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かりやど〔弐拾七〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
運命は斯くも残酷に
 
これ以上
何を奪うと言うのか
 
 

 
 

 堀内承子からの情報──『個人情報の漏洩』の話を受け、昇吾は即日、退職を決意した。
 このまま黒川玲子と関わり続けるのは、危険過ぎると判断したからである。
 その足で、退職のための書類を受け取り、仕事に支障が出ないように調整してもらい、翌日には、その書類提出のために再び社を訪れた。
 最後の挨拶を済ませ、早々に去る。誰とも顔を合わせないうちに。
 だが、駅まで歩きながらも、昇吾は考え続けていた。
 
 失われている美鳥の記憶のこと。
 そして、黒川玲子の目的。
 
 事件前後の美鳥の記憶が曖昧になっていると聞いてから、昇吾は自分でも、改めてあの時の事を思い起こすようになっていた。
 それは、以前、朗にも訊かれたことではあった。
 動揺していたとは言え、本当にもう思い出せることはないのか。何か、大切な事を忘れているのではないか。何か、自分でも気づかないうちに目撃していたのではないか──。
 憶えていないにも関わらず、あれほどに美鳥を怯えさせる記憶である。昇吾には、その正体はひとつしか思い浮かばなかった。
 即ち、犯人に関わる事──である。
 恐らく、美鳥は何か重大な事を見た、もしくは聞いたのだ。あの混乱の最中に。
 
 そこまで考えて、昇吾はハッとした。
 あの時、自分が目撃した車──逃げるように去ったあの車も関係あるのではないか、と。
 もし、あの車に乗っていた人物が、事件に関わっているのなら、美鳥はその人物に遭遇なり、目撃なりしたのではないか。
 美鳥の代わりに発見された美薗の遺体──その素性を疑われていない様子から、美鳥自身が目撃された、と言うことはないはずである。ただ、倒れていた状況や、爆音のことを考えると、『目撃』ではなかったのか、と思うのだ。
 昇吾だとて、暗い中で走り去る車しか見ていない。それでも、冷静に思い起こしてみれば、『何となく覚えがあるシルエット』を車中に見たような気もする──そんな記憶も甦って来る。
(せめてナンバーなり見ておけば……)
 今さら言っても始まらない。それはわかっていても、悔やまずにはいられなかった。
 どちらにしろ、昇吾は美鳥に無理に思い出させることは良しとしていない。今の状況を考慮すれば、自分の記憶も含めて横に置いておくしかない、とも思うのだ。
 
 それよりも、今、もっと気になるのは玲子のことであった。
 
 実は少し前に、一度だけでも付き合えば気が済むかと、数人のバイトメンバーとの昼食に、『一時間だけ』と言う約束で参加した。
 その時、昇吾はほとんど喋らずに座っていただけであるが、本来は社交的でない訳ではない。性格的にも明るく快活だし、そもそも企業の跡取りとして社交的であるように教育されている。
 下手に探らせず、小さな情報も渡さぬよう、細心の注意を払った結果、おとなしくせざるを得なかったのだが、それが却って裏目に出た。
 何故か、玲子は昇吾の状況を知っていたのだ。もちろん、大半は当て推量なのかも知れなかったが。
 どちらにしても、玲子が昇吾の事を探ろうとしていたのは見え見えで、黙ったままの昇吾にひたすら話しかけて来た。
 
『小松崎くんって付き合い悪いわよね。今のうちしかないんだから、もっと遊んどいた方がいいわよ?もう少し付き合い良くしなさいよ』
『そんなにさっさと帰りたがるなんて、本当は彼女でも待ってるの?』
『小松崎くんをそんな風にさせる彼女ってどんな彼女?興味津々』
『片時も離れていたくないみたいじゃない?あんまり彼女の我が儘ばっかり聞いてると後が大変よ』
 
 こんな調子で、いつの間か『彼女がいて』『いつも彼女が待っていて』『彼女を甘やかして言いなりになっている男』にされていたのだ。
 これには昇吾も呆れて閉口した。事件に巻き込まれる以前の昇吾なら、『余計なお世話だ』とひと言で終わっていただろう。
 そもそも昇吾には、自分が玲子にとってメリットがある人間とは思えなかった。好みのタイプと思われているとも当然思えない。別に自分を卑下して言っている訳ではなく、である。
 つまり、これは偏に、玲子の強烈な自尊心の産物なのだ、と思わざるを得なかった。
 
『自分の誘いを躊躇いもなく断った無礼な男』
『自分の機嫌を取らないつまらない男』
 
 そんな男を思うがまま、言いなりにさせなければ気が済まない。その苛立ちを、ズタズタにされたプライドを返上したい。もしくは、自分に媚びない、裏の世界には関係なさそうなタイプの男をメチャクチャに汚してやりたい。
 そうして、自分に諂い、懇願する様を見下ろして悦に入る──そんなところであろう。
 だからこそ、恐ろしいとも言えた。
 普通の女子大生ならそこまで警戒したりしない。だが、玲子は『普通の女子大生』ではない。裏ではおとなも顔負けの悪事を働き、それを楽しんでさえいるのだ。
(……ってことは、父親の方も何をしているかわかったもんじゃないな)
 玲子の父親は大手製薬会社の社長であり、大病院との繋がりもある。娘がやっている事を考えれば、父親である黒川が何をしていても不思議ではないし、驚きもしない。
(……美鳥の身体を中毒にした挙句、あんな風に弱くしたのは、恐らく……)
 そう考えると怒りが込み上げて来る。無邪気で快活だった、あの美鳥の姿が脳裏に蘇って来るのだ。
 そうは思うものの、今は玲子と争っている場合ではない。目的はあくまで『黒川社長』と他の四天王、そしてその背後にいる黒幕であり、何よりこんな事をした目的なのだ。
 考えを巡らせていた、その時──。
「小松崎くん」
 昇吾が硬直する。
(……しまった……!)
 そう思った時には遅かった。退職の手続きを済ませたからと言って、周囲に注意を払うのを怠っていた事を後悔する。
 仕方なしに振り返ると、いつも通りに顎を反らした玲子が立っていた。いつ見ても、上からな態度は健在である。
「ずいぶん急いでるのね。もう帰っちゃうの?」
「……ええ。今日は時間があまりなくて、提出だけの予定で来たので……」
 春さんにもすぐに戻ると伝えてあるので、急いでいるのは本当のことであった。
「……ずいぶんとぞっこんの彼女なのね」
「……いや、彼女とかって話じゃ……」
 またその話か、と昇吾は辟易した。
 いっそ玲子の言うように、『片時も離れていたくない』とでも言ってやろうか、などと喉まで出かかる。
 
 その後も、どうでもいい話が続いた。他人が『急いでいる』ことなど、本当にこの女にとってはどうでも良いことなのだ、と実感しながら時計を見る。
「あら、ごめんなさい。急いでいたのよね。でも今日が最後なんだし?」
 瞬間、昇吾は瞬きを忘れた。
(何故、知っている……!?ぼくが挨拶に回っているところでも見ていたのか……!?)
 華やかに笑った玲子の顔。だが、昇吾の目には毒を湛えた華にしか見えなかった。
「……残念だわ。じゃあ、ね」
 そう言って踵を返す瞬間、玲子が「よろしくね」とわからないほど小さな声で呟く。
 さっさと歩いて行く後ろ姿を眺めながら、昇吾は放心したかのように、しばらく立ち尽くしていた。
 
 背中を向けた玲子が、どんな顔をしていたのか、昇吾にわかるはずもなく。
 

 
 大した用事もなかったのに、グッタリと疲れ果ててマンションに着いた昇吾は、扉に手をかけた瞬間、言い知れぬ違和感を覚えた。
(……鍵が……!?)
 春さんが閉め忘れた可能性を、100パーセント否定は出来ない。だが、99パーセントありえない。昇吾の心が断じる。
 扉を開けると、明らかに他人が入り込んだ形跡。何者かの臭いが、物理的にも感覚的にも鼻を衝く。
 こみ上げる不穏な予感に、昇吾は急いで靴を脱ぎ、リビングに駆け込んだ。
 すると、そこには土足の足跡、乱れた家具、そして──。
「…………春さんっ!!」
 リビングの床に、俯せに倒れている春さんの姿。駆け寄って傍にしゃがみ、大声で呼びかける。
 状況から言って可能性は低かったが、万が一の脳溢血などの可能性も考慮し、敢えて触ったり揺すったりはせずに呼びかけたのだ。
「春さん!春さん!しっかりして!」
 春さんの眉が反応し、薄っすらと目が開いた。そこで初めて抱き起こし、事情を訊ねる。
「春さん!大丈夫!?一体、何があったんです!?」
 春さんの唇が震えた。昇吾に、懸命に何かを伝えようとしている。
「…………ろ……朗……さま…………朗さま…………」
「春さん、大丈夫だよ。今、先生を呼ぶから……」
 そう言った昇吾の腕を弱々しい力で掴み、首を微かに振りながら目に涙を浮かべた。
「……朗さ…………申し訳……ありません…………お嬢様が……美鳥さまが…………」
「…………!?」
 春さんの声は聞くことが困難なほど小さく、昇吾は耳を寄せて何とか聞き取ろうとする。
「…………美鳥さまが…………変な男たちに連れて行かれ…………」
「…………なっ…………!!」
 そこまで言って、春さんの意識は再び途切れた。
「春さん!」
 反応はないが呼吸はある。そっと寝かせ、昇吾は美鳥の部屋へと駆けた。
 開け放されたままの扉から飛び込み、息を飲む。
「…………美鳥…………!」
 いくつもの足跡、乱れた布団やクッション、そして何より、そこにいるはずの美鳥の姿はどこにもなかった。
「……美鳥……一体、誰がこんな……何があったんだ……」
 頭の中が真っ白になり、自分の意識がなくなるのではないかと錯覚しそうになる。
「………………!」
 だが、我に返った昇吾の行動は早かった。
「……本多さん?朗です。美鳥が何者かに連れ去られました。今から位置を送りますから、至急、追跡してください。それから、ひとり……急いでマンションに寄越してください。春さんが襲われて怪我をしています。すぐに夏川先生にも来てもらいますので……」
『朗さまに付いていた者が近くにおりますので、すぐに向かわせます。すぐに動きますので、美鳥さまの位置をお願いします』
 昇吾は本多に美鳥の位置情報を送ると、春さんに毛布をかけながら続ける。
「……その人が着いたら、ぼくもすぐに美鳥を追います。本多さん……何としても美鳥に追い付いてください!総動員してでも!そして見つけ次第、躊躇わずに美鳥の身を確保してください!様子なんて窺わなくて構いません!そんなことをしているうちに美鳥がどんな目に遭うか……!美鳥の身を最優先にお願いします!」
 昇吾は叫んだ。
『心得ております』
 本多の返事を聞いて通話を切ると、昇吾は急いで夏川に連絡を入れた。驚きを隠せない様子だったが、さすがに松宮付きだったと言うだけのことはあり、すぐに向かうと動き出す。
「朗さま!」
 ちょうどその時、親衛隊のひとりが駆け込んで来た。その男に春さんを託す。
「夏川先生がすぐに来てくれます!それまで春さんを頼みます!」
「承知致しました」
 親衛隊の男の返事を聞くや否や、昇吾は部屋を飛び出した。車に乗り込むと、美鳥の身体に仕込んだGPSを追う。
 こんなこともあろうかと、決して考えていた訳ではなかった。だが、現実に起きてしまった──『まさかの事態』が。
 
(……迂闊だった……)
 親衛隊の警護を、あまり美鳥に近付けないようにしていたことを、昇吾は激しく後悔した。
 気配に敏感な美鳥が、気にしてパニックに陥るのを防ぐため、だったのは事実である。だが、何よりの理由は『美鳥が狙われる理由がなかった』からなのだ。
 何故なら、美鳥は既に『死亡している』から。遺体も発見され、疑う者もいないはずだった。
 それ故、昇吾と違って、松宮を狙った者たちに対する警戒は必要なかった。だからこそ、それとは関係ない敵がいるなどと考えもしなかった。
 いや、もっと正確に言えば、それと比べたら大したものではない、などと高を括っていたことは否定出来ない。
 だが、今、美鳥は目が見えないのだ。その上、身体も万全ではない。
 何でもないことでさえ、彼女にとっては大事(おおごと)であるはずなのに、甘く見積もっていなかった、と言い切れるだろうか──。
 
 悔やんでも悔やみ切れない痛恨のミス。しかし、この際、後悔するのは後回しであった。
(……美鳥……待ってろ……!……必ず助けてやる……!……とにかく無事でいてくれ……!)
 
 美鳥が連れ去られている場所に向かって、昇吾は車をひた走らせた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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