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かりやど〔弐拾四〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
心ならずも秘めたことを
生涯、明かさないと決めた夜は
 
知ってしまった事実を
生涯、秘め事にしようと決めた夜
 
 

 
 

 気づいているのか、いないのか。
 互いに名を呼ばずに過ごした月夜以来、美鳥も朗も何事もなかったかのように振る舞っていた。
 当然、何も知らない昇吾も気づくことはなく──。
 
 何度も話し合った結果、施設内部のメンテナンスの間、昇吾たちは近くのマンションに移動することにした。彼らは何年も同じところに潜んでおり、他の居場所も作った方が良い、と言う案が出たことによる。
 それならば、同時進行で進めようと夏川が提示したのは、まさに人里離れた場所に別の施設を作ることであった。距離的にはそれほど遠くではないが、松宮が所有していた土地は想像を絶するほどに広大で、一般の人間が立ち入ることはほとんどない。
 
 部屋を借りるにあたり、関係者の名を使わずに済ませようと相談した昇吾たちは、朗の両親に保証人になってもらうことにした。
 夏川と春さんも一緒に住む、と言う案も出たが、大人数では目立つこと、夏川が施設の管理をしなければならないこともあり、そこは断念せざるを得なかった。美鳥もかなり動けるようにはなっていたし、春さんには数日置きに通ってもらうことにする。そもそも、美鳥の面倒は昇吾がほとんど見ていた訳で、あまり状況の変化はないのである。
 ただ、昇吾にとっては、朗と共にいるメリットはあった。恐らく、他人にはふたりの区別はほぼつかない。つまり、ある程度は昇吾も外出が出来るようになる、と言う部分に於いて。
 仮の戸籍を持っているとは言え、いつ、どこで、素性を知る人間と遭遇するかわからないため、結局のところ油断は禁物なのだ。
 
 端から見たら奇妙なルームシェアではあるが、それでも長く隠れて暮らしていた美鳥と昇吾にとっては新鮮かつ貴重な生活。朗が買って来たジャンクフードの食事で騒いだり、普通の高校生や大学生であれば、何ら変哲のない日常のひとコマ。
 
 しかし、それは束の間の平和であり、長続きすることはなかった。
 

 
 その日、昇吾が所用で出掛けてすぐのことである。
 
 リビングのサイドボードに置いてあった、小さな革製の財布のようなものに、手探りで触れた美鳥が不思議そうに首を傾げる。
「…………?……朗……これ、なぁに?」
 テーブルでパソコンを開いていた朗が顔を上げた。美鳥が不思議そうに手で触れているものを見て、
「あっ……!」
 驚いた声を洩らす。
「……昇吾が忘れて行った身分証だ。まだ近くにいるだろうから届けて来る。……翠……その間、ひとりで大丈夫かい?」
「うん。すぐ帰って来てくれるんでしょ?」
「渡して来るだけだよ」
 そう答え、昇吾の携帯電話に繋ぎ、その場で待っているように伝えながら出て行った。
 
 互いに、まさか再び、永の別れになるなどとは知らずに。
 
 途中で待っていた昇吾に追いつき、朗は笑顔で身分証を渡した。
「悪いな、朗」
「大事なもの、忘れるなよ」
「仙人みたいな生活が長かったからな」
 笑い合った、その時──。
「…………昇吾!!」
 自分の名を呼ぶ男の声。昇吾と朗は棒立ちになった。
(……この声……!)
 ゆっくりと昇吾たちが振り向くと、路上に停まった一台の車。その前に降り立った壮年の男性が、目を見開いて唇を震わせている。その姿を見た瞬間、昇吾は自分の目を疑った。
「…………父さん…………」
「……信吾叔父さん……」
 間違うはずもなく、昇吾の父・緒方信吾であった。昇吾と朗も驚きでそれ以上の言葉が出て来ない。
「……お前……生きて……」
 父の目からみるみる溢れる涙に、昇吾の目頭も熱くなる。だが──。
「緒方昇吾!!」
 突然の鋭い呼び声と共に、昇吾たちに向かって走って来る数人の男たち。ふたりは一瞬にして状況を把握した。顔を見合わせる。
「……朗……!」
「昇吾!逃げるぞ!」
 朗の言葉を合図に、ふたりは昇吾の父とは反対方向へと駆け出した。
「……昇吾!待ってくれ……昇吾!」
 父の声が昇吾の背中を追いかけて来る。だが、昇吾は止まる訳には行かなかった。父を巻き込まないためにも逃げなければならない──それが父の思いと裏腹である、などと考える余裕もなく。
「昇吾、こっちだ!」
 昇吾と朗は、何とか敵を撒こうと横道を走り廻り、ビルの中を通り抜けて身を隠した。ふたりで息を整える。
「……何故……あんなところでいきなり見つかったんだ……」
 訝しみながら、朗は本多への緊急信号と自分たちの現在地情報を送った。散っていた親衛隊のメンバーのうち、比較的近くにいる者たちが動き出すとの知らせがすぐさま入って来る。
「……もしかしたら……今でも父さんを見張っていたのか……?いつか接触する可能性を考えて……」
 それ以外には考えられなかった。それほどに自分の存在は脅威であり、邪魔であるのか──昇吾の胸に、恐ろしさと遣る瀬ない虚しさが湧き上がる。
「……昇吾は……信吾叔父さんの車で連れて逃げてもらった方が良かったかも知れないな」
 後悔の念を隠さずに言う朗に、昇吾は静かに首を振った。
「いや……父さんを松宮のことに巻き込む訳には行かない。緒方にいる何百人もの社員と、何千人ものその家族のことを考えたら……」
「……ばか……!……その前にお前だって叔父さんにとって何より大切な家族なんだぞ……!……そして、ぼくたちにとっても……!」
 朗の言葉に昇吾が嬉し気に微笑む。
「……わかってる。だから諦める気はない。必ず、陽の元を堂々と歩けるように、黒幕を追い詰めてみせるさ」
 強く明るい瞳で言い放つ昇吾の顔は、朗にとっては子どもの頃から見慣れている表情。絶対的な自信がある時の。
「……そうだな」
 朗が頷くと、昇吾が思い出したように携帯電話を取り出した。すぐに美鳥にかけるのだ、と思い当たる。
「……美鳥?落ち着いて聞いてくれ。今、ぼくを探していたらしい奴らと遭遇して逃げている。奴らを撒いて、安全だとわかってから戻るから少し遅くなる。夏川先生か誰かに連絡して、とりあえず来てもらうんだ……美鳥、落ち着け!大丈夫だから!必ず戻るから!大丈夫だ!いいな?わかったな?」
 だが、美鳥が何かを叫んでいる声が朗にも聞こえて来る。この状況では動揺するのが当たり前で、特に今の美鳥に落ち着けと言う方が難しい。
「……美鳥!大丈夫だから!わかったな?すぐに電話するんだぞ?」
 その時、遠くで「こっちだ!」と言う声が聞こえ、昇吾は急いで電話を切った。ほぼ、一方的に。それを見届けた朗が、昇吾の腕を掴み、そして言った。
「……昇吾……ここで別れよう。ぼくが奴らを引き付けるから、何とか美鳥と夏川先生のところまで逃げるんだ。奴らを撒いたらぼくも追いかける!」
「馬鹿言うな!朗、お前の方こそ美鳥を頼む!その方が確実だ!」
 昇吾が返すと、朗は珍しく不敵な笑顔を浮かべる。
「ぼくなら奴らの目を誤魔化せる。奴らにぼくたちを見分けることなんて絶対に出来ないし、万が一、捕まっても身分証があるから、却って肩透かしを食わせてやれる。その間に何とか安全圏まで逃げるんだ!……そして、ぼくが戻るまでは、お前が小松崎朗の名を使うんだ。もし必要であるなら、美鳥にもそう思わせておけばいい。美鳥のことを『翠(すい)』と呼ぶんだ!そうすれば必ず信じる!」
 言い終えた途端、朗は走り出した。
「……朗……!……待て、朗!」
 追いかけようとする昇吾。
「……ほとぼりが冷めたら必ず戻る!……それまで美鳥を頼んだぞ!」
 僅かに振り返った朗が叫んだ。
「…………!…………朗!待ってくれ、朗!!」
 昇吾が追いつく間もなく、朗が駆け去った方角から、「いたぞ!あっちだ!」と言う声が聞こえて来る。
(…………朗…………!)
 追おうとした瞬間、頭の中にこだまする朗の声。
『美鳥を頼んだぞ!』
 瞬間的に、昇吾は反対方向へと駆け出した。眉根を寄せ、唇を噛み締めながら。
(……朗……!……必ず無事に戻ってくれ……!)
 心の中で叫びながら。
 
 見つからないように、確実に撒けるように用心し、回って、回って、マンションに辿り着いた時、辺りは既に薄暗くなっていた。
 
 それでも用心を怠らず、様子を窺いながら部屋に入った瞬間、昇吾は妙な違和感を覚えた。
 玄関の鍵にしろ、室内の様子にしろ、夏川が訪れた気配はなく、他の関係者が代わりに美鳥を連れ出した気配もない。静か過ぎる、不自然なまでの自然。
 嫌な予感が胸を過り、昇吾は一部屋ずつ慎重に確認して行った。
 バスルーム、キッチン、自分の部屋、朗の部屋、そして美鳥の部屋──。
 静かに扉を開けると、灯りが消えた薄暗い室内。微かな人の気配に目を凝らす。昇吾は音を立てないよう、手探りで灯りのスイッチに触れた。そして、明るくなった室内で思わず目を見張る。
 昇吾の目に飛び込んで来たのは、ベッドの隅にうずくまり、ひとり震えている美鳥の姿。
「……誰……?」
 震える声。明るさを感じることは出来るため、部屋の灯りが点けられたことはわかったらしい。硝子玉のような目を向け、入って来た気配から逃げようとしている。
「……誰……?……こっちに来ないで……やだ……誰か……」
 その姿を見た昇吾は、動揺した美鳥が助けを求めることすら出来なかったことを知った。目も良く見えない中、ひとりきりで怯えていたことを。
 美鳥が他の人間を近寄らせないせいもあるが、昇吾か朗が直接夏川に連絡しなかったことが裏目に出た。ふたりにも余裕がなく、仕方ないことではあったのだが。
「……来ないで……やだ……昇吾……朗……」
 その時、昇吾の中に無意識の内に決意が固まった。朗の名を騙って生きるつもりなどさらさらなかったが、せめて、美鳥の状態が落ち着くまで、そして朗が無事に戻るまでは、何としても見つかる訳には行かない、と。
 『約束』のために。
「……翠(すい)……」
 その思いが、昇吾に美鳥をそう呼ばせた。
 朗が、美鳥に信じさせるなら、そう呼べば必ず信じる、と言っていたからである。いずれ、明かす日が来るとしても、とにかく今は──。
 見えない目を見開き、美鳥が声のする方向を凝視する。
「……朗……?」
 一瞬、返事を躊躇う昇吾。しかし、その目に映ったのは、
「……朗……?……朗なの……?……どこ……?」
 そう言いながら、必死で手を伸ばす美鳥。その姿に堪らなくなり、拳を握り締め、きつく目を瞑る。
「……翠……ぼくだ……」
 その答えを聞いた瞬間、美鳥は見えない目で駆け寄ろうとした。
「危ないっ!」
 シーツに足を縺れさせ、ベッドを踏み外しそうになった美鳥を、慌てて駆け寄った昇吾が抱きとめる。
「……危なかった……怪我は……?」
 首を振りながら、自分を支える昇吾にしがみ付いた。
「…………怖かった…………もう戻って来ないかも知れないって思った……」
 震える小さな肩を抱き締める。
(……こんなに怯えて……)
 やはり夏川たちと離れるべきではなかったのだと、今さら後悔しても始まらない。まさか、あそこで父に会うなどと、どうして想像出来ただろうか。まして追っ手にまで遭遇するなど。
 やがて、少し落ち着いたのか、美鳥が昇吾の胸から顔を離し、不思議そうに見上げた。
「……朗……昇吾は……?」
 胸に刃が突き刺さるような衝撃。別れる時の朗の顔が脳裏を過る。
「……逃げている途中で……昇吾とはぐれてしまったんだ……」
「…………え…………」
 不安そうな美鳥の声。泣きそうな目。何より、騙していることへの罪悪感。何とか自分を落ち着かせながら、昇吾は朗のフリを続けるしかなかった。
「昇吾は『敵を撒いたらしばらく隠れて過ごす。ほとぼりが冷めたら必ず合流する』と。『待っていてくれ』と。……美鳥……昇吾が帰って来るまで、必ずぼくが守る。だから、ふたりで昇吾の帰りを待とう」
 だが、それを聞いた途端、美鳥の身体中から力が抜けた。昇吾の腕からずり落ちそうになる。
「……翠……すまない……」
 絞り出された昇吾の苦しげな声。その腕に支えられたまま、美鳥は茫然としている。
「……ぼくが代わりになれば良かったのに……本当にすまない……」
 床の方を瞬きもせずに凝視していた美鳥は、数刻の後、突然、昇吾が予想もしなかった行動に出た。
「………………!」
 目の前に雷が落ちたような衝撃。昇吾の中で時が止まる。自分に何が起きたのかも認識出来ず、身動きひとつ出来ずに、昇吾はただ止まった。
 自分の首に回された美鳥の腕、良く見えないほど近い場所にある白い肌、そして閉じられた瞳。顔回りの空間が、全て美鳥の香りで占められ、その唇が──。
 石になったように固まっていた昇吾は、美鳥が顔の角度を変えた瞬間、我に返った。離れようとして、だが、その時には手遅れだった。
「…………ろう…………」
 僅かに唇が離れた瞬間、吐息のように洩れた声。身震いするほど甘いその声に、脳が痺れる。と同時に美鳥の腕に力が入り、身体を引かれた。
「…………す…………!」
 立て直す間もなく美鳥の身体の上に倒れ込み、首と背中に回された指が昇吾の心を縛り付けた。
(……いけない……!……こんな……いくら朗のフリをしていても……)
 身体を起こそうとするも、美鳥に全てを絡め取られたような感覚。そして、心までも。
 だが、本来の昇吾には、冗談ではなく、『美鳥』を『女』として見る要素は少しもなかった。それは美鳥にとっても同様で、彼女にとって『昇吾』は『男』ではない。第一、美鳥が『朗』のことを『そう言う意味で』好きなのかどうか、この段階での昇吾には知る由もなかった。そして、今、美鳥がこんな行為に及んでいる理由も。
 それが昇吾の心の中で嵐のように渦巻く。
 恐怖からなのか、それとも、昇吾を失った苦しさからなのか、それとも両方なのか、どちらでもないのか。
 もしも『昇吾を失った苦しさ』なのだとしたら──それが過った時。
「…………傍にいて…………」
 そのタイミングで耳に受けた美鳥の心の囁き。
 相反する激しい葛藤を抱えながら、昇吾は己の持つ『昇吾としての全て』を手放した。
 
「…………朗…………傍にいて…………」
 吐息を交じらせながら、昇吾は緩やかに美鳥へと沈み込んだ。──と、その瞬間。
 突然、目を見開いた美鳥が、見えない目で昇吾の顔を見上げた。まるで信じられないものでも見たかのように。驚いた昇吾が動きを止める。
「……翠……つらいか……?」
 じっと自分の顔を見つめたまま、微動だにしない美鳥を気づかう。しかし美鳥は、やがて目を閉じ、昇吾の首に腕を回して口づけをせがんだ。
 そのまま溶け合いながら、それが例え生涯であっても朗が戻るまでは、『小松崎朗』として生き、罪も罰も背負って逝こうと──昇吾は決めた。
 
 美鳥──翠が、今、自分を抱いている男が『緒方昇吾である』と気づいたことなど、知りもせずに。
 
 
 
 
 
 
 
 

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