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何よりも引きとめる〔後編〕

 
 
 
(……生きてる……?)
 薄っすらと目を開けた曽野木(そのぎ)は、見覚えのある天井に、まずそう思った。
(……何故、助かったんだ……?)
 ふと、人の気配を感じて傍らを見る。小春(こはる)が突っ伏して眠っており、ベッドサイドには曽野木の薬、そして注射器のセットが置いてあった。
「…………?」
 不思議に思い、眠っている小春の顔を覗き込もうとするも、自分の身体のあまりの重さに断念する。何とか手だけでも動かそうとし、それも諦めた。それでも、傍らで眠る気配を感じるだけで、意外なほど安心している自分に気づく。
(……名前を呼ばれたと思ったのは、気のせいじゃなかったのか……)
 
 それを自覚した途端、再び抗えない瞼の重さ。曽野木はそのまま、微睡みの中へと意識を漂わせた。
 

 
 天気が崩れる前に買い出しを済ませるため、小春は急いで車を走らせた。長引くかも知れない、と言う予報に、食料を三日分ほどまとめて仕入れる。
 品物を車に運び込んだ時には、まだ顔を覗かせていた太陽が、走り始めた途端に陰り出し、急激に強まった風が雨脚をも早めた。フロントガラスに当たる雨音が激しさを増し、小春は慎重に、しかし帰路を急いだ。
「……この天気……」
 心の奥に巣食う、ひとつの不安。何事もないよう祈りながら、曽野木の家に着く頃には完全に嵐になっていた。
 玄関先に車を停め、急いで荷物を運び込む。少し張り出している軒のお陰で、小春も荷物もそれほど濡れずに済んだ。
(曽野木さん、雨戸を閉めてくれたんだ)
 室内が薄暗いため、食材を仕分けながらでもすぐにわかる。異変を感じたのは、居間の灯りを点け、ソファに無造作に置かれた曽野木のバッグが目に入った時であった。
「………………」
 小春は反射的に二階へ上がった。部屋と言う部屋が暗いため、全て閉めてくれた事はわかったが、肝心の曽野木の姿が見当たらない。仕事中、自室に籠もっていれば珍しい事ではないが、それにしてはバッグを階下に置きっぱなし、と言うのが引っ掛かった。
「……曽野木さん?」
 部屋の扉をノックするも返事はない。
「曽野木さん?今、戻りました」
 嘔吐感のように、胃の腑から競り上がって来る嫌な予感。
「曽野木さん?入りますよ?」
 扉を開けた小春の目に飛び込んで来たのは、身体を丸め、うずくまるようにベッドに倒れている曽野木の姿だった。
「曽野木さん!」
 飛びつくように抱え起こし、必死で呼びかける。
「曽野木さん!曽野木さん!」
 反応のない曽野木の手首で脈を取り、辺りを見回す。
「曽野木さん!薬……薬は……!?」
 机の上にも、ポケットを探っても、それらしき物は見当たらない。はっと思い当たった小春は、そっと曽野木を横たえて階下へ走った。置きっぱなしのバッグの中身を探ると、もらって来たと思しき薬の袋。水と薬を持ち、再び二階へ駆け上がった。
「曽野木さん、もう少し我慢してくださいね」
 声をかけながら、気管支に流れ込まないよう慎重に薬を飲ませる。飲み下したのを確認し、小春は自分の部屋へと駆け込んだ。引き出しから箱を取り出し、曽野木の部屋へ取って返す。
 そっと箱を開けると、そこには注射器と薬液、そして神屋(かみや)医師の文字が書かれた紙切れ。慣れた手付きで自分の手と曽野木の腕を消毒した小春は、躊躇う事なく注射を施した。
 薬で痛みが和らいだのか、曽野木の身体が少し弛んでいる。ベッドに寝かせて布団をかけると、小春は受話器を手に取った。
「……あ、戸川(とがわ)さん?すみません、崎坂(さきさか)です。あの、神屋先生は……」
『崎坂さん?神屋先生なら先ほど往診に出られて……この嵐ですし、お戻りの時間は何とも言えないです。……何かありましたか?』
 戸川は神屋の元に長くいる看護婦で、曽野木が初めて訪ねた際、受け付けにいた女性である。
「どちらのお宅に行かれてます!?連絡は取れませんか!?」
 小春の声に切羽詰まったものを感じたのか、息を飲んだ戸川の声が変わった。
『先方のお宅に、まだいらっしゃるか訊いてみますね。救急車の手配はどうします?』
「……いえ……たぶん、神屋先生じゃないと……」
 その言葉で全てを察したのか、戸川は一旦切ります、と受話器を置いた。
 小春は曽野木を楽な格好にさせ、様子を確認しながら戸川からの連絡を待った。実際には15分ほどしか経っていないはずなのに、待つ時間とは何故こんなにも長いのか──心の中だけが高速で渦巻く。
 ──と、沈黙を破る音。
「……曽野木でございます!」
『小春ちゃん?』
 引っ手繰るように受話器を取ると、聞こえて来たのは男の声。思考が一瞬固まる。が、覚えのある声に、名前が反射的に口から出る。
「神屋先生!」
 戸川かと思いきや、神屋本人からの電話であった。
『戸川さんから話は聞いた。今、往診先で電話を借りてるんだ。彼の様子は?』
「薬を飲ませて……発作から少し時間が経っているようだったので、先生からお預かりした注射も使いました。今は落ち着いているように見えます」
『そうか。薬で治まるようなら大丈夫だろう。とは言え、しばらくは目を離さないで……本当なら救急車で病院に運んでおいた方がいいんだが……実は今、嵐で通りが冠水していて復旧の目途が立たないらしい。それでおれも戻るに戻れないんだ』
「……えっ……」
 思わぬ情報に不安になった小春の心情を読んだのか、神屋は自信ありげな声で続けた。
『救急車でグルグル迂回させるよりは、ベッドで安静にしていた方がいいのは間違いない。苦しそうなら、前の投与から二時間以上空ければ薬を使って大丈夫だから』
「……はい」
『一応、救急の方も、いつでも動けるように待機させておく……まあ、道が通ってくれない事にはどうしようもないがな。おれも動けるようになったら、直接そちらに向かうから……それまで頼んだよ、小春ちゃん』
「はい……!」
 小春は規則的に脈を確認し、唇に水を含ませた。幸い、曽野木の容態は安定しており、昼間から緊張を強いられた小春は、夜が更けた頃には浅い眠りに落ちていた。そのため、曽野木が一度目を覚ましたのに気づく事もなく──。
 
 小春が目を覚ました時も、雨戸のせいで部屋の中は暗闇のままであった。そのため、夜なのか朝なのか判断はつかない。
 そっと曽野木の様子を確認すると、規則正しい穏やかな寝息。ほっとして見た時計は、五時少し前を指していた。ぼんやりとする頭で、曽野木に視線を戻す。
 
 微睡みの中、小春はずっと夢を見ていた。
 曽野木の家政婦として働いて欲しい──そう神屋から頼まれた時の夢であった。
 

 
『……えっ、私がですか?』
『そう。ちょっと心配な男みたいでね。本人は既に達観しているようなんだが……本当なら目を離したくなかったらしいんだ。しかし、引っ越すというのを無理やり引きとめる事も出来んしな。それでも状態を考えたら、看護知識がある人の方が安心だし……』
 言葉を切ったものの、何か言いたげな様子の神屋に、小春はじっと続きを待つ。
『……ひとりで死なせたくない、と……矢内(やない)がな……』
『……矢内先生が……!?』
 神屋は翳りのある目で小春を窺い見た。
『……弟を思い出すんだと……』
 小春が身体を強張らせた事に気づきながらも、ポツリポツリと続ける。
『……顔や性格が似ている訳じゃない、なのに、何故か同じような雰囲気を纏っているんだ、と……』
 黙って聞いている小春の手が震えた。
『おれはさっき、“達観”って言葉を使ったが、正確に言うと少し違う。矢内の言い方だと、恐らく“諦め”“怖れ”の方が近いだろう。失う事、死ぬ事に対してじゃない……失わせる事への恐れ、なんだそうだ。だからこそ、誰かに最期を見てやって欲しい、と……』
 下方一点を見つめる小春の指が、何かを求めるように動く。
『……小春ちゃんには、酷な事を言ってるのはわかってる。だけど、何とか頼めないだろうか……?』
『……神屋先生……』
『医者としては、もう彼を救う事は出来ない……矢内もおれも。だが、人として何か少しでも出来るのであれば、惜しみたくない』
 小春が息を飲んだ。思考を巡らせているのか、目線が左右に動く。
『……わかりました。どこまで出来るかわかりませんが……お受けします』
 顔を上げた小春は、真っ直ぐに神屋を見つめて答えた。
『ありがとう、小春ちゃん。万が一の時、医療行為を行なえるように、おれの方で手続きはしておくから』
 

 
(……何か出来ているのだろうか……私はこの人に……)
 寝顔を見つめながら反芻する。だが、どう考えても家事しかしていない、と思う。もちろん家政婦なのだから、それは必要十分な条件ではある。しかし、それが神屋が言うところの『何か』になっているのか。神屋が、そして矢内が望んでいる『何か』であるのか。
 何より、自分は本当に『仕事』として全う出来ているのか──今となっては、己の心すらわからなくなりかけていた。
『自分に出来る限りは、支えて行きたい』
 支える、などと烏滸がましいとも小春は思う。ほんの『手助け』程度だろうと。それでも、『手助け』でもいいから、もしも曽野木が手助けを必要とした時には、いつでも手を差し伸べられるよう、傍にいてやりたいとも思うのだ。
 いつの間にか湧いたその気持ちが何なのか、考えれば考えるほどわからなくなる。
 人としての情けなのか。
 それとも、かつての経験の成せるものなのか。
 ──と、その時。
「……あ……」
 小春は思わず声を洩らした。曽野木の瞼が微かに震えた事に気づいたのだ。
「……曽野木さん?」
 呼びかける声に反応したのか、曽野木がゆっくりと目を開けた。
「……小春さん……?」
 消え入るように掠れた声。
「……良かった。痛みは?どこか苦しくないですか?」
 声を出すのが辛いのか、曽野木は僅かに首を振って否定した。だが、何かを言おうと唇が動いている。
「曽野木さん、今は休んで。嵐が収まったら神屋先生が来てくださいますから……」
 声すら出せない事で諦めたのか、頷いた曽野木は再び目を閉じた。それを確認し、小春は雨戸を少し開けて外の様子を確認する。雨脚は収まって来ていたが、道路が復旧しなければ神屋が来てくれる事は望めない。
 窓を閉め、カーテンを引く。
 まだ薄暗い窓際で溜め息をつくと、曽野木の手が何かを求めるように、僅かに宙に浮いたのが目に入った。唇に水を含ませてやる。
 そっと曽野木の手を握り、神屋が来るのを待つしかないと腹を据えた。
 
 二時間ほど経った頃であろうか。玄関のベルが鳴り、飛び跳ねるように立ち上がった小春は階段を駆け下りた。
「小春ちゃん。遅くなってすまない。ようやく復旧したよ。……曽野木くんの様子は?」
「一度、目を覚まして……そのまま、また眠りました。それからは目覚めていません」
 階段を上がりながら、手早く説明を聞いた神屋は頷き、曽野木の枕元に腰かけた。胸元を開けるよう小春に指示して脈を取り、血圧などを確認する。
 
 一通りの診察を終えると、二人は階下に移動して話す事にした。
 徹夜明けであろう神屋は、疲れた表情を浮かべながらも、小春が淹れたコーヒーに口をつけてほっとしたように息を洩らした。
「躊躇わずに薬を使ってくれたお陰で、しばらく安静にしていれば大丈夫な程度で済んだみたいだ。ありがとう、小春ちゃん」
「……いえ、そんな……薬が効いてくれなかったらどうしようかと思いました」
 謙遜する小春が、手早く作ったサンドイッチを前に置くと、神屋は大喜びで手に取る。
「ありがたい!腹ペコだったんだ。小春ちゃんのサンドイッチ、旨いからなぁ」
「……え?私、先生にはサンドイッチなんてお作りしたこと……」
 子どものようにパクつく神屋に、小春は記憶を手繰った。医師たちに差し入れと称して、料理を届けた事は何度かあったが、そこにサンドイッチを入れた記憶はない。
「……昔な……つまみ食いさせてもらったんだ……」
 目線を下げながら答える様子に、誰のためのサンドイッチをつまみ食いしたのか、小春は瞬時に理解した。だが、互いに触れてはいけない事であるかのように、それきり口を閉ざす。
「……さて、そろそろ病院に戻らないと……また、時間が空いたら様子を見に来る。何事もなく、このまま落ち着いてくれればいいし……とにかく、完全に動けるようになったら病院で検査しよう」
 片手でサンドイッチを口に運びながら、もう片方の手で曽野木の容態をメモしている。
「……先生……」
 小春が呼びかける。
「……うん?」
 メモから顔を上げず、手元を見ながらの返事。
「……先生は仰ってましたよね」
「……ん?」
「私に、曽野木さんの家政婦として見てやって欲しい、と仰った時です」
 神屋の手が止まる。書き込みをしていたメモから目を離し、身体ごと小春の方に向き直った。だが、口は挟まずにじっと聞いている。
「曽野木さんは、人に失わせる事を恐れている、って……」
「……ああ……」
 思い出した神屋が頷いた。実際には、神屋は矢内の見解を伝えただけであるが。
「……曽野木さんが無意識に恐れているのは、失わせる事、じゃないと思います」
「……ん?」
「……曽野木さんは、自分を引きとめる存在が現れる事、作る事、が怖いんです……たぶん……」
「………………!」
「……私にはそう思えます。……だって、失わせる事を怖れているのは、むしろ私の方だから……偉そうかも知れませんけど、失う事の意味と現実を知っているから、他の人には失わせたくない、って……それとは違う……何となく違いがわかるんです……」
 小春の横顔をしばらく見つめた神屋は、その言葉に対する答えは何も残さないまま、病院へと戻って行った。
 
 昼を過ぎた頃には、嵐は完全に通り過ぎていた。
 他の部屋の雨戸を開け、小春が戻って来ると曽野木の瞼が反応する。
「……小春さん……?」
「無理に動かないで、曽野木さん。痛みはありませんか?」
「……痛みはないが……重くて腕も上がらない……」
 小さい声ながら、さっきよりはハッキリと答える声。
「無理して動こうとしないでください。しばらくは安静ですよ」
 それでも曽野木は、すぐ傍についた小春の手に、指だけを持ち上げて重ねた。
「……すまない……迷惑かけた……」
 その手を握りながら小春が感じたのは、曽野木の中で起こっている変化。いや、曽野木だけではない、とも思う。

 はっきりと変化を感じながら──厳密に言えば、変化したのではなく、今までは現わす事を良しとしなかった事、であるが──それを言葉で言い表わす事は出来ず、小春はただ、自分の仕事へと没頭した。
 

 
 曽野木の体調は程なく回復し、いつもの日常が戻った。
 もちろん、それは表面的な日常でしかなく、実際には深層に隠していた本心に気づかされ、曽野木は自身に対してすら慄いていた。
 これほどまでに、自分の心が小春の存在に依存している事に。
 これほどまでに、当たり前の人間らしい生活を渇望していた事に。
 そして何より、それに気づかないフリをし、自ら背を向けていた事に。
 
 全てを自覚した曽野木は、ついに切り出した。
「小春さんは……医療に携わっていた事があるんですか?」
 曽野木の前に、淹れたてのコーヒーを置いた小春の手が止まる。
「……いや……この間、おれに施してくれた処置が、とても素人とは思えなかったから……」
 小春は黙って傍に腰かけ、両手で包んだ自分のカップの表面を見つめた。その様子に、訊いてはいけない事を訊いてしまったかと、曽野木が慌てて弁明する。
「……あ、いや、いいんだ……無理に訊きたい訳じゃなくて……」
「……昔……若い頃に看護婦をしていました……」
 話し始めた小春を、曽野木は黙って待った。
「……その時、同じ病院でお世話になっていたのが神屋先生です」
 神屋が小春の事を保証する、と自信満々に言い切った理由がわかり、納得すると同時に湧き上がったのは新たな疑問。
「……何故、看護婦を辞めたんです?」
 小春の癖なのか、何かを考え込む時、何かを求めるように指を動かす事に曽野木は気づいていた。今まさに、小春の指はそのように動いており、曽野木はただ待った。
「……神屋先生が目をかけていた……後輩だった先生が亡くなったからです……」
「……?……」
 話の繋がりが読み切れず、曽野木が首を傾げた時──。
「……結婚しようと……言ってくれてた人でした……」
 放たれた言葉に息を飲んだ。
「……危険なのを承知で派遣医師団に志願して、神屋先生や皆が止めるのも聞かずに行ってしまい、生きて戻る事はありませんでした……」
 だが、その言葉の通りなら、『結婚歴がある』と言う説明は当て嵌まらない。
「……それで……しばらくは仕事に没頭していたんですけど……やっぱり現場で他の先生の姿を見るのが苦しくて……違う仕事をする事にして……」
「……その人が小春さんのご主人だったんですか?」
「……違います。結婚しない内に死んでしまいましたから。その後、何年か経って、神屋先生から同期だと言うお医者様を紹介されて……私の主人はその先生の弟でした。神屋先生も実の弟のように可愛がっていて……」
 何気ないたった一つの質問。それがまさか、小春の過去を全て掘り起こす事になるなどと、曽野木は考えてもみなかった。訊いておきながら、逆に言葉に詰まる。
「……ご主人は……」
 訊いてはいけないような気がした。それでも、訊かずにはいられない自分がいた。
「……亡くなりました……」
 キュッと手を握りしめ、それでも小春は変わらぬ声音で答えた。
 ある意味、予想通りの返答に、曽野木は言葉を探す。見つからない、迷路の出口を求めて彷徨うように。
「……主人はカメラマンでしたけど、医師だった彼と同じような理由です。今、世界で起きている事を知ってもらわなければならない、と……矢内先生や神屋先生が止めるのも聞かずに……」
「……ちょっと待って。矢内先生って……」
 聞き覚えのある名前。しかも、そうそういる名前ではない。
「そうです。曽野木さんの、東京での主治医だった矢内先生です。私の主人は先生の弟です」
「………………!」
 更なる驚きで声が出なくなり、俯いた小春の横顔を凝視する。
「……じゃあ、崎坂、と言うのは……」
「……旧姓です。主人が皆の静止を振り切って行ってしまった時……引きとめる事が出来なかった時、もしもの事があったら戻そうと決めていました。それからです……今の仕事をするようになったのは。この仕事を紹介してくださったのも、元々は神屋先生の奥様でした」
(……と言う事は……)
 曽野木の疑問は腑に落ちた。つまり、小春は初めから、曽野木の身体の状況も全て知っていたに違いないのだ。恐らくは、曽野木を心配した矢内から神屋に話が行き、気を利かせて小春を自分の元に差し向けてくれたのだ、と。
「……全部……知っていた……?……おれの事……」
「……はい。曽野木さんが初めて神屋先生のところから出て来た時、すぐにわかりました。……この人だって……あそこは、曽野木さんのような患者さんしか出入りしないところなので……」
 一瞬の間の後、小春は答えた。
 曽野木は曽野木で、初めて神屋と会って病院を出た時に、自分を追い抜いて行った自転車の人物がいた事を思い出した。あれが小春だったのだと、今さら思い当たる。
「……何故、こんな事を引き受けてくれた?」
 もちろん看護婦であったのなら、患者との別れを数多く経験してはいるだろうとは思う。それでも、必ずいなくなるとわかっている相手の世話など、いくら仕事と割り切っていても、したくはないだろうとも思える。まして、別れを繰り返して来た身なら尚の事。
「……ひとりで死なせたくない、と言う、矢内先生のお考えに賛同したからです。……例え何であれ、人として出来る事なら惜しみたくない、と言う神屋先生のお考えにも……」
 そう言って顔を上げた小春は、真っ直ぐに曽野木の目を見つめた。囚われたように、射竦められたように、曽野木は目を逸らせなくなっていた。
(……見なければ良かった)
 真っ直ぐ過ぎる視線を、無防備に受けてしまった瞬間、激しい後悔が突き上げて来る。かつて感じた事がない程に。
 油断した一瞬、針のひと穴ほどの隙を突くように向けられたその眼差しは、どんな事があっても二度と湧くはずのなかった『後悔』と『動揺』の感情を甦らせた。
 そんな曽野木の心の内を読んだのか、
「……だからと言って私は、自分に何が出来る、なんて考えてはいません。それに、最初に大切な人を止められなかった時……彼を喪った時から、どうにもならない事はしないと……とめられない人をとめようなんて考えないと、もう決めていました」
 眉ひとつ動かさずに言い放った小春に、そのひと言に、曽野木は気圧された。
「……それでも……」
 目を逸らし、小春が言い淀んだ。
「……それでも……?」
「……考える時はあります。考えても仕方ないのはわかっていても……あの時、彼を引きとめる方法は、本当にもうなかったのだろうか……他に何か言える言葉があったんじゃないだろうか、って……」
 小春自身は気づいていなかったが、その言葉は己が今、迷っている証でもあった。その感情は、曽野木と出会ってから湧き上がるようになったものだから。その事に、曽野木が気づいた訳ではなかったが、偶然か必然か、『その時』がふたりの間に訪れた。
 曽野木は次の瞬間、自分でも予期せぬ言葉を口から発していた。
「……もしも……もしも、引きとめて欲しい、と言ったら……こんな身勝手なおれでも引きとめてくれるだろうか……?」
 小春の全てが止まる。その様子を見て初めて、曽野木は己が口にした言葉の意味を自覚した。しかし、後悔しても既に手遅れでもあった。
 互いに言葉が出ぬまま、無音の時が流れて行く。
「……私の言葉は……曽野木さんの引きとめになるんですか……?……私はあなたを……引きとめる存在なんですか……?」
 無限のように感じた数秒の後、冷めたコーヒーの表面を見つめたままの小春の問い。握りしめたその指先が、微かに震えているのを認めた曽野木は、考えるより先に掴んだ腕を引き寄せていた。
「……何よりも……」
 曽野木の腕にすっぽりと包まれ、小春は身動(じろ)ぎひとつしない。
「……今までにあった何よりも……」
 まるで溺れているかのように、曽野木の心は小春にしがみついていた。心を委ねる前に過去を聞いていたのなら、きっと言い出す事は出来なかった──そう、はっきりと自覚してもいた。けれど、今、この段階になって知ってしまっても、もう留める事は出来なかった。
「……ほんの数ヶ月……数日かも知れない……いや、もう今日で終わってしまってもおかしくない……それでも……」
 大きく息を吐き出す。
「……おれが死ぬまででいい……おれが死ぬ時、曽野木小春でいてくれないだろうか……?」
 小春が大きく息を吸い込んだ。繋ぎ留めようと力の入った曽野木の指が震える。
「……本気ですか……?」
「……本気だ」
 ほんの僅かな逡巡の間が、曽野木には拷問のようでもあった。
「……条件があります」
「……条件?」
 緊張で身を硬くした曽野木が、鸚鵡のように訊き返す。
「……私が……私が死ぬ時も、曽野木小春のままでいていいのなら……」
 今度は曽野木が息を飲む番だった。前の夫が死んだ時には、躊躇いなく旧姓に戻った、と聞いたばかりであったから。
「……お返事は?」
 だが小春は、それ以上曽野木が迷う事を許さなかった。
 ふたりの間には、余分な時間は残されておらず、迷いが最大の後悔の種になる事を小春は知っていた。だからこそ、己の中の迷いも取り払い、自分の感覚に全てを委ねた。
「……もちろん、はい、だ……」
 そんな気迫を感じながら、他の返答など出来るはずもなく、操られるように答えた曽野木の耳に、
「……ならば……私も、はい、です……」
 唯一、望んだ答えが飛び込んで来る。
 万感の想いと共に、曽野木は小春を抱きしめた。腕の中に収まるほど小さな身体。その持ち主は、迷いの心を持ちながらも、全てを包み込む大きさも持ち合わせていたと、曽野木はその瞬間に気づかされた。
 
「……小春……」
 自分を呼ぶ声に、今度は小春が曽野木を胸に抱きしめた。
 

 
 何度も危ぶまれながら、そのたびに持ち直した曽野木が旅立ったのは、それから一年足らず後の事であった。
 
 ふたりが自分たちの事を報告していたのは、神屋と矢内、そして曽野木の勤め先の責任者の三名だけであり、見送りは静かに行なわれた。
 曽野木の望み通り、全ての事後処理を終えた小春が、神屋の元を訪れた。
「先生、いろいろとありがとうございました。次の勤め先の事までお世話くださって……」
「……いや……おれの先輩が主治医をしている家だから、身元は確かだし心配いらないよ。先方からの要望も確かな人を、って事で、小春ちゃんならどこに紹介しても安心だからね」
「……そんな……」
 謙遜するところが小春らしく、神屋の顔が弛む。
「ところで、曽野木くんの遺骨は散骨したんだって?」
「……はい。それが本人の望みでしたから。……土に、水に、風に還れば、私がどこにいようと傍に行けるから、って……」
 それを聞き、神屋は視線を翳らせた。
「……小春ちゃん、すまない……」
「……先生……?」
 小春が不思議そうな顔をする。
「こうなる事が薄々わかっていて……矢内もおれも……小春ちゃんにまた同じ思いをさせてしまった。どんなに引きとめても、無理だとわかっていて……」
 小春は首を振った。
「……引きとめてもらったのは、むしろ私の方です。私には……私では誰も引きとめる事は出来ない、って思っていましたから……」
 小さく微笑んだ小春の左手には、サイズの違う同じ指輪がはめられている。
 切なげにそれを見た神屋もまた、曽野木と同じように小春の強さに感心するばかりであった。
「……それじゃあ、そろそろ行きます。先生も医者の不摂生はダメですよ」
「……気をつけます」
 そう言って最後に笑い合う。
「気をつけて。……たまには顔を見せてくれな。ウチのやつも寂しがってるからさ」
「はい。必ず……」
 神屋の見送りを受け、会釈した小春は前に向かって歩き出した。
 
 終の仕え先となるはずの場所へ。
 
 
 
 
 
〜おわり〜
 
 
 
 
 
 ***
 
 
 
※1980年前後の設定です。2002年3月以前の話なので、『看護師』ではなく『看護婦』の名称を使用しています。
 
 
 
 
 
 
 
 

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