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〘異聞・阿修羅王26〙二分されしもの

 
 
 
 天が二分されてから、どれ程の年月が経ったのか──。

 無謀にも雷帝インドラに闘いを挑み、最初の敗北を喫した阿修羅王は、忽然と姿を消した。

 その後、何度となく、いや、何十回、何百回とインドラに挑み続け、同じだけの回数、負けを喫していた。だが、いつも唐突に現れては去っており、阿修羅本人はおろか一族の者すら、どこに住まうか依然としてわかっていない。

 ただ、いつの頃からか、魔族に襲われた者が誰かに救われた、と噂が立ち始め、それは四天王の耳に昇る程になっていた。

 その『誰か』が、男とも女とも尽かぬ美しさで、且つ、恐ろしく強い、と言う情報と共に。

「また、『穴』を通り抜けた魔族に、誰ぞ襲われたらしいな。インドラ様の命(めい)で、須彌山だけでなく、人界の至る所にも目を光らせておると言うに……まるで網の目を掻い潜るように現れおる」

 八部衆の一人・夜叉王(やしゃおう)が口火を切ると、他の六人が顔を上げた。

 須彌山に住まう者は、いわゆる『人』とは違うのだが、皆が皆、戦闘能力を持ち合わせている訳ではない。だからこそ、守護する者がいる。まして、人界の『人』ともなれば、魔族に襲われてはひとたまりもなかった。

「気のせいやも知れぬが……ここ数千年の間に、僅かずつではあるが、数が増えているように感じられてならぬ。特に、人界での被害が……」

 同じく天王(てんおう)が続けると、皆が一様に頷く。

「増えているは、気のせいではなかろう。しかも、見回りの手薄な場所がわかっているかのようにさえ思える」

「確かに、数が増えているのは間違いないが、それはちと考え過ぎであろう」

「ふむ……」

 皆が黙り込むと、重い空気が立ち込めた。

「……あの噂は真であろうか……」

 沈黙を拒むように、龍王(りゅうおう)が呟くと、再び七人の視線が交錯する。

「……間違いなく、阿修羅王であろうな」

 口にするを憚っていた名を、迦楼羅王(かるらおう)が代弁した。

「……例え、インドラ様と袂を分かとうとも、己(おの)が役目を放棄してはおらぬ、と言うことだ」

 インドラと阿修羅の争いは、文字通り天を二分した。

 もちろん、それは、少なからず人界にも影響を及ぼしてはいる。それでも、目に見えて大きな混乱は起きていない。

 もっと正確に言えば、深刻なのは須彌山の方だった。だが、それも、精神的な混乱は起きているが、物理的に困る問題は起きておらず、その理由の一つが、八部衆が話している『阿修羅王が役目を放棄していない』事実に終始するのである。

『全力を以て我らを救ってくださる御方が、どうにも赦せぬ程お怒りになっておられるのだ。きっと、インドラ様の仕打ちが余程無体であったに違いない』

 そう言って、阿修羅を擁護する者は少なくなかった。

 だが、無論、味方をする者ばかりではない。

『インドラ様の優れた采配のお陰で、我らは魔族に怯えることなく過ごせるのだ。舎脂様のこともそれは大切にされ、睦まじいと聞き及ぶ。正妃として迎えられた際の無体も、舎脂様に焦がれてのことだと言うではないか。それを、未だに根に持ち、事ある毎に闘いを挑むなどと狭量な……!』

 赦す心を忘れた阿修羅こそが悪いのだ、と憤る者も数多おり、むしろ二分されているのは天ではなく、周囲の心の内であった。

「皆の言うこと、どちらにも一理ある。確かに、舎脂様を迎える折のインドラ様のなさり様……あれは如何なものか、とは思うた。だが、それを差し引いても、統治の手腕の見事さは余りある」

「うむ。利かん気の強い方ではあるが、言い換えれば裏がない。あれでいて、心を掴むは巧みだ。何と言うか……好かれる資質は十二分に備えておられる。比べると、昔から阿修羅王は、何を考えているのかわかりにくいところはあった。……そうは思わぬか?」

 摩睺羅伽王(まごらかおう)と緊那羅王(きんならおう)が、一人黙って座していた乾闥婆王(けんだっぱおう)に同意を求めると、全員の視線が集まった。阿修羅と比較的親しいのは夜叉王と迦楼羅王だが、乾闥婆王には娘・雅楽(がら)を嫁がせた、と言う繋がりがある。

「……ずっと考えていた」

 一点を目視したまま、乾闥婆王は答えた。皆が黙って続きを待つ。

「……雅楽を阿修羅王に嫁がせる前から、何故(なにゆえ)、己はそうしようとしているのか……いや、そもそもの謎は、己が『生まれた』時から始まっていたような気がする、と……」

 顔を見合わせる六人。

「どう言うことだ? 雅楽を阿修羅王に嫁がせることに、何か懸念でもあったのか?」

「そうではない。嫁がせること自体ではなく、嫁がせることを何ら不思議と思わず、それが当然の如くあったこと……そこにこそ疑問があるのだ」

 益々、首を捻る六人に、乾闥婆王はようやっと視線を上げた。

「阿修羅王には、同じ八部衆の我らにも、下手をすると四天王様たちも知らぬ何か……見えぬ何かが、始めからずっとずっと見えていたように思えるのだ」

「……そなた、以前にもそのようなことを申しておったな」

 夜叉王は、かつて乾闥婆王が洩らした言葉を思い出した。

「そなたの考え、我らにも聞かせよ」

 五人も同意して頷く。

「……うむ……」

 普段、物静かな乾闥婆王に、固唾を飲んだ六人が耳を傾けた。
 
 
 
 

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