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かりやど〔四拾参〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
いつまでもこのままでいられたなら
 
叶わぬ夢とわかっていても
願わずにはいられない
 
 

 
 

「伊丹……黒沼の別荘?別邸?……いくつかあったよね?」
 黒沼邸の見取り図を見ながら美鳥が訊ねた。
「はい。近いところですと、千葉、神奈川は葉山と逗子……後は静岡……海沿い以外なら長野、辺りですね」
「……葉山……長野……」
 呟いた美鳥が見取り図を置いた。じっと考え込む。
「伊丹。黒沼が滞在していなくても人の出入りがあったり、稼働している気配が多いのはどこ?」
「今、美鳥さまが言われた葉山と長野……鬼無里(きなさ)ですね」
「……そう……」
「そのどちからに“黒幕”がいると?」
 一緒に見取り図を覗き込んでいた朗が訊ねた。美鳥が首を傾げる。
「……ちょっと、まだハッキリしない……移動してる可能性もあるし……でも、たぶんそのどちらか、だとは思うんだけど……」
「一発で当てないと、確かに警戒されたら困るし……って言うか面倒だね」
 美鳥が頷いた。
「……それと、強いて言うなら鬼無里の方がありがたい」
「何故だい?」
「人目が少ないから」
 確かに葉山の方が人目につきそうだ、と納得する。で、あるならば、そちらの方が身を隠すには適してもいる、と言うことだ。
「でも、たぶん……」
 美鳥が言葉を濁した。
「葉山の可能性が優勢?」
「……うん、たぶん……ね……」
 考え込む様子に、朗は『黒幕を知っている』美鳥の心中を測った。
「……でも、どちらでも実行に変更はない。日にちと、やり方を少し変えるだけ……伊丹……」
「はい」
「引き続き、全箇所見張らせて。何か動きがあったら逐一報告してって」
「承知しました」
 ふたりのやり取りを聞き、朗は理解した。
(……言っていたように……美鳥は昇吾が戻る前に、全て終わらせるつもりなんだ……)
 焦り、とまでは行かないが、急いで事を片づけようとする様子に、一抹の不安が過る。
 それでも、飛び始めた鳥を、止める術は持ち合わせていなかった。
 
 伊丹が引き上げた後も、美鳥は地図と報告書の双方とにらめっこをしていた。声をかける事を躊躇う程に。
「……翠……」
 それでも敢えて割り込んだのは、夏川から美鳥の健康管理の補助をくれぐれも、と言われていたからである。ただでさえ体力がない上に、免疫力自体が低い。せめて、食事と睡眠だけはしっかりと摂らせるようにして欲しい、と。
「……ん?」
 顔を上げずに返事をする。
「……何か買って来るよ。買い出しに行けなかったから、これからだと遅くなってしまうし……今日は買って来て、家でさっさと食べよう。何か食べたいものは?」
 ふとしたように手を止め、美鳥が朗に顔を向けた。
「……食べに行こ……」
 持っていた書類をテーブルに置く。
「その方が早いでしょ」
「確かに」
 微かに微笑んだ朗が頷いた。
 
 ふたりは近所の洋食屋へと足を運んだ。
 席に案内されると、美鳥がゆっくりと店内を見回す。その視線があるテーブル席に留まり、しばらく見つめてからふたりが座るテーブルに戻った。どことなくやわらかい色が漂う瞳。
 それを見た朗は、何となく思い当った。
(……前に来たのか……昇吾と……)
 朗は、ふたりが不憫でならなかった。相手が昇吾でなければ、また話は別であろうが……ともすれば嫉妬しそうなふたりの繋がり━━それすらも打ち消す程に。
「翠、何にする?」
 気づかないフリをして訊ねると、美鳥はメニューを眺め、「朗は?」と聞き返して来た。
(昇吾なら?)
 朗は考える。
「違うものを頼んで……半分ずつにする?」
 少し驚いた顔で朗を見、
「……うん。じゃあ、グラタンとハンバーグ」
 答える顔は嬉しそうに小さく笑っていた。
(……三品、頼むって事なのか……)
 そこは口に出さずに店員を呼ぶ。
「……グラタンとハンバーグと……オムライスを」
 一瞬、美鳥が動きを止めた。
「……他に何か頼む?」
 訊ねる朗の顔を、再びじっと見つめて小さく首を振る。
 運ばれて来た料理を嬉しそうに食べる顔。朗の顔も綻ぶ。春さんの料理の食べっぷりで知ってはいたが、美鳥は身体のわりに食べる量は多い方であろう。
 この日も目一杯食べたようで、満足気にマンションに戻った。
「……あ……っと……」
 玄関に入ったところで朗が小さく洩らす。
「どうしたの?」
「明日のパンを買って来るの忘れた。ちょっと買って来るよ」
「ゴハン炊いてもいいよ?」
 美鳥の言葉に、
「御飯に合わせるおかずがないよ」
 そう返して笑った朗が、扉の取っ手を掴みながら付け加える。
「先にお風呂に入って、寝る態勢を整えておくこと……いいね?」
 少しふくれた美鳥が、面白くなさそうな顔で頷くのを確認し、朗も頷いて扉を閉めた。美鳥のふくれた顔に口元を緩めながら。
 
 急ぎ足で歩きながら、朗はひとりになった美鳥の行動を予想していた。
(……早く戻らないと……美鳥は目が離せないところがある……たまに言う事を聞いてないし……)
 そんな風に考えている自分が可笑しくなる。保護者のような意識付けに、まるで昇吾になった気分だった。
 遅い時間でも営業している、近所のパン屋で買い物を済ませ、朗が急いでマンションまで戻った時である。
「………………?」
 マンション前に佇む人影に意識を持って行かれた。その後ろ姿のシルエットに━━。
「…………!……………昇吾!!」
 朗は大声で呼びかけた。
 ビクッと反応した影が、ゆっくりと、そして恐る恐る振り返る。
「…………朗…………!」
 互いに身動き出来なかった。驚きのあまり硬直したふたりは、まるで鏡に映った自分と向き合っているかのように錯覚する。
「……無事だったか……」
 先に声を発したのは朗の方であった。
「……朗こそ……」
 四年半ぶりに見た互いの姿。だが、朗が一歩踏み出した時、昇吾は一歩後ずさった。
「……昇吾?」
 訝しむ朗に背を向け、昇吾が離れて行こうとする。
「……昇吾……!」
 朗は咄嗟に昇吾の腕を掴まえた。
「……昇吾……!何で逃げようとするんだ……!」
 目を合わせようとしない昇吾の顔を覗き込む。通行人が不審なものを見るように通り過ぎて行くのを感じ、朗は昇吾をマンションの敷地内にある広場まで引っ張って行った。
「……昇吾!」
「……ぼくは……お前との約束を守らなかった……自分から破ったんだ……!」
 顔を逸らし、俯いたその言葉に、朗はわかれた時の言葉を反芻した。
『美鳥を頼む』
 確かに朗はそう言った。そうして、自らが囮となって姿を消したのだ。
「……お前が戻るまで……必ず美鳥を守ると……誓ったのに……!」
「昇吾!お前はぼくとの約束を破ったりしていない!その証拠に四年も……美鳥を守り続けたじゃないか……!」
 昇吾が俯いたまま首を振る。
「……途中で……そして約束の期限までに戻らなかった……」
「昇吾!お前が誰よりも美鳥の事を考えているのは、皆が知っている事だ!お前がやる事は全て美鳥のためで……必ず理由がある……!」
「……だが……!」
 初めて昇吾が顔を上げ、まともに朗の顔を見た。しかし、すぐにその目を辛そうにしかめる。
「……ぼくが約束までに戻らなかったと言う事は……美鳥は副島の元に行ったんだろう……?……あいつは一度言い出したら、その行為に意味がないと納得しない限り、絶対に止めるようなやつじゃない……!」
 朗の服を握りしめ、昇吾は崩れそうな程に俯いた。朗はそこで初めて、昇吾が何を不安に思っていたのか理解した。自分が抱いたのと同じ気持ちなのだ、と。
「……昇吾……美鳥は確かに副島に会いに行った……だけど、副島のものになったりはしていない。目的のために、副島に身を任せたりはしていないんだ……」
 昇吾が顔を上げた。縋るような目。
「……大丈夫だ。美鳥は副島に確かめたい事があっただけなんだ……それに……」
 朗は少し言い淀んだ。
「……約束を守らなかった、と言うなら、それはぼくも同じだ。……お前たちの元に戻らなかった……」
 互いに黙って見つめ合う。
「……だが……」
 躊躇う昇吾に、言葉を選んで語りかけた。
「昇吾……何と言おうと、美鳥はお前を本心から大切に思っている。だからこそ、突き放した言い方をする事もあるだろう……でも、お前がいるからこそ、美鳥は……」
 美鳥が凶行に及んだ訳までは言わなかった。言えなかった。
『昇吾に人を殺す決意をさせた人間を赦さない。ひとり残らず殺してやる』
 そう公言した事など。
 この事を話せば、昇吾を止める事は容易い。しかし、昇吾の心は壊れてしまうだろう。まして、それを昇吾が知ったからと言って、昇吾がどんなに懇願したからと言って、今さら美鳥が止める事はないと、朗には十二分にわかっていた。
 朗は、美鳥と共に行けるところまで行く、と既に覚悟を決めていた。どんな禁忌を犯しても、墓場まで背負って行く、と。だが、昇吾にはそれは耐えられない事かも知れない、とも思うのだ。昇吾と自分では、性格以前に、美鳥に対する立場が違い過ぎる。
 その時、朗は自分の携帯電話が、ポケットの中で振動している事に気づいた。直感的に美鳥だと判断する。パンを買いに行くだけにしては、帰りが遅いのを心配しているに違いなかった。
「昇吾……!とにかくマンションに戻ろう。ちゃんと美鳥とも話すんだ。お前だって本当は美鳥の事が心配だろう……!?」
 やはり美鳥の事を言うと微妙に反応する。腕の筋肉が強張るのだ。
 美鳥に会いたい、だけど、会いたくない。
 相反する感情の狭間で葛藤している昇吾を、朗は半ば無理やり引っ張って部屋に戻った。扉を開ける音に反応し、奥から足音。そして、声。
「…………朗!?パンを買いに行くだけって言ったのに遅いから心配…………」
 リビングの扉を開けた朗が、自分の前に昇吾を押し出す。
「……し……た……」
 俯く昇吾を見つめ、美鳥の動きが止まった。言葉が空に消えて行く。
「……しょう……ご……」
 美鳥の脚が、昇吾に駆け寄ろうとした一瞬を、朗の目は見て取った。堪えるように留まる様を。朗は美鳥の背後に回ると、そっとその背を昇吾に向かって押した。子犬のようにトトトと前に踏み出した美鳥も、同じように下を向く。
「……おかえり……無事で良かった……」
 目の前まで押し出された美鳥の声は消え入りそうに小さく、だがその言葉に、握りしめた昇吾の拳が震えている。
「………………!」
 耐え切れない、と言うように、昇吾が踵を返した。朗の身体が反応する前に、美鳥の小さな手が昇吾の服の背を掴む。
「…………み…………!」
 自分でも信じられないと言う表情の美鳥が、振り返った昇吾の顔を見上げた。掴んだ手は強く握られ、震えている。
「……ふたりとも、とにかく座って……今、お茶を淹れるから」
 朗が促すと、ふたりとも操り人形のようにソファに沈んだ。互いに目を合わせず、言葉も発さずに。
 
「……今まで、どこでどうしていたんだ、昇吾……?」
 埒の開かないふたりに堪りかね、朗が助け舟を出した。
「……探っていた……副島の周りを……けど、なかなか近づけなくて……素性を隠しながらだと上手く動けない事も多かった……」
 ポツリと言い、しかし顔を上げようとはしない。頑ななくらいに。
「……それで……何かわかったのか……?」
 美鳥が微妙に反応を示した。昇吾に知られたくない『何か』を知られたのではないか……その懸念故である事が朗にはわかる。
「……いや……」
 本来なら残念なはずの昇吾の返事に、美鳥がわからない程度に安堵の息を洩らした。
「……じゃあ、それならそれで、何故、戻らなかったんだ……?……わかっていて……」
 朗の言う『わかっていて』は、さっき昇吾が放った事に対して、であった。『美鳥は一度言い出した事を止めたりしない』と。もちろん、昇吾はすぐに何の事か理解した。だが、答えられず、言葉に詰まる。
「……何をわかっていたの?」
 初めて美鳥が言葉を挟んだ。
「……何も掴めなかったからと言って、戻れない、などと考えても事態は変わらない事を、だ」
 再び朗が助け舟を出した。昇吾には、答えられないであろう事はわかっていた。
「……戻れなくて……でも心配で……約束の三ヶ月を過ぎる頃から、ずっと副島を……いや、小半を張っていた……美鳥に会いに行こうとしたら、もしくは美鳥が訪ねて来たらわかるように……あのふたりは、常に行動を共にするだろう事はわかっていたから……だけど……」
「……だけど?」
 昇吾は言い淀んだ。
「……昇吾?」
 朗が促す。
「……あの日……外出しない小半を張っていて……その日も無事に終わると思った時に、一緒にいると思っていた副島が、いつの間にかひとりで外出していて……夜、帰宅したのを見て……」
「……美鳥と会っていたと思ったのか……?」
 膝に乗せた拳を震わせ、昇吾は頷くように俯いた。
「……手遅れだったと思って……その直後の事は良く覚えていない……」
 美鳥は自分の手元を見たまま微動だにせず、声も発さなかった。朗は朗で、あまりに昇吾が痛々しくて眉根を寄せる。
「……それで……その時から今まではどうしていたんだ?……そんな状態で……」
「……フラフラ歩き回って……ぼんやりしていたぼくを……保護してくれた人がいて……」
「……保護……?……一体、誰が……?」
 昇吾は首を振った。
「……詳しい事はわからない。でも、何故か、信用出来る人だと思った」
 美鳥と朗は顔を見合わせ、再び昇吾の顔を見遣る。
「……どんな人だったんだ……?……その人の名前は……?」
「……本名なのかはわからないけど……倉田と呼んでくれ、と言われた……」
「……倉田さん……!?」
 朗の驚きように、むしろ昇吾の驚きの方が大きいようであった。
「……朗……倉田さんを知っているのか……?」
「……ああ……ぼくの考えている倉田さんと同一人物であるならだが……ぼくは四年間、その倉田さんに世話になっていたんだ……」
 昇吾の目が見開かれる。
「……そうか……だからか……」
 急に思い立ったように、昇吾が声を上げた。
「……初めて会った時、倉田さんはぼくに『緒方くん?』って呼びかけて来たんだ。過去、会った記憶はなかったから……でも緒方グループの事を知ってる人間ならあり得るかも、と……一瞬、警戒したけど、呼び方が『くん』付だったし……向こうも不思議そうな顔のぼくを見て、何だか納得したように頷いたんだ。……今にして思えば、朗と間違ったんだな……」
「……そうだったのか……確かにぼくは『緒方昇吾』と……昇吾の名を名乗っていたから……」
 昇吾の言葉に、朗も納得した様子を見せる。
 ふたりの話を聞きながら、美鳥は黙ったまま顎に指を当て、考え込んでいた。
(……倉田……)
 やはり、どこかで聞いた覚えのある名前だ、と美鳥は記憶を手繰る。微かな記憶は、それほどの関わりがあったとは思えないまでも残っていた。
「美鳥?」
 じっと考え込む美鳥の様子に、朗が心配そうに呼びかける。
「……ううん……何でもない……」
 他の介入を遮断するかのように、美鳥は話自体をぼかした。
(昇吾に真相を話す気がない、と言う事は……美鳥はこの先どうするつもりなんだ……?昇吾が戻る前に解決しない事も想定出来たはずだが……)
 美鳥が何を言い出すか、朗にはそれが気になる。
「……これからどうする?」
 様子を窺いつつ訊ねると、放たれた言葉は、これも予想外の事だった。
「……昇吾には……とりあえず真っ先にやらなくちゃならない事があるでしょ」
「……え……?」
 朗と昇吾が声を揃えて訊き返すと、美鳥は初めてまともに昇吾と目を合わせた。真っ直ぐに。
「……朗のお母さんに報告に行く」
「………………!」
 ふたりは、また揃って息を飲んだ。実のところ、朗も美鳥の元に戻ってから、まだ家族に会っていなかった。もちろん連絡は取ったものの、実際に顔を合わせてはいない。
「……違う?」
 手痛い指摘に顔を見合わせる。
「……美鳥の言う通りだ……斗希子伯母さんには報告しなくちゃ……」
「……昇吾……」
「……明日にでも行って来る……」
 その言葉に、朗が何かを思い出したような素振りをした。
「昇吾。出来れば明後日にしてくれないか?」
「……どうしてだ?」
「明日は、ぼくは本多さんに会いに行く事になっているから」
 昇吾が首を傾げる。
「美鳥がひとりになる。もし、昇吾が明日いないなら、美鳥には伊丹さんに付いてもらう事になる」
 伊丹の名に、昇吾が微妙に反応した。
 朗は美鳥から、昇吾は何となく伊丹と合わないらしい、と言う話を聞いている。どこがどう、と言う明確なものではなく、本当に何となく、であるらしいが、それを逆手に取ってみたのだ。
「……わかった……明日はここにいる……」
 渋々、と言った体で昇吾が承諾した。
「美鳥もいいね?」
 美鳥は朗の顔を見たまま返事をしない。
「美鳥?」
 優しいながら、強制力を含んだ朗の声。美鳥も渋々頷く。
 朗は、美鳥からは最低でも言質を取らなければダメな事を、この数ヶ月で熟知していた。そう言う意味では、昇吾に比べて格段に美鳥の扱いはうまいと言える。と言うか、昇吾は美鳥に甘い、それ以上に弱かった。
 別の事では朗も十二分に弱い。だが、弟がいる事で、年少者に言う事を利かせる術を身につけている点は大きかった。
「……じゃあ、美鳥はもう寝る事。昇吾は先にバスルーム使っていいよ。部屋は元のままにしてあるから」
 さっさと仕切った朗の言葉に、また美鳥がつまらなそうな顔で、だが、ちゃんと言う事を聞いて部屋に引き上げる。それは、昇吾にとっては少し驚きであった。
 
 三人が四年ぶりに揃った夜。
 その夜も、見事な月夜であった事を、部屋に引き上げた美鳥は窓から見て知った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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