〘異聞・阿修羅王3〙須彌山の須羅
本人もあずかり知らぬところで、勝手に須羅(しゅり)と名づけられた阿修羅族の若者には、確かに性別の縛りはなかった。
『どちらでもなく、どちらでもある』
そう表現される所以は、例えばインドラ──摩伽(まか)のように、己で選んで性を変えられることとは大きな違いがある。
「王よ。かの者は、一体、何者でございましたのか?」
邸に戻ると、若者──須羅は、立ち働く者たちに不安そうな面持ちで迎えられた。『王』と呼ばれる故は、未だ正式ではなくとも、やはり阿修羅族の次代を担う者の証であると言える。
「大事ない。すぐに立ち去らせた。身元も確かな者であった故、今後、問題を起こすようなことはなかろう。心配致すな」
先刻、邸の花を散らしている者がいると、庭を手入れしていた者たちから報告を受け、様子を見に行ったのであった。よもや、いずれ仕えることになる主と遭遇するなどとは、夢にも考えてはいなかったが。
「左様でございましたか……安堵致しました。ありがとう存じます」
「私の役目だ。何ぞあれば、また報告せよ」
礼を取る家人にそう返し、自室に戻る途中で別の家人に呼び止められた。
「王よ……先ほど、乾闥婆王からの……」
微かに眉をしかめて『わかっている』というように頷くと、下がるよう手で示した。
「やれやれ……」
ひとりになると、ようやく緊張を解いて息をつく。摩伽がそうであるように、須羅も先刻の出来事を思い起こした。
(……あれが、此度、インドラとなる者。なるほど、確かに同じ眸(め)をしている。額の眼(まなこ)までも……だが……)
まるで子どものような振る舞いの軍神に、半ば可笑しさ、半ば怪訝、さらにその裏には一抹の不安。
(御し切れるか……あやつを……)
そこまで考えて首を振る。
「考えても詮なきこと、か……。いずれ、全てがわかる。そして、行き着く先は決まっているのだからな……」
言い聞かせるように口に出すと、今度は家人から伝えられた乾闥婆からの用件が脳裏を過った。予てより、新しき御世に参上した暁には娘を正妃に、と申し入れされている。
須羅にとっての乾闥婆は、嫌いということはなくとも、それほど得手な相手とは言えなかった。だが、深く関わりたいとは思えなくとも、断るほどの理由はない。
しかも、いずれは忉利天の一端を担う者として、共に須彌山を守護して行かなければならぬ間柄。インドラとなる摩伽に仕える身ともなる。まして、乾闥婆の娘──雅楽(がら)は幼き頃より顔は合わせており、全く知らぬ仲とは言えない。
「ふむ……」
ため息と共に声が洩れる。
乾闥婆が何を考えて己が娘を娶らせようとしているのかはわからなかったが、自分になど嫁がぬ方が平穏無事に過ごせることだけはわかっている。
(それも避け得ぬ運命(さだめ)か……雅楽にはすまぬが……)
本当ならインドラの正妃の座にすらつける身分。天帝に嫁ぐべく育てられた誇り高い娘であれば、四天王でもなく、名目上、その下につく者に娶られるなど我慢なるまい、とも思える。
記憶にある限り野心的な印象はなかったし、高慢な振る舞いもなかったが、年頃の娘ともなれば変わっていることは十分に考えられた。もし、雅楽が心の内でインドラの正妃の座を目指すようになっていたとして、それをとやかく言うことは出来ない。
(インドラの目に留まる可能性も高かろうが……とにかく一度、乾闥婆とは話しておく必要があるな)
それ以上に、何も知らないままでは憐れであった。一度、自分に嫁げば、その立場として生きて行くしかない。
「……雅楽にも言っておかねば……あまりに卑怯であろうな……」
ぐっと唇を引き結ぶ。
先に乾闥婆と話すべきか、雅楽の反応を見てからにするべきかと考えれば、まずはやはり雅楽の気持ちを確認するべき、という結論しか出なかった。
「此度の摩伽は、どう動くか……」
己はどのように動くべきかを思案する須羅が、その摩伽と再び顔を合わせるのは、しばらく後のことである。
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