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かりやど〔参拾六〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
一度この手を離してしまったら
二度とこの手に戻っては来ないから
 
 

 
 

 黒川の件を皮切りに、美鳥は僅か一年半程度の間に、次々と副島の『四天王』たちを追い詰めて行くことになる。
 

 
 黒川が自らビルの屋上から飛び降りてから、ほんの数週間の後。
 美鳥は次のターゲットを、大病院のオーナーである須田隆則に決めていた。
 
 まずは須田の息子・隆義に近づこうと策を講じていると、丁度良い機会が夏川によってもたらされた。
 ある総合病院・院長主催の記念パーティーがあり、主だった病院経営者や責任者の集まる場に夏川も出席すると言う。美鳥は文字通り、夏川の娘──夏川美薗、として連れて行ってもらう事にした。
 もちろん、夏川には本当の目的は言っていない。彼は美鳥が行なっている事を知らないのだから。
 当初、夏川は須田と顔を合わせる場に行く事にも乗り気ではなかった。だが、他に挨拶をしたい人物が何人かいる、と言う事で出席を決めたのである。
 そもそも、美鳥が何も知らないと思っている夏川には、連れて行くのを断る理由がなかった。しかも「久しぶりにちょっと賑やかなとこに行ってみたい」などと言われれば、尚の事。
 
 当日、きちんと正装した夏川は、傍目にも年相応の渋さを醸し出していた。
 本人は窮屈な格好が好きではないようだが、サマにはなっている。ドレスアップをし、つけ毛と化粧を施した美鳥が横に立つと、何とも見映えのある親子と言えた。
 昇吾も春さんも、美鳥の姿に目を細める。
「行こっ、お父さん」
 差し出された美鳥の手を自分の腕に乗せ、きちんとエスコートして車まで誘う様子も慣れていて、とても久しぶりの正装とは思えない。
「美鳥さまのドレスアップを拝見するのも久しぶりですね。またお美しい姿を拝見出来て、しかもご一緒出来るなんて、正装が窮屈とは言え嬉しい限りです」
 さらりと褒め言葉を口にするところも堂に入っている。だが──。
「美鳥じゃなくて美薗だよ、お父さん」
 悪戯っぽい目で見上げられ、ニヤニヤ笑う美鳥にダメ出しを喰らって頭を掻いた。
 
 会場のホテルに着くと、本多は夏川と美鳥に小型マイクを渡した。
「伊丹と私はここで待機しております」
 会場近くで別れ、ふたりは他の客へと溶け込んで行く。他にも親衛隊のメンバーが客に混じっているはずである。
「……さて……では自慢の娘を見せびらかしに行くとしますか」
 夏川が笑いながら美鳥の手を取った。
 
 医師としての夏川の評判は高いらしく、誰もが会えた事を喜び、そして大病院勤務の座を蹴った過去を惜しんでいた。
 美鳥も知らなかった事であるが、夏川が父親の跡を継いで松宮家専属になっていた事は、どうも公にはなっていなかったらしい。「あれからどうしていたのか」と言う質問が誰からも飛び、夏川はいつも用意しているのであろう答えをスラスラと答え続けた。もちろん松宮家に所属していた過去も、現在の状況についても、本当の事は言えないからだ。
 しかし何より、美しい『娘』を連れての出席に、若い医師やその卵たちは色めきたった。夏川の眼力に怖れをなし、迂闊には近寄れないようではあったが。
「お父さん、私、お腹空いちゃった。何か食べて来ていい?」
 知人と楽しそうに話している夏川に、並べられた料理の方を見ながら美鳥が訊ねた。
「……ああ、話に夢中になってすまない。好きに食べておいで」
「お父さんは?何か持って来ようか?」
「いや、今はいいよ」
 親子らしい会話を繰り広げ、美鳥は嬉しそうに料理を取りに歩いて行った。
 
 楽しげに料理を食べながらも、美鳥の目は会場内を隈無く見渡していた。その美鳥に視線を向ける若い男たちの存在にも、もちろん気づいてはいる。だが、それは美鳥にとってはどうでも良い事であった。
(……須田の息子はどこ……?)
 視線を巡らせる。
 一角に、若い男が固まって談笑しているのが目に入った。その中のひとりの顔に覚えがある。本多に見せられた報告書の写真の中に。
 隆義は一応は医大生らしく、周りにいるのも医学研修生や新人などであろう。父親と一緒でない事は、美鳥にとっては好都合だった。
 美鳥の口角が薄っすらと持ち上がり、その目に、燻る焔のような熱と、冷え切った虚無の色が同時に宿る。
 
 皿を置くと、美鳥はターゲットに向かって真っ直ぐに歩を踏み出した。
 

 
 須田隆義に近づくことは容易かった。
 その後も、美鳥は巧みに『隆義好みの女』を装おい、ジワジワと染み込むように心の内部に侵入して行く。
 隆義の気持ちが自分に落ちかけている、と判断した美鳥は、その時点で今度は本命のターゲットである父親──須田隆則にも近づいた。息子である隆義との事など話さずに。
 もちろん美鳥の態度は、『年上の経験を経た男性への憧れ』と言うレベルのものである。だが、それにしても、若く美しい女の思わせぶりな態度にまんざらでもない様子で、須田隆則が籠絡されるのも時間の問題だった。
 そして、隆義にも『結婚を前提に交際して欲しい。一度、ご挨拶に伺いたいし、父親にも会ってもらいたい』と言わせたところで、その父親の忍耐にも限界が来るように誘い込む。
 
 『その現場』で、美鳥は須田親子を鉢合わせさせた。
 
 親子は互いの顔を茫然と見つめた。目の前の光景が何だかわからない、現実なのかも定かでない、と言うように。
 息子の目の前には、自分が手に入れたくてどうしようもないほど夢中になった女が、事もあろうに自分の父親に抱きつかれ、組み敷かれそうになっている姿。
 片や父親の目には、若い娘に入れ込んだ挙句、モノにしようと襲いかかった父親の姿を見て茫然とする息子の姿。
 空気が時間と共に止まったような空間。一種、異様な気配が満ちて行く。
 先に動いたのは息子・隆義の方であった。
 いきなり大声で喚いたかと思うと、父親に向かって掴み掛かった。父親を美鳥から引き剥がすように突き飛ばす。息子に体当たりされた勢いで、床に投げ出された父親がカッとなって顔を赤くした。
「いきなり何だ!」
 自分のやろうとしていた事は棚に上げて息巻く父親を睨みながら、隆義はただ肩で息をしたまま立ち尽くす。だが、その見開かれた目には、怒りと狂気が宿っていた。自分のものになるはずだった、自分のものにしたかった女を、寄りによって父親に奪われかけた、その事実。それは、大病院の跡取りとして大切に育てられ、叶わない望みなどなかった隆義にとっては衝撃だった。
「出て行け!邪魔をするな!」
 だが、父親である隆則は、ふたりの関係など知らない。当然、息子の怒りは父親が若い女に入れ上げている事に対して、だと思っている。
 その父親の一喝を受け、隆義は再び掴み掛かった。互いに掴み合い、床を転がるふたりを、美鳥が怯えたフリをしながら薄笑いで眺めていた時──。
「うわあっ!」
 叫び声と共に隆義が仰け反った。その胸からは鮮血が溢れ、シャツの胸元を真っ赤に染めている。
「………………!」
 自分で自分の胸元を見つめ、隆義は信じられないと言う顔で父親を見つめた。父親も茫然とした体で息子を見つめ返す。その震える手にはナイフが握られ、その鋭い刃先も赤い血で塗れていた。
「…………ひっ…………」
 父親が声にならない悲鳴を洩らした瞬間、狙ったように美鳥が悲鳴を上げる。
「きゃあああああ!だ、誰か……!」
 その悲鳴に弾かれたように、父親である隆則はナイフを投げ出し、部屋の外へと逃げ出した。その後ろ姿を見送った美鳥の唇が微笑む。
 
 父親に刺され、血を流しながら床に倒れている隆義を一瞥し、美鳥はゆっくりと部屋から立ち去った。
 
 息子を刺し、動転して逃げ出した父親は、病院の裏庭から駐車場に抜ける途中で放心していた。壁に背を預け、息を切らせている。瞬きを忘れて見開かれた目は宙の一点に固定され、周りなど見えていないようであった。
「……逃げ出したりしなければ良かったのに」
 いきなり声を掛けられ、慄いた顔を向ける。次いで驚愕に目が更に見開かれた。
「……きみは……」
「あら、おじさま。先程まで必死になって抱きついていた女の顔をお忘れですの?」
 クスクス笑いながら言う美鳥の顔を、唖然とした表情で見つめる。
「……美薗……くん……?」
「そうですわ、おじさま」
 息を飲む音さえ聞こえるような静けさ。つけ毛を取っただけで、かなり印象が変わってしまっているらしい。
「……なん……どうして……その髪は……」
 訳がわからず、支離滅裂になる言葉。美鳥が微笑む。
「ああ、これが本当の髪の長さですの。さっきまではつけ毛でしたのよ」
 何が何だかわからないと言う須田の顔を、楽し気に見つめて続けた。
「あなたの息子さん……隆義さんは助かりそうもなかったですわね」
 須田がハッとした顔で息を飲んだ。
「……きみは……きみは息子を……隆義の事を知っていたのか……?」
「もちろんですわ。隆義さん、私に結婚前提の交際をして欲しい。父親……つまりあなたですわね……にも会って欲しい、とまで仰ってくださってましたのよ」
「……何だって……?」
「隆義さんは私の事を好いてくださっていた、と言うことですわ、おじさま」
 言葉も出ない様子で美鳥の顔を見つめる。
「……その上で……きみは私に近づいたと言うのか……?……一体、何のために!?」
 やっと出た言葉はそれだけであった。たが、その言葉を聞きたかったのだ、と言うように美鳥が頷く。
「私……おじさまには色々と申し上げたい事がありますの。……そして、何故、ご自分がこんな目に遭わなければならなかったのか、を知って戴いた上で……」
 口元しか笑っていなかった美鳥の目に、初めて感情の色が宿った。
「……永遠に赦されない地獄へ堕ちてもらいたい……」
「……何だと……!」
「……あんたがやった事を考えれば当然だよ」
 言われた言葉に対してなのか、突然口調が変わった事に対してなのか、須田が美鳥の顔を穴が開くほど凝視する。
「……私が何をしたと……」
「……私の本名はね……松宮美鳥って言うんたけど……?」
「……まつ……みや……」
 確認するように呟いた須田が、時が止まったように、もしくは身体の機能が止まったように硬直した。
「……馬鹿な……そんな馬鹿な……」
「……遺体が見つかった、ってニュースに安心してたの?それが私だって、何の確証もないのに?」
  一歩、踏み出した美鳥が須田の顔を覗き込む。
「あんたが信じようと信じまいと、私にはどうでもいい事だよ。私にとっての事実は、あんたたちが私の両親も身内も友だちも、皆殺しにした、って事だけなんだから…………ああ……」
 微動だにせず、瞬きもしない須田の目を射抜くように覗き、
「……殺したりしないよ?……でも、どこまでもあんたの事、追い詰めるからね?何かしようとしても、何をしても、絶対にメチャクチャにしてあげるから」
 そう言って艶やかに笑った。見る者全てを魅了せずにはおかない、美しい笑顔が花のように咲く。
「殺すだけなら簡単。証拠も何も残さずに人ひとり葬るなんて、私には造作もないこと。……だけど、私は、あんたたちに、自分が何をしたのか、何のためにこんな目に遭うのか、知ってもらわないと、気が済まないんだよね」
「…………ひ…………」
 恐怖に駆られたのか、須田は脱兎の如く駆け出した。震える手で車の鍵を取り出して乗り込むと、すごい勢いで走り去る。
 それを見送った美鳥の目は、再び硝子玉のような色に戻り、微笑みは口元だけに残された。
 
 翌日、本多からもたらされた報告は、須田の運転する車が山道を走行中に事故を起こし、本人は即死したと言うものだった。
 それが『本当の事故』であったのか、『事故を装おったもの』であったのか、『事故を誘発するように仕向けられたもの』であったのか。
 
 それは美鳥にとってはどうでもいい事であった。
 

 
 第三のターゲットは、大手出版社社長である柳沢勝であった。
 その柳沢と言う男は、副島と懇意にしている北信ガスの重役とも親しいと言う。四天王を介さずに副島に近づく足掛かりとしては申し分なかった。
「出来れば、副島には四天王を介して近づいた事を知られたくないし……」
 本多から届けられた書類に目を通しながら呟く。シャツを一枚着ただけでソファに沈み込む美鳥の脚に、昇吾がふわりとブランケットをかけた。
「……風邪をひきますよ」
 黙って昇吾の顔を見上げる。
『どこまでも共に行きます』
 その言葉通り、朗──昇吾は美鳥から離れる気はないようであった。今までと同じように、美鳥の身体を気遣い、管理し、そして見つめている。変わった事があるとすれば、それはその言葉遣いだけであった。
 立ち去ろうとする昇吾に、無言のままの美鳥が手を伸ばす。
「……どうしました?」
 その手を取りながら訊ねる。美鳥に引かれるまま、ソファの前にしゃがんだ昇吾の首にするりと腕が巻き付く。
「……翠……?」
「……何故、ここにいるの?」
 昇吾の目をじっと見つめて問い掛けた。
「……言ってる意味がわかりません」
「朗が何度、何を言おうと、何をしようと、私はやめない。傍にいても無駄だよ」
 昇吾はやんわりと美鳥の腕を外し、立ち上がろうとする。
「……無駄かどうかは、ぼくが決める事です」
 眉を吊り上げた美鳥が、昇吾の襟元を掴むと一気に引き寄せた。細い身体の上に引き倒されたところで唇を塞がれる。
「………………!」
 心の中に踏み込むように、昇吾の身体を支配する小さな、しかし熱くやわらかい身体。
「……ホントは離れたいんでしょ?無理する事ないのに」
 顔を離し、再び言い放つ唇、感情の機微のない目。
「……何度も言うようですが……」
 そこまで言いかけ、昇吾は言葉を止めた。
「……何?」
 聞き返すその唇を、今度は昇吾が塞ぐ。唇を押し開くように。その動きに追随するように、見開かれた美鳥の目が閉じて行き、昇吾はそのまま腕を回して抱きしめた。
 首筋に唇を落としながら、指をシャツに滑り込ませる。
 
『これが答えだ』
 ──そう言うかのように。
 
 
 
 
 
 
 
 

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