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〘異聞・阿修羅王9〙見えぬ道すじ

 
 
 
 何をどのように言われようと、『心』や『感情』というものは思惑通りに留まるものではない。

 不可思議とも、理不尽とも、如何様に責め立てても覆せるものでもない。

「何だ、また来たのか。しばらく姿を見せぬ故、ようやっと己の立場を弁えたのかと思いきや……」

 さらりと放たれた変わらぬ須羅(しゅり)の言葉に、摩伽(まか)はむしろ安堵した。

 己の立場は理解しているつもりでも、毘沙門天からの痛烈な言葉を受けて気づいてしまった。頭で理解していることと、納得して受け入れていることとは、全く別次元であると。

 そもそも、疑うべくもなかった運命(さだめ)に疑問を持つなど、それ自体がありえなかったはずなのだ。

「なあ……須羅……」

「何だ?」

 呼びかけに対し、まともに返事が返されるようになってしばらく経つ。時に無視されることがあるとは言え、返事がある──そんな些細なことすら、摩伽は常に確認したくなる。

「おまえは……阿修羅王になりたいのか?」

 問われた須羅は眉をしかめ、まるで悪鬼でも見たかのような表情を浮かべた。

「では訊くが、なりたくなかったとして、一体、どうせよと? なりたくなくば、ならなくて済むと思うのか?」

 摩伽には答える術がなかった。ただ、黙り込み、ややして違う質問に及ぶしか。

 むろん、それすらも須羅にとっては変わらぬ問いだとわかっていながら、少しでもいい、明確な何かを受け取りたかった。

「……阿修羅王に……なるのか……?」

『馬鹿なことを』

 当然、即答であると思っていた。さらに、追い打ちの冷たいひと言であろうと。

 だが、その瞬間、摩伽の目は、見間違えたのかと思うほど信じられぬものを映した。

「……でなくば、私は何者となるのだ? ならば、インドラではないおまえなどあり得るのか?」

 そう言った須羅の唇は微かに口角を上げており、皮肉めいたものであったとしても、笑みであることは間違いなかった。摩伽にしてみれば、初めて見る表情であることも。

 予想外の須羅の表情と答えに、驚きで呆けたようになった摩伽の口から潜在的な本音が洩れ出る。

「……ならずとも済むのなら……」

「摩伽さま!」

 須羅が何か言うよりも先に、摩伽をさえぎる声が辺りに響いた。

「毘沙門天……」

 背後から現れた毘沙門天に、摩伽の意識はそちらに向き、さらに、つい先日叱責を受けた時のことが脳裏を過る。

「戻られませ……!」

「まだ戻らぬ!」

 聞き分けのない子どものような摩伽に、毘沙門天の態度が硬化した。まるで力尽くでも、という表情に、摩伽の顔も険しくなる。

「おい。こんなところで臨戦態勢に入るな。迷惑だ。おまえも場所を弁えろ、多聞(たもん)」

 割って入った須羅の声。身体の力を緩めた毘沙門天とは裏腹に、摩伽はむしろ柳眉を上げた。

(多聞……多聞だと……!)

 その時、湧き上がったものは、四天王である毘沙門天の別名を、しかも摩伽でさえ呼ばぬそれを、須羅が当たり前のように呼んだことに対する、言い知れぬ感情であった。

「摩伽さま!」

 摩伽の額が波打ち、だが、気づいた毘沙門天の反応は、一瞬、遅れた。

「なりませぬ!」

 焦った毘沙門天の目に映ったのは、摩伽の額に左手を押し当てた須羅の姿であった。

「……この、馬鹿者が……!」

 言ったと同時に、掴んだ額と掌の隙間から、何かを弾くような音が洩れる。

「…………っ……!」

 弾け飛ぶように仰け反った摩伽が膝をついた。

「摩伽さま!」

 駆け寄った毘沙門天が、摩伽を支えながら須羅を睨み上げると、その掌には穿たれたような黒い穴が空いていた。そこから、煙のようなものが尾の如くたなびいている。

「無茶なことを……!」

 そんな毘沙門天に冷ややかな視線で一瞥し、額を押さえている摩伽に言い放った。

「所かまわず力を放出しようとするな。己が力、どれほど強大で危険なものであるか、知らぬはずはなかろう」

 何も答えずにうつむく摩伽を促し、毘沙門天が立たせようとする。

「触るな……!」

 毘沙門天の手を払い、摩伽は背を向けた。

「摩伽さま……!」

 振り返ることはおろか、立ち止まろうとすらしない。

「多聞」

 追いかけようとした毘沙門天の耳を、ひやりとするほど温度の低い声が追いかけて来た。思わず足が止まった毘沙門天が顔だけを向けると、全てを見透かすが如く、冷たい眼差しが見据えている。

「おまえたちの責任だぞ」

 躊躇いなくぶつけられた言葉に、毘沙門天の顔がこれ以上ないほど苦々しげに歪んだ。

「…………っ……」

 何も答えず、正確には答える術を持たず、顔を逸らした毘沙門天は逃げるように立ち去った。

「……此度はおまえの言う通り、違う道を進まざるを得ないやも知れぬな、多聞……いや、此度の摩伽では避け得ぬだろう」

 つぶやき、拳を握った須羅が目を細めた。

 『その時』までに、摩伽には『インドラ』となってもらわねばならず、須羅にしてみれば己の手段に糸目を付けてなどいられない。

「……奴がインドラとならないのなら、私が阿修羅として存在する必要がどこにある……」

 どこか憂いを含んだ声。それは誰にも届くことなく、不意に現れた風に攫われて行く。

 握り締めていた手を開き、須羅は左手を見た。先ほど穿たれた痕はほぼなくなり、薄らと影が貼り付いたようになっている。

 間近に迫った式典の日を思い、須羅はもう一度手を握り締め、溜め息をついた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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