 

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