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〘異聞・阿修羅王10〙変えられぬもの

 
 
 
 式典前夜。

 毘沙門天(びしゃもんてん)に見つかって以来、大人しくしているかと思いきや、数度、摩伽(まか)は須羅(しゅり)の元を訪れていた。

 見回りをする須羅の後をついて来るだけで、特に何を話すということもなかったが、それでも5日ほど前からは一度も姿を見せていない。

 式典に於ける立役者なのだから、準備に追われていて然り、外出など禁じられるも然り。まして、須羅にしても、八部衆の正式な一員となる身。それなりの準備は欠かせない立場であり、他を気にかける理由などなかった。

 全てを整え、夜、ひとりになった室内で、須羅は静かに佇んでいた。

 脳裏を過って行くのは、須彌山の過去のこと、現在(いま)のこと、未来のこと。何より、四天王と八部衆を始めとし、雅楽(がら)のこと、摩伽のこと、己のこと。

(……明日(あす)か……)

 瞑目し、胸の前で手を合わせる。

 ややして、須羅は口の中で静かに唱え始めた。すると、ふわりと火の粉のような光が立ち昇り、周囲を螺旋状に巡り始める。

 その光の中で、須羅の姿に変化が起きた。物理的な変化ではなく、どこか幻のように仄かに透けている。

 悲哀、憤怒、慈愛の面。

 祈り、闘い、支える腕。

 それは須羅の本来の力を、見た目として表したもの──三面六臂。

 その姿で剣を取り、須羅は静かに舞った。

 ブレのない体捌きと重心移動、空気をも自在に操るかのような呼吸。

「おい。いつまで黙ってそこで盗み見ているつもりだ」

 不意に動きを止め、須羅は視線だけを窓の方に向けた。

「……いつから気づいていた……?」

 影から姿を現したのは摩伽であった。バツの悪そうな表情を浮かべる。

「始めからだ、馬鹿者が。私が気づかぬとでも思うたか」

「……見惚れていた……見事な体捌きに……」

 いつも通りの須羅の口調に、摩伽は切なげに目を細め、本心を洩らした。

「それがおまえの本性か。……やはり、おまえには後ろにも眼(まなこ)があったのだな」

 三面六臂の姿に、冗談めかしてつぶやく。

「一体、何用だ? 式典は明日だぞ。このような所に来ている暇(いとま)はあるまい」

 摩伽の言葉を無視した一瞬で、須羅の姿は元に戻っていた。

 仄明かりの中で、摩伽は目を逸らしたまま迷う素振りを見せた。だが、意を決したのか顔を上げ、須羅を正面から見据える。

「須羅……八部衆に……阿修羅王にならないでくれ」

 時が止まったように、須羅の動きも止まった。

「八部衆としてではなく、友として、おれの傍にいてくれ。いや、どんな形でもいい……おれの傍にいてくれ……!」

 呼吸を忘れていたことを思い出したように、須羅は言葉を吐き出した。

「……何を馬鹿な……この期に及んでまだそのような……出来ぬと言うておるであろう。阿修羅とならぬ私など……」

「なれば、阿修羅王としてでも構わぬ……! おれの……おれの妃となってくれ……!」

 須羅は、今立っている足元の床が、根本から崩落したかのような錯覚を起こした。自分がそこに落ちたのではないか、と。

「……貴様、己が何を言うたか、わかっておるのか……!? 私に……この私におまえの妃になれだと……!?」

 抑えた声音に怒りと困惑が入り交じる。

「なれば、他に方法があると言うのか……!」

 必死で訴える様に、須羅は言葉を失った。

「出来るのだろう……!? おまえは、どちらでもあるのだろう……!?」

 摩伽の目が、戯言ではないことを物語っていた。だが、それが故に、尚のこと須羅の感情は膨れ上がった。

「ふざけるな! 一体、誰が、己が好き勝手に変われると思うか!」

 初めて見る激昴した姿。だが、摩伽も退かなかった。

「認められれば……天が必要と認めれば、おまえはどちらとしても在れるのだろう!?」

「認められる訳がなかろう! ……いや、他の誰が認めようと、私が認めぬ!」

「天の采配であってもか!」

 家人が気づかぬようにしているのか、この激しい言い争いに誰ひとり近づいて来る気配はない。それより騒ぎ云々以前の問題で、式典の前夜、立役者がこんなところにいるなどと気取られては厄介であった。

「……私の行く手に、他の道はありえぬ……!」

 それを聞いた時、摩伽の中でプツリと何かが切れた。

「……何故(なにゆえ)だ……っ!」

 勢いよく須羅を壁際に押しつけ、背を壁で、前を己の身体で追いつめる。

「……運命(さだめ)ぞ。役目を果たすべき我らの存在に、いちいち理由をつけていたらキリがなかろう」

 真っ直ぐに摩伽を見、須羅は静かに言い放った。

「……なれば……!」

「…………!」

 須羅の反応が一瞬遅れた。

「やめよ!」

 摩伽の額を押さえようとし、間に合わなかった。完全に開いた眼(まなこ)が額の中心で光を放っており、同時に放出した力が須羅に変化をもたらした。

「……この、馬鹿者が……っ!」

 睨み上げる須羅を、苦しげに顔をしかめた摩伽が見下ろす。明らかに女の身体に変化した須羅を。

「おれは、本当にどんな形でも良かったのだ。だが、これは……天が認めたということではないのか……?」

 その言い分には、天が認めたのでないのなら、如何に摩伽の力を以てしても変わらぬはずであろう、という意味合いが暗に含まれていた。

「出来ぬ……!」

 それでも変わらぬ返答に、摩伽は須羅の身体を持ち上げ、そのまま伸し掛るように押さえ込んだ。あれほどの力を持つ須羅が、何故、反撃して来ないのか、摩伽には考える余裕はなかった。

 抑えた呼吸で己を見下ろす雷帝となるべき男を、須羅はむしろ哀れを宿す眼で見据えた。

「……やめよ。このようなことをしても、運命は変わらぬ」

 摩伽は唇を噛みしめた。

「変えてみせようぞ……!」

 組み敷かれ、それでも変わらぬ眼差しで見上げる須羅に、摩伽は身も心も沈めた。

 骨の髄まで凍りつく氷界を、塵ひとつ残さずに燃やし尽くす業火の中を、阿修羅王としての須羅が内包する世界の全てを。

 凍え、焼かれ、身も心も焦げつき、それでも超えた暁に、摩伽は変えられぬ運命を知り──。

 須羅は、己の頬に落ちた滴が、摩伽の涙だったと知る。
 
 
 
 
 
 

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