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かりやど〔参拾八〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
夢は現か
現が夢か
 
 

 
 

 謎の視線、その主を引きずり出すべく、美鳥はあちこちに単独で外出した。
 
 カフェ、ショッピングモール、街中、公園……その何れにも気配を感じる。姿は見えずとも。
 伊丹から何の報告もない、と言う事は、やはり彼は気づいていないのである。それが美鳥には不思議でならなかった。
(……怪しい気配が私の周りをうろついていたら、伊丹が気づかないはずないんだけどなぁ……)
 ──と言う事は、つまり、怪しい気配ではないか、伊丹より上手だと言う事になる。だが、美鳥は気づいた。見られる事に慣れているせいもあるかも知れないが、それだけではない気もする。
 そもそも、昇吾が傍にいた時には感じた事がなかった。
「……出て来ないか……ん~……どうしようかな……」
 いくらひとりで出歩いていても、一向に引っ掛かって来る様子はない。カップ片手に、書類に目を通しながらひとり言を呟く。
「……絶対に気のせいじゃないと思うんだけどなぁ……作戦を変えるしかないか……」
 書類を放った美鳥は、携帯電話を手に取った。
 

 
 作戦を変えた美鳥は、伊丹を伴って出かける機会を増やした。それも、端からは恋人同士にでも見えるように。
 困惑したのは伊丹の方である。
「……あの……美鳥さま……少し離れて戴けませんか……」
「何で?」
「……いや……何で、と言われましても……少々くっつき過ぎてはいないかと……」
 伊丹の態度は、むしろ美鳥の悪戯心を煽るものだった。楽し気に口角を上げると、伊丹の腕に自分の腕をするりと絡ませる。顔は露骨に困っていても、立場上、振り払うことも、ましてノリで抱き寄せる事も出来ない。
 結果、固まったぎこちない動きになり、それが美鳥の笑いを誘う、の繰り返しであった。
「伊丹って、奥さんも彼女もいないの?……ああ、いたらこんな仕事出来ないか。でも本多さんは確か奥さんいたはず……」
 伊丹の腕が微かに強張る。その理由を、実は美鳥は知っていた。
「……同じ道を辿るとは限らないよ」
 その言葉に、伊丹の視線が美鳥の横顔を見下ろす気配。それを知ってか知らずか、美鳥は口元を緩めて伊丹の腕を抱えたまま歩き続けた。
「……何を考えていらっしゃるんです?」
 未だ硬直から解けてはいないが、口調だけは平常に戻った伊丹が訊ねる。ちらりと見上げた美鳥は、しかし笑うだけであった。
 伊丹にも、美鳥がただ面白がってやっているのではないのはわかっている。それでも、美鳥を窺う気配に気づいていない事が、その判断に影響していた。
 
 伊丹との外出を何度か繰り返したある日、ついに美鳥はその『気配』を感じた。
(……来た……!)
 唇が花開くように微笑む。
(……どこ……?)
「……美鳥さま?」
 カフェで話しながら、気配の出所を探っている美鳥の様子に伊丹が気づき、不思議そうな顔をした。
「何?」
「何かお探しですか?」
 そう言うところは鋭いのに、と心の中で美鳥は笑う。
「……別に?人っていっぱいいるなぁ、と思って」
 誤魔化しながらも気配の先を辿っていた美鳥は、悪戯っぽく笑って立ち上がった。
「美鳥さま?」
「……ちょっと化粧室」
 そう言い、伊丹の肩に手を置いたかと思うと、いきなり唇のすぐ横に口づけた。
「………………!」
 伊丹が目を見開いて固まる。もちろん、唇には触れていないものの、傍から見ればキスしているように見えなくもない絶妙の位置。美鳥は艶やかに微笑み、茫然としている伊丹を残してその場を離れた。
 その時──。
(……いた……!)
 遠目に、さりげなさを装おって離れて行こうとする男の姿。
(…………?憶えがない……誰……?)
 歳の頃は三十代半ばから後半くらいであろうか。これと言って目立つ風貌ではない。だが、その目立たなさといい、動きといい、むしろ美鳥の意識を刺激した。
(……本多と張るくらいの男かも知れない)
 敵意も悪意も感じないものの、油断ならない雰囲気に警戒心が働く。同時に、伊丹では気づきにくいかも知れない、と納得もした。
(……って事は……あれは『本人』ではないって事か……私を見張りたがっている誰か、に雇われたプロって事ね……)
 それならそれでやりようがある、と心の中で笑う。あのタイミングは、恐らく美鳥が男とキスしていた事を報告に行ったのであろう、と推測し、伊丹のところへ戻った。
 
 その後も、美鳥は伊丹と親しげに振る舞い続け、わざと部屋に長く滞在させたりもした。
 伊丹には一向にその理由がわからないようで、頼りになるのかならないのか、さすがに美鳥にもわからなくなって来た。とは言え、だからどうこうしようと言う気もなかったが。
 それでも、伊丹の方は穏やかではない。自分の主である美鳥が、一体、どう言うつもりでこんな事をしているのか──知りたいと思うのは当然であった。
「……美鳥さまは、朗さまがいずれ戻られる、と仰っていましたが、それは根拠があっての事なのですか?」
 自分を部屋にやたらと滞在させる美鳥に、ある時、伊丹が訊ねた。美鳥が上目遣いで伊丹を見る。
「……根拠って……戻って来るから戻って来る。それだけだよ」
 伊丹にとっては答えになっていない。
「美鳥さまは朗さまの事をお好きなのではないのですか?」
「好きよ」
「ならば、何故……」
 こんな事をしているのか、と言う言葉を飲み込んだのは容易に想像出来た。
 そして、伊丹が言う『好き』の本当の意味に、美鳥が気づいていないはずもない。本当の答えなのか、とぼけているのか、伊丹には判断がつかなかった。
 そもそも、伊丹が見ていたのは『朗のふりをしていた昇吾』であって、実際には本当の小松崎朗を知っている訳ではない。つまり、美鳥が『好きよ』と言った『朗』が、どちらの『朗』を指しているのかも知る由がないと言う事である。
「……ならば、伊丹は何でわざわざこんな仕事をしてるの?」
 論点をはぐらかそうとするかのような質問返し。内心、納得は行かないものの、やはり立場上は無視する訳にもいかず、かと言って即答出来る答えを持ち合わせてもいなかった。
「……確かめるためじゃないの?そう言う生き方、が出来るものなのか」
 代弁するように呟いた美鳥に、伊丹はハッとしたように顔を上げる。
「……でも、人はひとりひとり違う。その人には出来ても、自分には出来ない事もあるし、その逆もあるよ」
 そう続け、美鳥はこの話題を一方的に打ち切った。何事もなかったように書類に目を通す美鳥。その横顔を見つめ、伊丹は自分の中にある答えを探したが、明確な答えは見えて来なかった。
「……ところでさ……」
「…………は…………」
 切り替えた美鳥に突然声をかけられ、慌てた返事が中途半端に洩れる。
「副島の家族関係……もちろん裏の方だけど、何か出た?」
「あ、はい……所在の程は未だ不明ですが、どうも外にも子どもがいるようですね」
「良くある話だけど、ここまで隠し通せるってのもすごいもんだね」
 やはり他人事のように言い放ち、思い出したが如く、ひとりでふわりと笑った。
「引き続き調べさせて。絶対に何かあるはずだから」
「わかりました」
「……それから……」
 立ち上がろうとした伊丹の動きが止まる。
「今夜はここで夜明かしして。何ならあっちの部屋のベッド使っていいから」
「………………!」
 息を飲んで固まりながら、頭の中を『理由』として挙げられる例が駆け抜けて行く。
「……何か、御身に危険を感じる事でも?」
 一番無難でいて、あり得そうな『理由』を提示すると、美鳥は口角を上げるだけであった。
「……ちょっとね……確かめたい事があるだけ。別に襲わないから心配しなくていいよ」
 冗談めかして言う様子に、『本来ならこっちの台詞だろう』と心の中で突っ込む。だが、冷静に考えれば先日キスされたばかりである。もちろん、唇の横に、ではあるが。
「……では、ここで待機させて戴きます」
「ここで?明日、佐久田さんとこ行くんでしょ?寝不足じゃ本多さんに叱られるよ?ベッド使いなよ」
「……とんでもない事です」
 あくまで、『立場』と言う小さな枠から少しもはみ出そうとしない融通の利かなさに笑いそうになる。
「……まあ、じゃあ、このソファでも使えばいいよ。おっきいし、伊丹でも寝れるでしょ?」
「……ありがとうございます」
 納得が行かない表情のままの伊丹に、美鳥は毛布を持って来て手渡した。
「明日、本多さんに叱られないようにね」
 念を押して自分の部屋に引き上げる美鳥の後ろ姿を見送りながら、心の中で『この事がバレた方がヤバい気がする』と伊丹は慄く。
 が、確かに寝不足や風邪などひいたら言い訳も出来ないと思い直し、毛布に包まって浅い眠りへと落ちて行った。
 
 翌朝、リビングのソファで伊丹が目を覚ますと、キッチンから音が聞こえて来る。
「……美鳥さまは……料理なんてされるんですね」
 キッチンを覗いた伊丹は、美鳥が起きた気配に全く気づかなかった己にショックを受けつつ、料理をする姿に、より驚いた。必然的に、初めて料理を作ると言った時の朗━━昇吾と同じ反応になる。
 美鳥は美鳥で、やはり『大財閥の令嬢』は料理などしない、と言うのが一般的な認識なのか、と小さく笑う。
「もう出来るよ。そっちで座ってて」
「えっ!?」
 主である美鳥が、まさか自分の朝食まで用意してくれているなどと想像出来る訳がなかった。
「昨日、そこにいてくれたお礼。はい、コーヒー」
「……あ、ありがとう……ございます……」
 面食らい、恐れ戦きながらカップを受け取る。自分の顔色を窺う伊丹の様子など気にも留めず、美鳥は黙々と食べ始めた。上目遣いで確認しながら、伊丹もぎこちなく食べ始める。
「……美味しいです」
 精一杯の言葉に、美鳥はただ黙って頷いた。

 伊丹が佐久田のところへと向かった後、美鳥はひとり思案していた。
「……ここまですれば動くでしょ」
 呟くと、自身も外出の用意をし始める。
 
 マンションから出た時には確かに感じた視線と気配が、いつの間にか消えた事を確認し、美鳥は『その人物』の正体を知るべく動いた。
 

 
 辺りに夕闇が落ちる頃。
 何の遮るものなどないかのように、マンションの扉から滑り込む影。
 そして、その影の後を窺い追うように、もうひとつの影が。
 
 静かに、ゆっくりと室内を移動する影。
 キッチン、バスルーム、そして部屋から部屋を移動し、中を窺う。最後の部屋━━。
「ご苦労さま?」
 突然、声と共に部屋の灯りが点る。
 ゆったりした服で身体の線はわからないものの、後ろ姿を確認し、美鳥は心の中で『やはり、あの男じゃない』と確信した。
 ビクッと反応した『人物』は、パーカーのフードまでかぶった背の高い━━恐らくは男。
「私に何の用かしら?はっきり言ってもらえる?」
 背を向けたままピクリとも反応しない『男』に、美鳥の眉が持ち上がった。
「フード取って、こっち向いてくれない?」
 もちろんマンションの外には、伊丹の代わりの親衛隊が配置されている事を美鳥は知っている。何かあればボタンひとつで飛び込んで来るのだ。だが、それがなかったとしても、美鳥は臆する様子もなく、躊躇う事もない。
「……耳、聞こえてるよね?」
 むしろ躊躇っているのは侵入者の方であった。
「……私が毟り取ろうか?」
 ややイラついた声で訊ねる。すると、微動だにしなかった男が、僅かに反応し、ゆっくりと両手が持ち上がった。
 攻撃を警戒した美鳥が身構えると、男の手がフードの端を掴み、静かに後ろに下ろす。
「………………!?」
 その後頭部を目の当たりにし、美鳥は息を飲んだ。瞬きが止まる。
 少し俯いた男が、まだ躊躇いながらもゆっくりと振り返った時。
「………………!」
 
 永遠の静寂が訪れたかのような空間。
 互いに見つめ合う。
 
 男の目が一瞬見開かれ、美鳥の唇と指先が震え出した。
 「…………ろ……う…………」
 掠れた声で呼ばれた男が切なげに微笑し、細めた目で愛おしげに美鳥を見つめる。
「…………翠(すい)…………」
 声を聞いた瞬間、考えるより先に、言葉より先に、美鳥の足は動いていた。
「…………朗…………!」
 諦めかけて諦めきれず、待ちわび、焦がれた胸に躊躇いなく真っ直ぐに飛び込む。
「……朗……朗……朗……」
 他の全ての言葉を忘れてしまったかのように呼び続け、縋りついた小さな身体。提げられた男の手が、躊躇い、震えながら美鳥の背中に回される。
「…………美鳥………………翠…………」
 それを合図にしたかのように、男が腕に力を込め、美鳥の息が止まりそうなほどに抱きしめた。
「…………ろ……う…………」
 溶け合うように抱き合うふたり。
 男が美鳥の髪に顔を埋めると、その首に美鳥の腕が回され、どちらからともなく唇を重ねた。そのまま、縺れ、絡まり合いながら倒れ込む。
 
 本物の小松崎朗その人と、四年ぶり、三回目の邂逅であった。
 
 
 
 
 
 
 

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