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かりやど〔弐拾九〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
互いのために生きながら
互いのために死にたくなる
 
互いのために
心まで殺したくなる
 
 

 
 

 昇吾たちが施設に着くと、夏川は落ち着かない様子で表に立っていた。
 
 本多が表玄関に車を寄せると、飛び付くようにドアを開け、美鳥を抱えた昇吾を補助する。丸ごと包まれた美鳥を見て、一瞬、固まったものの、そのまま昇吾と共に処置室まで走った。
「夏川先生!」
 看護師たちがストレッチャーを用意して待ちかねている。昇吾が美鳥を寝かせ、包んでいた毛布を取ると、その場にいた全員が息を飲んだ。
 夏川は言葉を失い、看護師も目を背ける者、手で口元を覆う者、涙ぐむ者。
「……すぐに傷口の洗浄と消毒を!」
 真っ先に我に返った夏川の指示で、看護師たちが一斉に動き出す。その後ろから処置室に入ろうとした夏川の腕を、昇吾が反射的に掴んだ。
「……朗さま?」
 見たことがない程、昇吾──夏川にとっては朗であるが──の顔には暗い影が落ちていた。瞬きを忘れた目は色を失い、穏やかな顔は悲壮感に支配されている。まさに『生ける屍』と言う表現が相応しい程に。
「……朗さま、大丈夫です。必ず痕も残らないように治します」
 夏川の言葉に、昇吾は小刻みに首を振った。
「……先生……ぼくにはわからなかったんです……」
「…………え?」
 夏川が聞き返す。
「…………美鳥が無事なのか…………見つけた時の状況から言ったら……だけど……だけど…………」
 言い淀み、床に崩れ落ちた昇吾の様子に、夏川はすぐに『無事』の意味を理解した。座り込んだ昇吾の傍らにしゃがみ、項垂れた肩に触れる。
「……その事も含めて、ちゃんと調べます。……朗さまも今のうちに着替えて来てください」
「……ここで待ちます……」
 床に着いた握り拳を震わせる昇吾に、夏川は首を振った。
「……朗さま。これは朗さまのために言っているのではありません」
 はっきりと言い切る。
「美鳥さまのためです。美鳥さまは目を覚まされたら、恐らくまた朗さまに縋りつくでしょう。そして離れないに違いありません。医者の立場から言わせて戴きますが、その時に今の朗さまの状態では……」
 確かに、今の昇吾の格好は酷いものであった。薄汚れた上に汗まみれで、お世辞にも清潔感があるとは言えない。ただでさえ弱っている美鳥に、わざわざ雑菌を近づけるようなものだ、と夏川は指摘しているのである。
 夏川の顔を見つめた昇吾は、ゆっくりと自分の手を、次いで身体を見下ろし、更に項垂れた。
「……着替えて来ます……」
 消え入りそうな声。力なく立ち上がると、昇吾は思い出したように夏川を見た。
「……先生……春さんは……」
 夏川が穏やかな顔で頷く。
「大丈夫です。軽い脳震盪と打撲だけですから。大事を取って、2~3日も休んでもらえば回復すると思います」
「……良かった……」
 安心した昇吾がホッと息を吐き出すと、
「……後は私を信じて任せてください」
 夏川は優しく笑いかけ、今度こそ処置室へ消えた。
 
 残された昇吾はしばらく立ち尽くしていた。衝撃が大き過ぎて脳が働かない。遣る瀬無い怒りと自己嫌悪が、自分を支配している事だけは感じていても。
 何とか動き出し、部屋でシャワーを浴びて服を着替えた。
 急いで処置室の前に戻るも、まだ美鳥の手当ては終わっておらず、力が抜けた昇吾はベンチにヘタり込む。
 その時、昇吾──正確には朗の携帯電話が鳴り、表示は本多の名前。昇吾たちをここまで運んだ後、本多は部下たちに合流すると言い残して去っていた。
「本多さん?」
 処置室から少し離れた場所で電話を受ける。
『朗さま。奴らに追い付きました。いくつか溜まり場を持っているようで、ここもそのひとつでしょう。今から、捕縛に入ります』
 感情の波も躊躇いも何も見せず、本多は坦々と報告事項だけを口にした。
「……本多さん。奴らを捕らえたら、何のためにこんな事をしたのか、誰に頼まれたのか、全て吐かせてください。どんな手を使ってでも……!」
『心得ております』
 電話を切り、しばらく立ち尽くしていると、夏川が処置室から顔を覗かせ、昇吾を探しているような素振り。
「先生……!」
 昇吾が駆け寄る。不安そうな昇吾の目を見つめ、
「朗さま。美鳥さまは『無事』です。そう言った形跡はありませんでした」
 無駄を省き、しかし穏やかに告げた。
「………………!」
 全身から力が抜けそうになるひと言。思わず泣きそうになる昇吾に、だが夏川からの楔が刺さる。
「……だからと言って、手放しで良かった、とは言えませんが……『せめてもの救い』としか。か細い女の子にあんな酷い真似を……人間のやる事じゃない……!」
 怒りを隠さない夏川の言葉。まさにその通りであった。美鳥が感じたはずの恐怖と痛みを思えば。
「傷の手当ては済みましたので、これから念のために内臓や骨に異常がないか、もう一度詳しく検査します。もう少しお待ちください」
 頷いた昇吾に小さく笑い、夏川は再び処置室に入って行った。
 
 昇吾もベンチに戻り、ただ、美鳥のために祈る。そして同時に、自分自身と犯人に対する怒りを燃やしていた。
「…………美鳥…………」
 膝の上で組んだ手に、額を当てて俯く。
(……また美鳥がおかしくなってしまったら、一体どうすればいいんだ……ぼくは正常でいられるんだろうか……?……こんな時に朗がいてくれたら……)
 そう考えるも、そもそも朗がいたらこんな事態になってはいなかっただろう。
(……あれほど美鳥を頼む、と言われたのに……)
 挫けそうな心を何とか保って来れたのは、例え緩やかにでも回復して行く美鳥がいたからであった。もし、その小さな希望さえなくなってしまったら──。
 呼吸をしているのに、息が苦しくて仕方なかった。喘ぐように肩で呼吸をしても、身体中の酸素濃度が低過ぎておかしくなりそうな感覚。──と。
 微動だにしなかった昇吾が顔を上げた。
(……本多さん……?)
 再び携帯電話が鳴っている。
「……朗です……」
『朗さま。今回の黒幕がわかりました』
 本当に必要な事項しか言わない本多に、携帯電話を握る手に力がこもった。
「……本当ですか……!?」
 思わず昇吾が立ち上がる。本多は一瞬の間の後、事実を事実として告げた。
『黒川玲子に頼まれた、と……』
「……なん……!?」
 それ以上の言葉は出て来ず、昇吾は茫然とする。
(……今……今、何て……?)
 とても信じられず、今、自分が聞いた事の意味を、自分に問いただす。
 信じられないのは、『黒川玲子が頼んだ』と言う事実ではなかった。あの女ならやりかねない。それ自体は理解も出来る。
 昇吾が信じられないのは、『何故、黒川玲子が自分の家を知っているのか』『何故、美鳥──女の子がいる事を知っているのか』──その事実である。
『黒川玲子はこう言ったそうです』
 昇吾の心の内を読んだかのように、本多は話を続けた。
『“小松崎の家にいる誰か──その人間を連れ去り、監禁でもしておけ。恐らく女だと思うから、もし女であったら、そしてお眼鏡に叶う女だったなら、好きなようにしていい。ただし、殺すな。好きなようにした後、必ず生かしておけ”──と』
 電話の向こうから聞こえて来る、鈍器で叩きのめすかのような本多の言葉。それを昇吾は、瞬きもせず、信じられないものを聞く面持ちで聞いていた。
「……何故……」
 知っているのか?
 一体、何が目的だったのか?
 昇吾が考えていたように、玲子に恥をかかせ、プライドを傷つけた腹いせなのか?
 人が秘密にしていることを暴き、壊して楽しんでいるのか?
 それとも、単にその時の気分なのか?
 何にせよ、そんな事のために美鳥をあんな目に遭わされる謂れはない。美鳥を巻き込んだこと、その一点に於いて、昇吾には情けを掛ける理由がなくなった。
『朗さま。これは彼らの言葉からの私の推測ですが、恐らく内情を流したのは田中と言う専務辺りだと思われます』
「………………!」
 やたら喋りたがりで、重役の立場にありながら口が軽そうな専務・田中の顔が脳裏を過った。恐らくは、上手く乗せられ、悪気もなしにペラペラと喋ったのであろうことは容易に想像がつく。
「……他には?」
 昇吾の声が、固く、低くなった。
『どうやら、黒川玲子が薬物をバラ撒くのに使っているグループのひとつのようです。他にも繋がりのある奴らがいるらしいですが、この男たちはその中でも一番チンピラの部類……つまり、最下層です。他に、もう少し統制の取れた者たちもいるようですね』
 薬物をバラ撒くために、あんなチンピラまで使っていたのでは、一般の生徒たちが断り切れずに被害に遭う訳である。込み上げる苦味を、昇吾は歯を食い縛り、堪えた。
『……朗さま。如何致しますか?』
 絶妙、と言う以外にはないタイミングで、本多が問うて来た。そして、彼が尋ねている事の意味は、昇吾にもすぐにわかった。
「……本多さん……」
『はい』
「始末してください」
 それ故、逡巡の時間はほとんどなかった。自分でも信じられないくらい滑らかに、その言葉は口から出て来た。少しも迷うことなく。昇吾の目は大きく開き、次いで激しく、それでいて冷たい輝きを帯びる。
 本来、松宮家の親衛隊の専門は、調査と工作であり、護衛やいわゆる『後始末』は専門外であった。ただ、危険を伴うことも事実で、己の身は守れなければならないため、基本的に全員が護身術や体術は会得している。その中にあって、必然的に役目が護衛に傾く者もおり、本多のように、ずば抜けた能力を身に付けた者が多くなっていることも、また事実であった。
 だが、本来は『後始末』は彼らの本分ではない。それでも、昇吾は本多に『それ』を命じた。初めて抱く感情に、昇吾は戸惑いながらも身を任せたのだ。
 留める方法はわからず、既に、留まることも出来なかった。怒りが、哀しみが、良心も理性も罪悪感も全てを凌駕する事がある──その事実を初めて実感したのである。
「承知致しました」
 躊躇いもなく、本多もいつもの調子で答える。本多も『それ』を受けたのだ。
「お願いします。……後は、予定通りに……」
『心得ました』
 通話を終え、携帯電話を握り締めたまま立ち尽くす昇吾の背後に、いつの間にか処置室から出て来ていた夏川がいた。呆然と昇吾の背中を見つめている。
 ゆっくりと振り返った昇吾の目を見た時、夏川は恐れていた事が現実になったのを知った。
(……昇吾さまだけでなく朗さままでが……このふたりに修羅の道を……非道な決断を強いる事になってしまうなんて……優しく、強く、輝く未来しかなかったはずのふたりに……)
 泣きそうな目をしている夏川の顔を、昇吾は辛そうに見つめて睫毛を翳らせた。
「……先生……美鳥は……?」
 床に目を落とした昇吾が問う。
「……大丈夫です。内臓にも骨にも、どこにも異常はありませんでした」
 己を抑えた声で答える夏川に、小さく息を吐いた昇吾が安心したように頷いた。だが、顔を上げた時、処置室から悲鳴と硝子が割れるような音が響く。
「…………何だ!?」
 夏川が振り返った時、昇吾は既に動いていた。
「……お嬢様……!……お嬢様、落ち着いてください!……もう大丈夫ですから……!」
 叫ぶ看護師たち。その視線の先には、手に触れる物を手当たり次第に投げ付け、振り回す美鳥の姿。瞬きも感情の色もなくした人形のような目。肩で荒く呼吸をしながら、置いてある器具に向かって別の器具を叩き付ける。飛び散る破片。散乱する器具。
「……鎮静剤を……!」
 一足遅く入って来た夏川が叫ぶも、美鳥を押さえない限り危険で近づけない。全員が一定の距離を保ったまま様子を窺う。
 緊迫する空気の中、持っていた物を投げ付けた美鳥が力尽きたように崩れ落ちた。床に座り込み、肩で息をしている。
「………………!」
 咄嗟に動こうとする夏川の気配を察したのか、美鳥が顔を上げて威嚇するように顔を険しくした。再び、一触即発の空気が流れる。
 
 その時、互いの牽制を破り、昇吾が一歩踏み出した。足音に美鳥が反応する。
「…………美鳥…………」
 呼び掛ける昇吾。声のする方向を硝子玉のような目で睨み付けると、足元にあった物を投げ付けた。昇吾は避けようとはせず、胸に当たって落ちて行く。
「…………美鳥…………」
 昇吾はもう一度呼び掛け、傍にしゃがむとゆっくりと頬に触れた。
「~~~~~~~っ!」
 途端に、声にならない悲鳴をあげた美鳥が逃げようとする。
「美鳥!」
 その身体を、昇吾は後ろから包むように抱えた。暴れ、もがく小さな身体。出来る限り傷に触れないように拘束すると、振りかざした美鳥の爪が昇吾の頬を掠めた。ひと筋の傷から赤い血が滲む。
「……美鳥……美鳥……もう大丈夫だ……遅くなってすまなかった……もう大丈夫だから……」
 耳元で何度も繰り返していると、次第に力が抜けて行く。やわらかく抱え直すと、昇吾だとわかったのかしがみつき、堰を切ったように泣き出した。その様子を、全員が悲痛な面持ちで見つめている。
「……先生……このまま部屋で休ませて構いませんか?」
 振り返った昇吾が訊ねると、夏川は全てを託すように頷いた。昇吾の目の中に生まれた、今までとは違う覚悟の色に気づきながら。
「朗さま……傷の手当てを……」
 夏川の言葉に首を振り、優しい眼差しで美鳥を見下ろした。緊張を強いられた疲れか、しがみついたまま意識を失いかけている。
「……よしよし、美鳥。……今日はもう休もうな。…………すみません、後をお願いします」
 幼子をあやすようにしながら、昇吾は処置室の出口に歩いて行った。
 
「……ぼくが必ず、美鳥の記憶を塗り替えてみせます」
 夏川の横を通り過ぎる時、そう言い残して。
 
 
 
 
 
 
 
 

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