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かりやど〔参拾九〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
もとめていたのは
 
このぬくもり
 
 

 
 

 確かに目に映る七年ぶりの姿。記憶の中の姿は高校生のままの朗。だが、やはり昇吾に良く似た面差し、そして声。
 
 朗でさえ、最後に美鳥の姿を見てから四年。
 
 四年ぶりの声。
 四年ぶりの肌。
 
 四年の時を埋めるように解き放たれた狂おしい想い。
 それでも埋まらないほどの空白と愛おしさ。
 

 
 枕に身を預けた朗が、自分の身体に折り重なっている美鳥の背を撫でた。滲んだ汗で、なめらかな肌が湿度を帯びている。
「…………と…………の………?」
 何かを言っていることに気づいた朗が、美鳥の顔を見下ろした。
「……何だい?」
 躊躇う気配の後──。
「……今まで……誰と一緒にいたの?」
 一瞬、考える間。
 美鳥の躊躇いがちな訊き方と、胸に当てがわれた震える指。朗は、すぐに美鳥の言っていること、彼女が本当に訊きたいことの真意を理解した。
「……協力してくれた人とは……いつも一緒にいた訳ではないけれど……」
「……協力してくれた人……?」
 訊き返す声までもが震えている。
「……助けてくれた人でもあるね……まあ、ぼくより少し歳上かな……彼は……」
「………………」
 美鳥が手を握りしめ、顔を伏せた。
「……だから、ぼくはこの数年、ずっと仙人みたいな禁欲生活だ」
 胸に触れる美鳥の唇がわななくのを感じ、髪に触れ、身体を引き上げた。
「……いつも想っていた……いつも抱いていた……夢の中でしか抱けないこの鳥を……いつでも……」
 顔を上げようとした美鳥の身体を返し、そのまま覆い被さる。
「……こうやって……」
 朗の身体の下で、重みを受け止めている細く小さな身体。確かなその存在を抱きしめ、そのぬくもりを感じながら見つめる。すると、翠玉の際が見る見る潤いを帯びて行く。
「……足りない……」
 朗の言葉に、不思議そうな目をする。
「……まだ足りない……」
「…………朗…………?」
 親指でゆっくりと目尻をなで、顔を近づける。
「……まだ全然足りてない……きみが……ぼくには……」
 深く口づけ、再び、溶け合う。
 
 朗が行方不明になってから今までの経緯、それを美鳥が訊くのを躊躇う理由──それを朗はわかっていた。
『自分は昇吾といたのに』
 そう思っているからこそ、訊くことが出来ない……朗が今まで他の女性と一緒だったのではないか、と言う事を。
 
 そして、それ以上に、わかってしまったことは、美鳥と昇吾━━朗として生きていた━━の関係が、別れる前と違うこと。
 それは、ふたりの気持ちが『男と女』のそれに変わった訳ではなく、そうせざるを得なかったのであろうことも。
 
 ほぼ四年ぶりに美鳥を見た朗は、思わず目を見張った。七年前のあの事件の後、二年ぶりに再会した時の驚きなど比ではないほどに。
 可愛らしい小鳥のように快活な女の子が、あまりにも弱々しく、それでいて女に近づきつつある過程に衝撃を受けたあの時とは明らかに違う。
 それは、当時、既に完成されたと思っていた美しさは、まだ変化の途中だったのだと、はっきりと気づかされた瞬間でもあった。
 
 完全なるおとなの女。
 美しい鳥へと成長を遂げた小鳥。
 自分の腕の中で、花よりも美しく狂おしいほどに咲き誇る。
 
 それは、まるで掌中の珠のように、昇吾が美鳥を大切に慈しんでいたからこそなのだ、と。
 
 自分なら?と自問する。
 美鳥に触れる事はおろか、姿を見る事さえ叶わない日々の中。
 
 だが、きっと。
 傍にいたなら、姿を見ていたなら、触れないでいる事など到底出来なかった、とも思うのだ。
 
 昇吾のようには出来なかった、と。
 あの時の美鳥を、こうも美しく咲かせることは、自分では決して出来なかった。間違いなく。
 昇吾だからこそ、朗との約束を守るためだけに、恐らくは朗に成り切って。
 あの時、自分の選択は間違っていなかった。あの時の美鳥に必要だったのは、間違いなく昇吾だったのだ、と。
 
 離れていたこの四年で、美鳥の身体がどれくらい回復したのか朗には知る由もなかった。だが、かつて昇吾から聞いた話を考えれば、完治しているはずもない。昔のような日常生活を送るのは、今でも困難であろう事をわかっていて尚、抑えるのが困難な想い。
 耳元で自分の名を呼ぶ声を聞いて、しなやかな指が行き場を求めるように背中を、腰をなぞるのを感じて、何故、抑えられるだろう、と思う。
 まして傍にいたなら尚更、抑えていられた自信はない。
 それは、昇吾だからこそ成し得た事なのだと──。
 
 朗には、はっきりとわかっていた。
 

 
 自分を見上げ、息を乱している美鳥の頬に触れる。
「……大丈夫かい?……ごめん……抑えたつもりだったけど……全然、抑えられてなかったね」
 朗の手に、美鳥は自分の手を重ねて首を振った。
「……私の方が……ホントなら……ごめんなさい……」
 伏せようとした顔を自分の方に向かせ、眩しそうに朗が見つめる。
「……他の言葉が出て来ない……また綺麗になったね」
 何も言えずに見つめ返す翡翠色の瞳。
 
 何度触れても、一夜で埋められるはずもないと、わかってはいても触れずにはいられない。
 
 ベッドに沈み込んだふたりは、それでも眠ってしまうのが惜しい、とでも言うように互いの目を覗き込んだ。
 
「……翠(すい)……」
 漸く息が整った頃、朗が躊躇いがちに切り出した。
「……ん……?」
 朗の目の中に何かを感じたのか、美鳥が窺うように返す。
「……ひとつだけ……訊いておきたい事がある……」
「……何……?」
「……この数年の間に起きた一連の……副島の取り巻きの事件は……きみだね?」
 朗の目を見つめたまま、美鳥は何も答えない。
「……何故だい……?」
 朗の問いかけに、ゆっくりと起き上がり背を向けた。半身を起こした朗も、その小さな背中を見つめる。
「ずっと不思議だった……」
 押し黙っていた美鳥が、顔をやや上向けた。
「……そうだよ……全部、私。でも、私がされた事を考えたら不思議じゃないでしょ?」
 やや投げ遣りな言い方に、朗が眉根を寄せる。
「……それだけじゃない……だろう?」
「……どうして……?」
「変な言い方かも知れないけれど、あのまま、あれ以上何もなければ、きみは復讐に手を染めようなんて考えなかっただろう?」
 昇吾にさえ気づかせなかった核心を突かれ、美鳥は再び押し黙るしかなかった。
「……何があった?」
 一拍置いて、美鳥の背筋が伸びる。
「……色々あったよ。だけど、それがなくても、私は初めからこう言う人間だよ。朗が考えているようなお気楽な性格なんかじゃない。……本性を知って怖くなった?それならそれで別に……」
「……翠……!」
 調子は強くないものの、朗の声には一気に投げ捨てるように言い放つ美鳥を戒める威力があった。
「……色々な事、ではきみの心は動かない。……何かひとつ、きみを動かすきっかけが……何かがあった、だろう?ぼくはそれを訊いてるんだ」
 背を向けたまま美鳥は微動だにせず、朗が見つめる黙り込む後ろ姿からは、痛々しいほどの葛藤と苦しさが漂って来る。やがて、細い肩が微かに震え━━。
「…………だって…………」
 朗は黙って美鳥から話すのを待った。逡巡しているのであろう、長い長い沈黙。
「…………だって昇吾が…………」
 漸く洩れた、小さな小さな震える声。
「………………!?」
 思いもかけない返事に、朗の身体が強張る。
「……昇吾に人を殺させてしまった……!」
 涙に烟った翡翠の瞳が、振り向きざまに叫んだ。
「……昇吾……が……!?」
 瞬きが止まる。さすがの朗も、驚きを隠す事は出来なかった。
「……一体……」
「……私が思い出すのを怖がっている間に……昇吾に守られて、昇吾に全部押しつけて、ひとり逃げている間に……」
 再び顔を背け、俯いた背中。
「……昇吾に……人を殺す決断をさせてしまった……だから……」
「…………翠…………」
 言葉が見つからず、ただ黙って後ろから小さな身体を抱えた。
「……赦さない……赦さない……!絶対、赦さない……!……あいつら全員、必ず殺してやる……!!」
「翠!」
 力づくで向きを変えさせ、泣き叫ぶ身体を抱きしめる。
「……もう、それ以上、言わなくていい……すまなかった……」
 しがみ付いて息を押し殺し、その合間に微かに聞こえる声。
「……私は最後までやめるつもりはないよ……だから朗も……」
 言わせてしまった事を後悔しながら、それでも朗の心は変わらなかった。
「……ぼくはもう二度と手離したりしない。諦めるのは四年前が最後だ」
 流れる涙はそのままに、朗に目を向けた美鳥にそっと口づける。
「……正直、また逢えるとは思っていなかった。……その声で名前を呼んでもらえるなんて。……姿を見る事も……まして触れる事など到底出来ないと諦めていた……」
 苦しげに洩らすと、親指で目元をなでた。極上の翠玉を見つめる。
「……美しい鳥……ぼくの翡翠……生きて再び、この瞳で見つめてもらえるなんて……」
 美鳥の手が重なる。
「……わからないけど、きっとこの気持ちがそうだと思う」
「………………?」
 不思議そうな顔をする額に口づけ、引き寄せた。
「……翠…………美鳥……」
 もう一度、真っ直ぐに目を見つめる。
「……愛してる……」
 

 
 美鳥と朗は、互いに離れていた間の経緯を報告し合う事から始めた。
 
 昇吾が朗として生きていた事、実は美鳥はその事に気づいていた事実、そして、朗と離れた後に起きた事件の事──美鳥は全てを打ち明けた。もちろん、連れ去られた時の事も、それが引き金となって昇吾に罪を背負わせた事も、である。
 それを聞いた朗は、ただひと言『生きていてくれて良かった』と呟き、美鳥を抱きしめた。
 朗は朗で、昇吾と別れた後、逃げているところをある男に助けられた事、その人物が保護し、協力してくれていた事、などを伝えた。その人物の詳細はわからないものの、かなりのバックヤードがあるらしく、密かに美鳥たちの様子を教えてくれていた、とも。
 つまり、先日まで美鳥を見張っていたのは、その人物が差し向けた者である、と言うことだ。
 
「朗は『緒方昇吾』って名乗ってたの?その人に?」
「もちろん。きみと一緒にいるのが『緒方昇吾』では、ぼくが逃げた意味がなくなってしまうからね」
 ある程度の人間であれば、緒方グループの御曹司である『緒方昇吾』を知らないはずはない。であれば、かなりの力を持ったその人物は、自分たちにとって敵ではないのだろうか、と美鳥は考える。
「……朗……その人、何て名乗っていたの?」
「本名かどうかはわからないけど、倉田、って呼んでいたよ」
「……倉田……?」
「覚えがあるかい?」
 さして珍しい苗字ではないものの、美鳥の脳裏にはその名前が微かな記憶としてあった。
「……誰だっけ……?」
 思い出そうとするも、そもそも本名とは限らない。
「それより、翠。連日、一緒にいたと言う男は誰なんだい?」
 伊丹の事である。伊丹が美鳥の傍近くに付いたのは、朗がいなくなってからであった。
「ああ、あれは親衛隊のひとりで伊丹って言って……本多さんの後任、ってとこかな」
「……本多さんが引退したのかい?」
 朗が驚く。
「ううん。今は佐久田さんの護衛を専任で……代わりに伊丹が配置された感じ」
「……なるほど、ね……」
 納得したように頷いた。
「ぼくを誘き出すために彼を使ったのか……」
 感心、と同時に浮かぶ苦笑い。
「まんまとハマった訳だ、ぼくは……」
 そう言いながら、ほんのり笑った美鳥の頬に触れて自身も笑う。
「『連日、出歩いていた男とキスしてました』なんて言われたからな……昇吾じゃない男だって聞いたから、理性が砕けるかと思ったよ」
「……だって、誰が私のコト見張ってるのか気になったから……」
 ソファに沈んだ朗の胸に額を押しつけた。すると朗が膝の上に美鳥を引き寄せる。
「……ところで最重要事項だ。……昇吾は何故、きみの傍からいなくなった?最後に何て言ってたんだい?」
「……自分が必ず最後の黒幕を引きずり出すから、って……」
「昇吾には何か策があるんだろうか……?」
 何も答えず一点を見据える美鳥に気づき、朗が顔を覗き込んだ。
「…………翠…………?」
 その時、ふいに、朗の脳裏をある憶測が過った。仮説、であるにしても、妙にリアルな確信めいた憶測。
「……翠……もしかして……」
 顔を上げた美鳥が朗の方を見た。その目を見た瞬間、憶測でしかなかったものが、朗の中で変化して行く。
「……きみ……犯人一味の本当の黒幕を知っているんじゃ……」
 顔を背ける様子に、断定的な確信へと変わった。
「……もし、そうなら……何故、昇吾を止めなかった?何故、自分が知っている、と言わなかったんだい?」
 肩を掴んで問い質す朗から目を逸らす。
「…………翠!」
 睫毛を伏せ、肩に置かれた朗の手を下ろすと立ち上がった。ゆっくりと窓の外を見遣る。
「…………知ってる…………」
「…………え…………?」
 聞き返す朗を振り返り、美鳥は言い放った。
「……全部、知ってる……最初から。……私が忘れていただけ……」
 朗が息を飲む。
「……忘れたくて、本当だと信じたくなくて、思い出したくなくて……何より……」
 朗はただ、美鳥の顔を見つめた。
「……昇吾に……言いたくなくて……」
 
 その場に崩れそうになった美鳥を、慌てて朗が受け止める。
 腕の中で震える小さな身体を包み、朗はそれでも美鳥が話そうとしない『真相』に無意識のうちに戦慄いた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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