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一夜に咲く永遠の花〔前編〕

〔さりげなくご協力戴いた方々〕
鶏三昧さん
ゆき坊さん
雨水太郎さん
※何の協力かは文末参照
 〔 ↓ ごめんなさい、すっごい下の方w〕
 
 
 
*****
 
 
 
 祭の季節ではなくとも、参道近くに連なる出店。月行事がある日の昼間は、人が賑やかに行き交う。
 
 そこは不思議な空間。
 神社と寺──そのふたつが、背中合わせに佇む場。
 

 
「オヤジ、10隻くれ」
 一軒の屋台。夕方、不意に現れた人物は、少年とも少女ともつかなかった。言葉遣いは少年のようだが、その声からははっきりとした性別の判断はつかない。
「……あいよ」
 だが、そんなことは関係ない。注文を受ければ売る──それが仕事だ。少なくとも、長尾鷹征(ながおたかゆき)にとっては。
「……今、焼いてるから少し時間かかるぜ」
「……いい。待ってる」
 答えて周囲に視線を動かす。
(……綺麗な顔して、愛想のねぇガキだな)
 絵のように整った横顔。上目遣いでチラ見しながら、長尾は熱さを物ともせずにたこ焼きを返した。不思議な客が気にはなったが、すぐに焼け具合に集中する。
「焼きそばはないのか?」
 また突然、声をかけられた長尾は、瞬きを止めた一瞬の間の後、ゆっくりと睫毛を翳らせた。
「……おれはたこ焼き屋だ」
 出来るだけ平坦に答えると、不思議な客が自分を見つめている視線を感じる。気づかぬフリをしていると、やがてゆっくりと視線を逸らしてつぶやいた。
「……うまい、って聞いたんだけどな」
 長尾の目が驚きで見開かれ、鉄板上に固定されたまま止まった。
『誰に聞いた?』
 訊こうとして留まる。
(昔なじみの客なら覚えてる人もいるか……その中の子どもとか孫なのかも知れんしな)
 無理やり自分を納得させ、ひたすらたこ焼きを返して行った。
「……10隻も買って、たこ焼きパーティーでもするのか?」
「いや、食うんだ」
 容器に詰めながら何気なく訊ねた長尾は、危うくたこ焼きを取り落としそうになった。マジマジと客の顔を凝視する。
 長尾のたこ焼きは決して安くはないが、それに見合ううまさと大きさには定評があった。ひとりで10隻食べるのは、どんな巨漢でもキツいだろう。
「……何かおかしいか?」
 シレッと答える様子は可愛気がないが、からかっている様子もない。
「おめぇさんの姿形で言われたら、見かけによらずの食いっぷりだ、ってぇ誰でも思うぜ」
 長尾の言い分に薄く笑みを浮かべてポケットを探り、直に入れていた金を引っ張り出した。
「はいよ」
 二つに分けられた、二枚重ねのビニール袋。ズシリと重みのあるたこ焼きを受け取ると、またも意味ありげな笑みを残して去って行った。後ろ姿をしばし見送るも、振り返る様子はない。
「……そろそろ店じまいにするか……」
 陽も傾いたことに気づき、つぶやいて片づけを始めた。
 
 片づけを終えた帰り道。陽は完全に落ちていた。
 ──と、長尾はどこからか聞こえて来る声に足を止めた。薄暗くなった茂みの方から、若い男の声が数人分重なって聞こえて来る。だが、感じるのは不穏な空気。和やかさはカケラ程にも感じない。
(揉め事か?)
 静かに足を踏み入れ、木の陰から様子を覗った。すると、5人の若い男が別のひとりを取り囲み、ニヤニヤしながら何やら言っている。
(……ありゃあ、さっきの……?)
 そこまで考えてから、『小僧』と言う言葉と『お嬢ちゃん』と言う言葉が脳内を交互に巡って行く。
(……ヤバいか……?)
 それにしては、肝心の『客』は突っ立ったままで、特に慌てている様子も怖がって震えている様子もない。顔は見えないものの、後ろ姿からは余裕しか感じられず、先ほどの不敵な笑みが脳を掠めて行く。だが──。
『それよりも何よりも、口は悪くても、もし女の子だったら』
 その可能性が胸の奥から競り上がって来た時、長尾の足は自然に動いていた。
「おい!そんなとこで何やってんだ!」
 突然、乱入した長尾の声に、5人の視線が一斉に注がれた。最後にゆっくりと振り返った『客』は、やはり怖がっている様子など微塵もなく、含みを湛えた小さな笑みを浮かべている。
「何だ、このオヤジ」
 5人の中のひとりが一歩踏み出した。続けて、もうひとりが威嚇するように怒鳴る。
「関係ねぇだろ!引っ込んでろよ!」
 ターゲットを長尾に変えたのか、それを合図に4人が身構えた。
「おい、待て……」
 暗い外灯に照らされた長尾の顔が見えた瞬間、一番奥に立っていたリーダー格の男が仲間を制した。
「何で止めるんすか」
 不満気な仲間の声に、リーダー格の男が一歩前に出る。
「そのオヤジを良く見てみろ……あの傷……」
 指差された長尾の顔には、中心を横断するように真一文字の古傷。それを認めた4人の顔色がわかりやすく変化した。
「……おい、やべぇぞ……」
 ひとりがそう言うと、残りも顔を見合わせ、その足が少しずつ後退る。
「……クソッ!」
 悪態をつき、5人は逃げるように立ち去った。
「……ったく……」
 呆れを隠さずに長尾が溜め息をつく。姿が見えなくなるのを確認し、『客』に目を向けた。
「まあ、おめぇさんには余計な世話だったのかも知れんがな」
 先手を打つ。すると、
「……いや……お陰で残りのたこ焼きを無傷で済ませられた」
 などと言う。何とも尊大な礼の言葉に、長尾の胸には腹立たしさよりも可笑しさがこみ上げた。だが直後、『残りの』と言う言い回しにハッとする。手元を見れば、ふたつに分けたはずの袋をひとつしか持っていないではないか。
「まさか、あいつらに……!?」
 粗末に無駄にされたのか、と顔を険しくした長尾に、またも『客』はシレッとした目を向けた。
「いや……半分はあいつらに絡まれる前に食った。……やっぱりうまかった」
 聞いた長尾は、そのまま後ろに倒れそうになるのを何とか堪えた。『目を剥く』とはこの事かも知れない、などと考えながら、落ち着こうと大きく息を吐き出す。
「……家はどこだ?あいつらが、まだそこらをウロウロしてるかも知れねぇ……送ってくぜ」
 余計な事とは思いながらも、そこで放置する事は長尾には出来なかった。
「あ〜……いい、いい。帰るつもりないから。……って言うか、帰れないと思うし」
「ぁあっ!?」
 だが、返って来た言葉に、またも呆気に取られる。
「……おめぇさん……まさか家出か……?」
 真顔で訊ねる長尾の顔を凝視し、それから『客』は吹き出した。
「飛躍しすぎだぜ、あんた」
 本気で心配した長尾の顔が、一瞬ムッとする。それを見逃さなかった『客』は、ニヤリと笑って続けた。
「……そろそろ、色々ある頃なんだよ。今夜辺り、後始末が忙しそうなんでさ」
「……何……?」
 意味不明の返答。長尾が首を傾げると、幾分和らいだ顔を向けて来た。
「まあ、気持ちだけはありがたく戴いとくけど、想定内なんで心配は無用。じゃあな」
 それだけ言うと、足早に遠ざかって行く。だが、そう言われると、尚更気になるのが人情と言うものである。
 後ろ姿を見つめていた長尾は、咄嗟に声をかけた。
「……おい!よくわかんねぇが、ならウチに来い!」
 ピタリと足が止まる。ゆっくりと振り返った顔には、ほんの僅かな驚きの色。それを認めた長尾の方が、己の放った言葉の内容に今更ながら息を飲んだ。
『もしも女の子だったら』
 そう考えて助けに入ったのは自分の方ではないか、と。これで本当に女の子だったとすれば、はっきり言って本末転倒である。
「……や……他意はない……」
 思わず言い訳が口を突いて出た。だが、『客』の方は長尾が気にしているポイントには重きを置いていないようで、またも不思議な返答。
「……ああ、そうすりゃ、手っ取り早いか……」
「あ?」
 ポカンとする長尾の事など意に介さず、ひとり納得して頷いた。
「じゃあ、そうさせてもらう。そろそろ、いろいろ限界が来てるからな……いい加減、事態を何とか動かさないといかんと思ってたところだ」
「あ?」
「よし。あんたン家に連れてってくれ」
「あ?あ、ああ……」
 すっかり相手のペースに乗せられた長尾は、どうにも抜け出す糸口が見つけられず、無理やり諦めの境地に着地するしかなかった。
 
「ところで、おめぇさんの名は……?」
 並んで歩く『客』の横顔を見下ろした長尾は、強烈な既視感に襲われた。
(……どこかで会った事があるような……?)
 記憶の糸を手繰るも、思い当たる節はない。そもそも、こんなに整った顔の客なら、一度きりでも決して忘れられそうにもなかった。それでなくとも、客の顔を忘れた事などないのだ。
「……たかなし……ゆたか……」
 だが、その思考も『客』の返事に掻き消された。
「……おれは長尾……長尾鷹征だ」
 名乗りながら、聞いた名前を反芻する。
(……ゆたか……『豊』か『裕』辺りか……?……って事は、やっぱり男か……?)
 少しホッとし、胸をなで下ろした。少なくとも少女よりはマシな事態だ、と。
 そんな事を考えている間に自宅に着いていた。一階が店舗、二階が居住空間になっている、古くて小さいが一戸建ての家である。
「狭いが、まあ、上がれ」
 扉を開けて中へ通すと、不思議な目をして見回しながら足を踏み入れて来た。その様子にも、長尾は何故か既視感を覚える。だが、何かが引っかかり、話を名前へとすり替えようと転換する。
「おれの名前にも入ってるが、おめぇさんの名前には『たか』が二回も入ってるんだな。まあ、字は違うだろうが……」
 長尾の言葉に、『ゆたか』は少し居心地の悪そうな表情を浮かべた。少し考え、手近にあった紙切れにサラサラと何かを記す。
 無造作に差し出された紙切れ。不思議に思いながら目を落とした長尾は、瞬間、唖然とした。
『小鳥遊遊鷹(たかなしゆたか)』
 紙切れにはそう記されていた。
「……おめぇ……本当なら、おめぇの親もずいぶんとまた……遊び心あり過ぎだろう……」
 やや、気を遣った言い回し。
「……本当の名前だ。……『小鳥遊』はお袋の苗字で、お袋はどうしても『ゆたか』ってのをこの字にしたかったらしい」
 他人事のように言う。
(お袋さんの苗字……)
 それを名乗っていると言う事は──容易に状況の推測は出来たはずなのに、
「…………親父さんは……?」
 長尾はつい口に出してしまった。「あっ」と思った瞬間には、時既に遅し。
「……知らん」
 即答であった。心の中に広がって行く後悔の波。
「……そうか。……じゃあ、尚更お袋さん……心配してるんじゃねぇのか?」
 何とか取り繕おうとし、返って来たのは、
「……死んだ……」
 そのひと言で、はっきり言って後悔の上塗りをしただけであった。
「……すまん……」
 そう言って口を噤んだ長尾に、遊鷹は不敵な笑みを向けた。
「あんたがそんな面(つら)する事ねぇよ。もう昔の事だしな」
 しばしの沈黙。気まずい間の後、長尾は思い出したように顔をあげた。
「そう言えば……遊鷹?おめぇ、おれの事を知ってる風だったが……誰に聞いたんだ?お袋さんか?」
「……あ~……いや、まあ、誰って言われると……どう言えばいいのか……何でだよ?」
 有耶無耶に答えながら、遊鷹は残りのたこ焼きを頬張っている。
「……いや……焼きそばの事まで知ってたからな。確かに昔は売ってた時期もあって……だが、ほんの一時の事だったから、知ってる人間は限りなく少ねぇはずなんでな」
 正確には、長尾がたこ焼きと並行して焼きそばを売っていたのは、20年ほども昔の話で、しかもほんの1年余りの期間である。知っている人間も、覚えている人間も数少ないはずであった。
 今、目の前にいる少年の知り合いの誰かが、その間に客として来ていた、と言う事があるとすれば、ひどく不思議なものに感じるのも当然と言える。──と、
「どうした?」
 たこ焼きを口に運ぶ遊鷹の目が、何かを考えるように一点に集中していた。やがて、小さく溜め息をつく。
「……やっぱり潮時だよな……このままじゃフェアじゃないし……第一、このオヤジ、変わりそうにないじゃねぇか。だから、もう、いい加減いいよな?」
 明らかに長尾に対する返事ではない。
「あ?」
 たこ焼きを押しやった遊鷹が、「ワケワカリマセン」と書いてある長尾の顔を正面から見据える。
「あんたの事は、確かに人から聞いた」
「あ?」
「あんたには見えないだろうけど、今、あんたの後ろにいる女だよ」
「ああっ!?」
 訝しむ、を通り越して驚愕した長尾が、ものすごい勢いで自分の後ろを振り返った。だが、誰もいない。百戦錬磨を自負する長尾が気配も何も感じないのだから、当然と言えば当然ではあるが。
「あんたにゃ見えねぇよ。後ろつっても、あんたからはちょうど死角に入る位置だからな」
「……ふざけんな!おめぇ、何か怪しい団体のモンか!?」
 思わず声を荒げた長尾を、何の感情も灯さない目が見上げた。
「……あんたはその女を知ってるはずだ……姿は見えなくても、20年近くもあんたの傍にいたその女を……」
「……何……?」
 ──20年──。
 その年数に、長尾の全てが動きを止める。その様子に、遊鷹は下を向いてフッと短く息を吐き出した。長い睫毛が翳りを帯び、形の良い唇が微かに動く。
「……涼花(すずか)……って名の女だ……」
 その名を聞いた瞬間、長尾の中で記憶の風船が弾けた。中から溢れ出す、忘れ得ない膨大な思い出の奔流。翻弄されそうな意識を繋ぎ止めようと、必死でそのひとつを掴もうとする。
「…………涼花…………」
 
 ようやく掴み、それを口の中でつぶやいた長尾の記憶は、遠く遠く過去へと遡って行った。
 
 *
 
 父親である沢村が死んだのは、鷹征(たかゆき)が10歳になる前の事。
 真面目に働きもせず、借金に借金を重ねた負債の増大で金貸しと揉め、自殺とも他殺ともつかない死に様であった。母親は周囲にひたすら頭を下げ続け、耐えられなくなると鷹征を置いて姿をくらました。
 ひとり残された鷹征は、母方の唯一の親戚に引き取られた。親戚は悪い人間ではなかったが、運がなかったのか、それとも運をなくしたのか、大事故に巻き込まれて呆気なく死んでしまった。
 行き場のなくなった鷹征は、当然のように施設へ入れられたが、同じような境遇の子どもたちにさえ馴染む事は出来なかった。鷹征に対して執拗に嫌がらせをする、いわゆる『リーダー格』の少年がおり、他の子どもたちはその少年の言いなりになっていた。
 元来、おとなしい性格だった鷹征だが、ある日、我慢が限界を超えた。凌駕した怒りの力は凄まじく、突然、その少年に飛び掛かった。怒りの感情を、初めて本気で人にぶちまけたのである。
 鷹征からの思いも寄らない反撃に驚愕し、それきり鷹征に嫌がらせをする子どもはいなくなった。だが皮肉な事に、恐れられる存在になった事で、施設はさらに居づらい場所になってしまった。
 学校に行っても絡んで来る生徒と争い、噂を聞きつけて来た他校生とも争い、暴れるだけ暴れる日々。町を牛耳る者たちにまで目を付けられ、引きも切らずに喧嘩に明け暮れる毎日。
 傷害罪に問われかねない事件まで引き起こし、施設からも学校からも煙たがられ、警察には目をつけられ──。
(もう、どうでもいい)
 鷹征の心を支配していたのはそれだけであった。そんな心を見透かしたかのように、ある日、彼を煙たがる者たちが総がかりで仕掛けて来た。
 それすらも鷹征は撥ね退けた。死に物狂いの反撃に慄き、仕掛けて来た方が汲々として退散した。
 だが、そこが限界だった。
 
 力を使い果たし、そのまま原っぱに倒れ込んだ鷹征は、腫れ上がった目で空を見上げた。
 そこには広がる星空。無限の空間から降り注ぐような輝き。しばし、その光景に見入る。
「……あ〜……このままここで死ぬならいい死に方かもな〜……」
 無意識に声に出してつぶやいた時、鷹征は微かな人の気配と足音に気づいた。
(……あいつらか……?……ちっ……戻って来やがったのか……)
 枯渇した力を、極限まで振り絞って起き上がろうとし、諦めた。自分の身体を横にする事さえ出来ないのだから、どうにも諦めざるを得ない。
(……このまま気分良く死ねると思ったのに……あいつらに殺られるんじゃ、さすがに死に切れねぇな……)
 それでも、もう少しも動けない事は間違いなく事実。せめて往生際良く目を閉じた。
(……これで最期だってのに、なんも浮かばねぇもんなぁ……)
 短かったとは言え、自分の人生の中身のなさに、思わず笑いすら込み上げそうになる。──と、足音が止まり、気配を間近に感じた。だが、鷹征に攻撃を仕掛けて来る様子はない。
 息を詰めた瞬間、
「おい、おめぇ……大丈夫か?生きてるか?」
 予想外の言葉が、全く知らない男の声でかけられた。驚いて瞑っていた目を開くと、ガッシリとして逞しい年輩の男が、真上から鷹征の顔を見下ろしている。
「おっ。生きてるじゃねぇか。よしよし……少し我慢しろよ」
 そう言うと、体格的にはかなり大きい鷹征の身体を軽々と担ぎ上げた。
「……っつ……いってぇ……」
「デカい図体して甘えた声出すんじゃねぇ。そんだけボロくなってりゃ、痛くて当たりめぇだ」
 笑いながら茶化すと、そのまま鷹征をどこかへ運ぼうとしている。
「……あいつらがひでぇ有様でゾロゾロと歩いてくのを見かけたから、もしやと思ったが……ひとりで応戦して撃退した挙句に、そんな怪我だけで済んでるなんて大したヤツだ」
 多少、引っかからないワケでもなかったが、一応、褒められてはいるらしい、と思い直す。
 男の肩と背は、長い間忘れていた逞しさと温かさに満ちており、鷹征に痛みよりも心地良さを感じさせた。
 
 運び込まれたのは、古びた小さな一軒家。一階の手前は何かの店舗になっており、男の女房らしき女がふたりを迎えた。
「おやおや、ひどい有様だねぇ。しみるだろうけど、お風呂で身体を洗っておいで」
 女がそう言うと、男は笑いながら「女房だ」とだけ紹介し、鷹征を風呂場に放り込んだ。
 傷を湯で流すと飛び上がるほど痛むが、湯船に浸かると次第に心地良さが広がって行く。温泉に浸かる猿の気持ちが理解出来る気さえし、何もかもが湯に融けて行きそうな、そんな倦怠感と解放感を味わっていた。
(……いい気持ちだ……)
 思わず眠りそうになった時、外に人の気配を感じて我に返る。
「ここにタオルと着替えを置いとくよ」
 扉の外から女が声をかけて来た。
「……ありがとう……ございます……」
 何年も口にしていない言葉が、不思議なほど自然に出た事に、鷹征は自分で驚いていた。
 
 風呂から出ると、バスタオルと着替え──恐らく男のものであろう──が綺麗にたたまれた状態で籠に入っていた。さっき脱いだ、汚れてボロ雑巾のようになった服は見当たらない。
 男の服を借りて顔を出すと、テーブルには食事の皿が並べられていた。
「おや、あがったかい。先に手当しちゃおうね」
 そう言って、女は薬とガーゼを出すと、今着たばかりの鷹征の服を引っペがそうとする。
「……ちょ!まっ……!何を……!」
「何、言ってんだい。服脱がなきゃ手当出来ないじゃないか」
 鷹征から見れば、どちらかと言えば祖母に近い歳。とは言え10代半ばの少年にすれば、もはや恥じらいが先に立つ。
「おとなの形(なり)して、往生際の悪い子だねぇ」
 笑いながら、女は開けた(はだけた)箇所から手際良く薬を付けていった。
「ふ、風呂で洗ったから大丈夫っす!」
 などと、鷹征が逃げようと暴れているため、薬をぶっかけられた、と言った方が正確ではあったが。
「おう、賑やかだな」
 二階から降りて来た男がふたりの様子を見て笑い、必死で押さえている鷹征の服を引っ張った。
「おとなしくしろい。どうしても薬が嫌なら、おれがツバをつけてやるぞ?」
 ニヤニヤ笑う男の言葉に、鳥肌を立てた鷹征がようやく観念した。
「さて……じゃあ、晩御飯にしようかね」
 グッタリとした鷹征を尻目に、女が台所へ歩いて行くと、男がテーブル上の皿にかけられた網を取る。
「ほら。おめぇ、ここに座れ」
 いつもの調子はどこへやら。すっかりふたりのペースに飲まれた鷹征が、モソモソと小さくなって座ると、目の前に湯気の立つ飯碗と汁椀が置かれた。
「暴れたんだから、お腹減ってるだろう?たくさんおあがり」
「若ぇんだから、たんと飯食ってグッスリ眠りゃ、明日には治ってんだろ」
 盛りに盛られた茶碗に、ゴクリと喉が鳴る。
「……い、いただき……ます……」
 子どもの頃にしていたように、胸の前で手を合わせ、ふたりの顔を窺いながら箸を取った。
 胃の中を熱い味噌汁が潤して行くのを感じると、途端に激しく空腹だった事に気づかされる。夢中で箸を運ぶ鷹征に、夫妻の顔は箸を動かしながらもほころんだ。
「ほら、おかわりは?……え~と……」
 女がそう声をかけた時、男が思い出したように顔をあげた。
「……そういや、おめぇ……名前は何てんだ?」
 ハッとしたように鷹征も顔をあげる。これだけ助けてもらっておきながら、まだ名前さえ名乗っていなかった事に今さら気づいたのだ。
「……鷹征……沢村……鷹征……です……」
「そうか。おれは長尾ってんだ。こっちは女房の志津子(しづこ)」
「じゃあ、タカちゃんだね。はいよ、ご飯」
 相槌のように頷き、『志津子』と紹介された女が更に盛り増しの茶碗を差し出した。
(……タ……タカちゃん……!?)
 既におとな顔負けの体格にも関わらず、思わず箸を取り落としそうになる程にくすぐったい呼ばれ方。なのに、不思議と嫌な気持ちにはならない。
「……ところで、家には連絡しなくてでぇじょぶか?」
 黙々と食べ終わった後、そのひと言に鷹征はうつむいて固まった。その様子に夫妻が顔を見合わせる。
「……家は……ないです……」
 絞り出した言葉に、長尾が溜め息をついた。
「……思った通りか……」
 そう言って、鷹征に向き直る。
「……おめぇ、向こう町の施設にいるんだな?」
 うつむいたままの鷹征が頷いた。
「……島田のが言ってたのは、やっぱりおめぇの事だったか……」
 『島田』の名前に鷹征が顔をあげた。『島田』と言うのは、先ほど鷹征とやり合った輩を動かしている男で、ここら辺り一帯を取り仕切ってもいる。
 長尾を島田の手下と疑い、鷹征の目つきが変わった。だが、長尾は怯む事なく続ける。
「寄り合いの時に『目障りなのがいる』言ってたからな。道理でてぇしたもんだぜ……あの人数相手によ」
 その言葉を聞き、鷹征は長尾を疑った己を恥じた。ここらで店を出してる人間なら、手下でなくとも島田とは切っても切れない繋がりがあって当然なのだ。
「だがよ……無傷でもらった身体に、一生消えねぇ傷なんてこさえやがって……」
 鷹征の顔の真ん中と背には、喧嘩でついた傷痕がハッキリと残っていた。他の人間に言われたのなら、間違いなく『余計なお世話だ』と食ってかかっていただろう。
 黙り込んだままの鷹征に、長尾の口からは思いも寄らない言葉が発せられた。
「……とりあえず、今夜はウチに泊まって行け……ってぇつもりだったが……おめぇ、このままここにいろ」
 驚いた鷹征が顔をあげる。長尾の目を凝視すると、そこには冷やかしの色は微塵もなかった。志津子を見やっても、微かな笑みを浮かべているだけである。
「……何でそんな風に……さっき会ったばっかりだし……おれ……島田の奴らに目を付けられてるし、施設でだってやらかしてるし……絶対、迷惑かける……」
「タカちゃん……あんた、育ちはちゃんとしてるんだから大丈夫だよ。これからだよ」
 うつむいて小さな声で言う鷹征に、今度は志津子が返した。
「ちゃ〜んと『ありがとう』も『いただきます』も自然に言えるんだから……大丈夫」
 志津子の言葉に長尾が頷き、鷹征を正面から見据える。
「施設の方には、おれから連絡しておく。島田にも、明日、話つけて来るから心配すんな」
「……えっ……」
 鷹征の心に不安が過った。もし、島田側が腕力に訴えて来たら、と。
「……でぇじょぶだって。おめぇは心配しねぇで、もう寝ろ。疲れてんだろ?」
「ああ、そうだねぇ。今、布団敷いて来るよ」
 不安そうな鷹征の表情に、長尾は変わらぬ様子で笑った。志津子も別段、心配している風でもなければ不安そうな様子もない。
「志津子。部屋に連れてってやれ。ガキじゃねぇんだから自分でやらせろ」
 長尾の言葉に、慌てて志津子について階段を上がると、廊下の左右に部屋があった。その一室の押し入れから布団を出して敷いていると、志津子がシーツやカバーを持って来てくれた。
「心配しなくても、ウチの人に任せておけば大丈夫だよ。はい、歯ブラシとタオル。歯、磨いてさっさとおやすみ」
 そう言うと、まだ不安そうな鷹征に笑いかけて階下へ戻って行った。
 知らない人間の家、初めての場所。にも関わらず、布団に入ると洗いたてのシーツと枕カバーの肌触りが心地良い。
 優しい匂いに誘われた鷹征は、疲れも相俟ってあっという間に眠りに落ちた。
 
 翌朝、久しぶりにグッスリ眠った鷹征が目覚めると、既に8時になっていた。
 顔を洗って急いで降りると、テーブルの上には朝食が用意されている。
「おはよう。良く眠れたかい?」
 昨夜と変わらぬ調子で、志津子が声をかけて来た。
「……は……い……おはよう……ございます……」
「今、ご飯よそうからね」
 目の前に置かれたのは、やはり昨夜と同じように湯気の立つ飯碗と汁椀。
「……いただきます……」
「はいよ〜」
 先ほどから志津子は、何やら準備をしている。箸を動かしながら、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた鷹征はハッとした。
「……あの……おやっさんは……」
「ああ、ちょっと出かけたよ。昼までには戻ると思うから」
「……はい……」
 何となくそれ以上は訊けず、諦めて食事に専念する。
 志津子の言葉通り、長尾はそれから二時間ほどで帰宅した。
 
 戻って来た長尾は、話もそこそこに開店準備を始めた。そこに来て鷹征は初めて、長尾がたこ焼き店を営んでいる事を知る。
 居場所なさげにいた鷹征だが、ふたりが忙しく立ち働いているのを見て、じっとしている己が情けなくなる。店の前に出て、とりあえず掃除を始めた。
「おう、すまねぇな」
 受けた恩に比べれば、礼を言われるほどの事もなかったが、照れくさい嬉しさが胸の内をくすぐりながら広がって行く。そんな気持ちを隠すようにポーカーフェイスを装おい、志津子の代わりに重い荷物を運んだり、高い場所にある物を取ったりした。
 そうやって手伝っている内に、長尾の店は人気店なのだと鷹征は気づいた。
 
 ようやく客も引けて一息つく。
 長尾が自分が焼いたばかりのたこ焼きを持って来ると、志津子が麦茶を入れてくれた。
「まあ、食ってみ」
 ひとつを口に放り込むと、中は火傷しそうな熱さ。
「……はっひぃ!」
「おい、気をつけろ。焼いたばかりだぞ」
 慌てて麦茶を飲む鷹征を、長尾が笑いながら窘める。だが、今度はゆっくり口に入れた瞬間──。
「……うまい……!」
 長尾が嬉しそうにニヤニヤ笑い、夢中で食べる鷹征の姿に、志津子の口元もほころんでいる。
「おめぇの事はおれが預かると話をつけて来た。島田にも、おめぇに手を出すな、ってな。ただし、おめぇの方も、もう島田の若い衆と揉め事を起こさねぇのが条件だ」
 口に入れかけたたこ焼きが、爪楊枝から外れて皿に落ちた。驚きを隠す事は、到底出来ずに。
「……どうやって……」
 一たこ焼き屋である長尾が、そこまで色々と顔が効く人間だなどと鷹征は考えてもいなかった。
「島田のは話のわからねぇ男じゃねぇ。おめぇが若い衆とうまくやれるなら、それで構わねぇと言ってる」
 その言葉には、長尾から鷹征に対する戒めが暗に含まれていた。『顔を潰すな』と。
「いいな?」
 穏やかなようでいて、絶対的な強制力。
「……はい……」
 頷いた長尾は、ぬるくなった麦茶を飲み干した。
 
 共に暮らし始めて数ヶ月経った頃、長尾は「おめぇ次第だ」と言い、鷹征に一枚の書類を差し出した。
 それは養子縁組の書類であった。
「親子、ってには歳が離れ過ぎてるがな」
「……おやっさん……」
 驚きでそれ以上は言葉も出ない鷹征に、長尾はいつもの調子で笑った。
「どっちにしろ、そう長ぇことじゃねぇ。おれたちはある歳になったら、田舎に引っ込んで土でもいじって暮らそうって決めてんだ。ちょうどおめぇが一本立ちするまで……まだ、それくらいは元気で働けるはずだ。あと数年……いい頃合いだろう」
 書類を見つめたまま、鷹征は微動だにしなかった。やがて、膝の上で握っていた拳が震え出す。
「どうしても『沢村』の名に思い入れがあるなら仕方ねぇがな」
 10歳で施設に入ってから7年──鷹征は初めて泣いた。
 
 涙が止まらない鷹征の肩を、志津子は黙って抱いてくれた。
 

 
 長尾夫妻と正式に養子縁組をした鷹征は、いつしか店を手伝うようになっていた。
 
 島田の若い衆と協力して地域の治安保全にも一役買っており、当の島田にも気に入られるようになった。これは、元々の長尾夫妻の人柄によるところが大きいと言える。
 お陰で、近隣で『長尾鷹征』の名を知らぬ者などいないほどで、たこ焼きの腕もいつしか長尾が認めるほどになっていた。
 5〜6年も経つ頃には、ひとりでも十分に切り盛りできるようになっており、それを見計らったように長尾は話を切り出した。
「前々から決めてた通り、おれたちはそろそろ田舎に引っ込もうと思う。この家はおめぇにやるから、あとは好きにしろ……たこ焼き屋を続けるも良し、他の道を探すも良し」
 いつかは来る日、とわかってはいた。だが、突然の話に、やはり鷹征は動揺を隠せなかった。
「……オヤジ……」
「でぇじょぶだ。もう、おめぇはひとりでちゃんと生きてける」
 長尾の言葉に、自分に対する信頼を感じる。養子になった時の事を思い出し、鼻の奥がツンとするのを必死で堪えた。
「……たこ焼き屋を……このまま続けたいです……」
「……そうか……」
 別に恩返しのつもりはなく、鷹征は自分がそうしたい、と思ったからそう答えた。それを汲み取ったのか、長尾は嬉しそうに笑った。
「……鷹征……ただし、これだけは覚えておけ。もし、売れなくて生活が成り立たなくなりそうなら、潔く諦めて店をたため。この家なんか処分しちまって構わねぇからな」
 驚いた鷹征が目を丸くする。
「いいな。絶対に金を借りたりするんじゃねぇぞ。……おめぇは、その苦しさと末路を誰よりも知ってるはずなんだからな」
 実父の事を言っているのだと、鷹征も瞬時に理解した。
「……はい……」
「そう遠い場所じゃねぇ。何か困った事があったら、いつでも言って来い」
 そう言い残し、長尾夫妻は予てより決めていた通り、少しばかりの畑を有する田舎の家へと退いて行った。
 
 涼花と言う女が鷹征の前に現れたのは、それから間もない頃であった。
 
 
 
 
 
〜つづく〜
 
 
 
 
 
 
 
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8月の土曜絵画にて、こんな案やら何やら戴きました!ありがとうございます!٩(。•◡•。)۶
 
☆鶏三昧さんより
 → 8月の土曜絵画のキャラを、全部関係付けてみては?と言う提案を戴きました!
 
☆ゆき坊さんより
 → 3週目のキャラに『遊鷹』と言う素敵な名前をつけてくださいました!
 
☆雨水太郎さんより
 → 2週目のキャラのイメージが、私の書いた他の小説モドキの登場人物のようだ、と言ってくださいました!全く違う話ではありますが、今回、名前に一文字入れさせて戴きました!
そして、鷹征のキャラ設定『怒ったらヤバそう』戴きました!
 
 
 
ありがとうございました!(´∀`*)✨
 
 
 
 
 
 
 

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