見出し画像

かりやど〔六拾〕〜最終話〜

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
も う も ど ら な い
 
 

 
 

 春さんが張り切って用意した食事会は、途中で朗と美鳥の着物姿の写真も披露され、あたたかい雰囲気に包まれた。
 
 小松崎一家と緒方信吾は、まだそれほど遅くない時間に帰り支度を始めた。春さんが宿泊の誘いを申し出るも、両家ともに丁重に断ったのは、自分たちがいては美鳥がゆっくり休めないであろう、と言う心遣い。
 彼らを連れて来た本多と伊丹が、佐久田も含めて送って行った。
 
 美鳥は、車が見えなくなるまで、ずっと手を振って見送った。
 

 
 夏川の許可を得た美鳥と朗は、入籍した翌々日から数日の間、マンションでふたりきりの生活を送った。解約までの数日間限定であり、検査のために、週二回は戻る条件も以前と変わらなかったが。
 
 それでも、初めてふたりきりで過ごす、穏やかな『普通』の日常。美鳥の体力が許す限り満喫した。
 美鳥が疲れない程度の、短時間限定の外出──朗は、食事や買い物、時には海を眺めに連れ出した。
 家で過ごす時には、美鳥が朗のために腕を奮う。嬉しくて堪らない、と言う風に。
 恋人同士として出来なかったことを、今までの時間を埋めるかのように。
 
 九月末に部屋を解約し、施設に戻ってからも、ふたりは変わりゆく季節を共に過ごした。
 秋の景色を、クリスマスの街並みやイルミネーションを、大晦日から正月を。
 
 その間、夏川は今までにも増して、忙しい毎日を送っていた。春先から研究室に籠もる時間が増えてはいたが、群馬にある大がかりな研究所へも頻々に行き来している。
 そこは、美鳥が曄子(はなこ)を追いつめる直前、薬物を取りに寄った場所でもあった。
 松宮関連の研究施設としては一番大きく、尚且つ、公には出来ない研究も行なっており、夏川はそこの責任者でもあるのだ。
 
 新薬の効果か、環境の成せる技か。
 無理は出来ないまでも安定していた美鳥の体調は、正月を越えて二月に差し掛かる頃、再び緩やかに下降を始めた。
 寒さが厳しいせいもあり、必然的に外出は控えざるを得ないのだが、起き上っている時間が少しずつ短くなって行く。バレンタインに、朗のためにケーキを焼いたりはしたものの、めっきりキッチンに立つ事も減った。
 当の本人は、別段動揺している様子もなく、不安そうにも見えない。だが、朗と、特に夏川の内心には、焦りが生じ始めていた。
 夏川は益々研究室に籠もるようになり、朗は朗で片時も美鳥の傍を離れずに過ごす日が増えている。それで言うと、不思議なのは春さんで、腹を括ったのか真の強さを発揮したのか、今までと変わらぬ態度を保っていた。
 
 三月の彼岸を迎え、昇吾の墓参りに行きたがった美鳥の願いも叶わなかった。
 春めいたとは言え、まだ寒い事もあり、何よりも心配なのは抵抗力の落ちた身体への感染。もう少し暖かくなってから、と朗が慰めるも、四月に入っても復調しない美鳥の様子に、湧き上がる不安を拭えなかった。
『本当に、行けるのだろうか』と。

 その頃には、美鳥は昼間の半分をサンルームかベッドの上で過ごすようになっていた。
 夜、ベッドに入り、眠っている美鳥を抱き寄せる時、無意識の恐れが朗を苛む。
 ほんの少し離れている間に、自分が傍にいないうちにもしや……と。
 静かな呼吸の音とやわらかいぬくもり、そして自らも身を寄せて来る気配。それらを、息を殺して確かめる。
(……生きてる……)
 その実感を得るために。
 
「……朗……」
 いつものように、やっと安心した朗を呼ぶ声。と同時に、美鳥の腕が朗の首を捉えた。
「……ん?」
 背中を抱きしめながら返事をすると、何かを考えているような間。
「……お願い……」
 何をお願いされているのかわからず、思い当たる事を探し求め、あれこれが脳内を駆け巡った。
「……何を、だい?」
「………………」
 無言かと思えば、聞き取れないほど小さな声で、何かを言っている事に気づく。
「……美鳥……?」
「……抱いて……」
 朗の思考が停止する。だが、すぐに、その言葉が、真実、意味するところを否定しようとする理性が急加速した。
 ── ワカッテハイケナイ──
 しがみついている小さな身体を強く抱きしめる。
「……抱いてるじゃないか」
 朗の肩に顔を伏せ、美鳥が首を左右に振った。
「……お願い……」
「……何を言って……」
 心臓が波打ち、手も声も震えそうになる。
「……たぶん、これが最後だから……」
 内臓の奥から焼け焦げて来るかのような感覚。身体中の血液が沸騰し、それが逆流しそうな血管。心臓が逃げ惑うかの如く、身体中を駆け巡っているようだった。
「……だめだ……」
「……お願い、朗……」
「……だめだ……そんな事をしたら……」
「……お願い……もう、変わらない……」
 押し問答しながらも、恐怖で意識が遠退きそうになる。身体に触れる美鳥の体温だけが、現実を感じさせる唯一の手段だった。
 
 自分だとて、美鳥に触れる事をどんなに望んでいるか。
 だが、どうして自分が美鳥の命を縮めるはずの行為を行なえると言うのか。
 堪えたとして、さほど変わらないとしても、一秒でも長く自分の傍にいて欲しいのに、その存在を感じていたいのに、どうして──。
 朗の心が叫んでいた。
 
「……どうしても……」
 朗が明らかに震える声を絞り出す。だが、一気に言葉が出て来ず、
「……だめなのか……」
 ようやく訊ねた朗の──その首の後ろに美鳥の指が触れる。細いしなやかな指が、行き場を求めるように。
「……ごめんね……」
 囁くような声は、だが、はっきりと決定的な言葉を告げた。頭の中が真っ白になった朗が、目眩を起こしそうなほど強く目を瞑る。
「……ひとつだけ約束して欲しい……」
 腕の中で、美鳥の身体に力が入った。警戒するように。だが、朗の口から出た言葉は──。
「……昇吾に心変わりしないでくれ……」
 首に回された美鳥の腕に力がこもった。
「……大丈夫。……昇吾の方が心変わりなんてしてくれないから……」
「……いや……昇吾はきみに泣き付かれたら、信念なんて簡単に捨てる男だ」
「……大丈夫。……そもそも、私が昇吾と同じところに行けるとは思えない。……数え切れない罪にまみれた私が……」
 睫毛を伏せ、静かに答える声。そこには少しの後悔も怖れも含まれておらず、それが朗にとっては却って恐ろしかった。
「……それはない……」
 それでも、確信に満ちた声。
「……どうして?」
 不思議そうに美鳥が訊ねる。
「……昇吾が必ず、きみを引き上げる」
 見開いた美鳥の目が瞬きを止めた。だが、すぐに身体の力を抜く。
「……忘れたくない……朗のこと全部、憶えていたい……」
 
 迷いが、躊躇いが、朗の中から全て消え去るはずもなかった。
 命を縮めるどころか、あまりにか細くなった美鳥の身体は、耐え切れずにその場で砕け散ってしまうかも知れない、その怖れ。それでも──。
(……その時には、ぼくも共に逝く……一緒に昇吾のところに行けばいい……)
 瞑目の中で呟き、身体を離すと真っ直ぐに翠玉を見つめる。
 
 見つめ返して来る湿度を帯びた翡翠に、朗は吸い込まれるように顔を近づけた。
 

 
「……何だい……?」
 自分の胸の上で、美鳥が何かを言っている事に気づき、朗が訊ねる。
「……昔、お祖母様が良く呟いてた……短歌みたいな……」
「お祖母さん?どんな意味の歌?」
「……この身体……現身は、この世……現し世に留まるための、ひと時の仮の宿に過ぎない、って……。大切なのは魂……でも魂が入っている間は器も大切で、いつか還す日が来るから大切にしなければいけない、って……。それから、その大切なものに比べたら、他なんて本当に大切なものなんかじゃなくて、いつ手放しても構わないんだって……」
 それは、今の朗にとってはつらくもあり、だが、ある種の救いを含んだ言葉でもあった。
『例え、器──現身はなくとも、魂の在らん限り共にある』
 佐久田も言っていたように。
「お祖母さんはどんな人だったんだい?」
 こみ上げるものを堪え、朗が訊ねる。
「……不思議な人だった……私は顔が似てる、って言われてた……」
 美鳥はそう答え、朗の頬に向かって手を伸ばした。その身体を、朗はやわらかく抱きしめる。
「……朗……」
「……ん……?」
 再び、何かを躊躇うような間の後──。
「……初めて逢った時から好きだった……」
 いきなりの告白。さすがの朗も驚き、瞬きをとめてただ息を飲んだ。
「……初めて逢った時に『この人だ』って思った……その時から……朗に決めてた……」
 朗は睫毛を半分ほどに伏せた。
 美鳥からは初めての、いわゆる直球の愛の言葉。朗からは、もちろんハッキリと言葉にした事はある。
 だが、美鳥からは「逢いたかった」「傍にいて」などとは言われた事があっても、「好き」とか「愛してる」とか、実は一度も言われた事はなかった。
 それでも、不安も疑いもなく、互いの気持ちは同じだ、と信じていた。信じられた。その振る舞いと自分を見つめる瞳、そして自然に委ねられるぬくもり故に。
 にも関わらず、改めて言葉にされれば、何とも言えない気持ちがこみ上げて来る。くすぐったいような、恥ずかしいような、そして、それを上回る嬉しさと愛おしさ。
「……ぼくもだ……」
 美鳥の髪に顔を埋める。
「……昇吾にしか言っちゃダメだ、って思ってた……」
 朗の腕を掴み、美鳥が続けた。
「……だから……昇吾にしか言わない、って決めてた…………でも……」
 声が震えて涙声になる。朗は黙って腕に力をこめた。
「……でも……」
 涙で烟る瞳で朗を見上げる。
「……朗……愛してる……」
 朗の目が見開かれた。
「……愛してる……朗……」
 万感の思いを噛み締め、朗は一度伏せた目を開いて耳に唇を寄せる。
「……ぼくもだ…………翠(すい)……愛してる……」
 朗が髪の毛から顔を離し、頬に触れながら親指で美鳥の涙を拭った。
「……愛してる……美鳥……」
 胸に凭れかかる美鳥の肩が、堪えた嗚咽に上下する。
「……もっと普通に出逢いたかった……」
 洩れた言葉に、朗は心臓を掴まれた。
『過去形になんかしないでくれ』
 どう言おうと、それが気休めにしかならない事は互いにわかっていた。残された時間が少ない事は変えようのない事実で、何か言えば空々しくなってしまう事も。その気休めさえ言えない自分にもどかしさを感じながら、それでも朗は美鳥に伝えたいと思った。
「……それでも……きみに出逢えた人生と、例え平穏でもきみに出逢えない人生と、どちらかを選べと言われたら……ぼくはきみと出逢う方を選ぶ。……きみには大変な思いをさせてしまうとわかっていて、それでも……」
 額に口づける。
「……ぼくを選んで欲しい……」
 朗の腕を掴む美鳥の指に、弱いながらも力がこもった。
「……ぼくは全てを手に入れたから……きみからの愛の言葉も、きみの心も身体も全部独占して、今、この手の中にある。……きみはぼくだけのものだ……。ぼくはきみと言う永遠を手に入れた……だから……」
 今度は唇に。そして、問う。
「……きみは……?」
 涙目で見上げる美鳥に返事を促すと、微かに頷く。
「……ちゃんと言って……きみの声で聞かせて……」
 朗の催促に、肩を震わせながら縋りついた。
「……私も……」
 答えながら。
 
 ひとつに溶け合うように、朗が小さな身体を抱きしめる。離れる事が出来ないかのように。そのまま時が止まればいいと願いながら。
 
 ふと、美鳥が小さな笑いを洩らした。
「何だい?」
「……だって……」
 朗の胸に耳を当てる。
「……昇吾が夏休みに朗を誘ったの、半分は私に逢わせるためだったでしょ?」
 可笑しそうに訊ねる美鳥に、朗は一瞬息を飲んだ。
「……何の事だい?」
「……うそ……わかってたくせに……」
 クスクス笑う美鳥に朗は降参した。
「……知ってたのか……」
「……薄々ね……」
「……いや、本当に、ぼくもずいぶん後になってから知ったんだ……」
 本当の事なのではあるが、言い訳がましい、と朗は自分でも思った。何故なら、『昇吾自慢の可愛い従妹に逢う事』を、ほんの少しも期待していなかった、と本当に本心から言えるだろうか、とも思うからだ。
 ただし、そう思っていたとしても、実際に逢った時には期待を想定外に飛び越してしまい、『密かな期待』などと言う陳腐な言葉は、遥か彼方に吹っ飛んでしまっていたが。
「……何だか悔しいな」
 朗が意外な言葉を口にした。
「……どうして?……何が?」
 不思議そうに見上げる美鳥の頬を、両手で挟み込む。
「……昇吾にすっかり好みを読まれていた、ってことが……」
 朗は真面目な顔で答えた。一瞬、瞬きを止めた美鳥が吹き出す。
「……それって、私も、って事じゃん」
 笑いに肩を震わせる美鳥に、朗は表情を変えずに続けた。
「……それに……」
「……それに……?」
 笑いを止めようとしながら美鳥が訊ねる。
「……昇吾がぼくたちのキューピッド、ってとこが……!」
 どうやら本気で言っているらしい朗に、美鳥の顔がほころんだ。
 二度と見れないと思っていた、昇吾の命と共に永遠に失ってしまったと思っていた笑顔。『魂を持って行かれそう』な程に美しい笑顔だった。
 いや、違う、と朗は思い直す。
(もう、とっくに持って行かれていたんだ……初めて逢った時に……)
 美しい鳥か、森の精か──極上の翠玉をじっと見つめる。
 今、確かに腕の中にある存在が、自分を見つめる翠玉が、そう遠くない未来にはいなくなってしまうなどと信じられず、考えたくもなかった。
 それでも──。
 
「……愛してる…………美鳥…………愛してる……」
 何度も口づけ、抱きしめ、ひとつに溶け合う。
 
 『その時』まで。
 
 
 
 数日後、美鳥は眠った。
 何よりも、どこよりも大切な場所──小松崎朗の腕の中で静かに。
 二十三歳十一ヶ月。二十四歳まで数日と言うその日は、産まれた時と同じく新緑の美しい季節だった。
 
 出逢ってから約十一年。
 ふたりで過ごした年月は半分にも満たず、昇吾を含めて三人で過ごした日々は更にその半分。『小松崎美鳥』としては、ほぼ八ヶ月。
 
 短く、それでも一生分に能う日々を駆け抜けて。
 

 
 並んで眠る美鳥と昇吾の周りは、いつも手入れされて花が飾られている。
 美鳥の墓石の裏側には、朗の希望で自身の名も赤く刻まれていた。美鳥の名と並んで。
 
 その墓の前に、見慣れない男が佇む姿を、スタッフが目撃するようになったのはしばらく後。
 はじめは迷い込みでもしたと思われていた男は、その後もたびたび子ども連れで見かけられるようになった。
 
 男が連れているその子どもは男の子らしく、さらさらの髪の毛が風になびいている。色素の薄い髪の毛より、もっと不思議なのは瞳の色だった。
 濃く澄んだ森の色を、その瞳の中に湛えた子ども。そして、その子が安心し切った目で見上げる男──。
 素性を隠すため、赤ん坊の頃に副島によって入れ替えられた男は、元々の名を倉田優一。
 
 後に日本を変えて行く事となるその男は、戸籍上の名を小半優一、と言った。
 
 
 

 
 
 
現身や     うつしみや
真魂留むる   またま とどむる
仮の宿     かりのやど
葉舟流るは   はぶねながるは
儚き現世    はかなきうつしよ
 
 
 
 
 
 
 
~完~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?