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かりやど〔参拾七〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
呵責などあるはずもない
 
生まれて初めて感じた悪意に
 
 

 
 

 大手出版社社長の柳沢に近づくため、美鳥は昨今の出版業界を取材する、と言う名目で会食を申し込んだ。
 
 当日、新堂龍樹を名乗る朗━━昇吾と共に訪ね、取材の傍ら、巧みに北信ガスの情報を聞き出して行く。すると例に洩れず、柳沢の視線も美鳥に釘付けとなっていた。
 昇吾の事など目に入っておらず、美鳥の質問が本題からズレている事にもお構いなしに、舐めるように視線を送る。その様子を、相変わらず美鳥は気にも留めていなかったが、明らかに昇吾は嫌悪感を示していた。
 欲望丸出しの視線で美鳥を見られる事に、昇吾はどうしても慣れる事が出来ないのだ。『保護者目線』とでも言うのか、美人なのだから人目を集めても仕方ない、と頭ではわかっていても嫌で堪らない。ただ、見惚れられるのと違い、自分が美鳥を見る目と丸っきり正反対、と言って良い目で見られているから尚更であった。
 
 そんな昇吾の心情など緩衝にはならず、一頻りの情報を引き出し、用が済んだところで、美鳥は柳沢宛に匿名の手紙を送り始めた。
 その手紙が届き始めて程なく、柳沢の様子がおかしいと言う噂が社内で流れ出す。そしてある日、社内で倒れて救急搬送された。原因はノイローゼとも疲労とも言われているが、公にされる事はなかった。
 ただ、倒れた社長室には、開封した封筒が一枚。社員がいくら探しても、その封筒に入っていたと思われる中身は見つからなかったが。
 
 搬送されて一命を取り止めたのも束の間。数日後、柳沢は謎の死を遂げた。
 最後に『それはあの方が……!赦してくれ……!そんな風に笑わないで……!』と言う謎の言葉を残して。
 解剖の結果、死因は心臓麻痺と発表されたが、実際のところは闇に葬られるが如く、不審な点が数多く残された。
 ひとつ確かな事は、亡くなる数時間前に、何者かが部屋に侵入した形跡があった、と言う事だけである。ただし、死因に関わるような証拠は、何ひとつ発見される事はなかった。
 
 美鳥はこの後、昇吾と共に代議士・副島と懇意だと言う北信ガスの重役━━即ち、専務である坂口に接触した。
 坂口を足掛かりに副島にも近づき、用が済んだ後は、坂口をも口封じのために葬った。そこに躊躇う気配は微塵もなく──。
 いよいよ黒幕の喉元も視野に入って来たかに見えた時。
 
 まさか、副島にその身を望まれる程に気に入られるなどと思いもせずに。
 まさか、一生、秘するつもりであった事を知られていたなどと思いもせずに。
 
 ━━互いに。
 
 

***
 
 

 数年の時を経て、やっと『昇吾』と『美鳥』に戻れた夜━━。
 
 己の腕の中、くたりとした様子で眠る美鳥の髪に顔を埋め、昇吾はこの数年の出来事を反芻していた。
 
 こんな事になってしまった、そもそもの原因を。
 美鳥にこんな事をさせてしまっている自責の念を。
 これから己の取るべき道を。
 
 髪の毛から仄かに香る匂いを胸に吸い込むと、子どもの頃を思い出す。まだ何の疑問もなく、兄妹のように抱き合って眠っていた頃を。
 同じ匂いを感じながらも、今は何と変わってしまった事か。男として、女として、触れ合っていたこの数年。心の内は変わっていないのに。
 
 そっと美鳥の身体を抱え直す。━━と。
「……昇吾……?……眠れないの……?」
 眠っていると思った美鳥が、いつの間にか目を開けている。
「すまない……起こしたか?」
 美鳥が首を振った。
 昇吾の腕の力から、躊躇いながらも何かを伝えようとしている事を感じるのか、ただひたすら、じっと待っている。
「……美鳥……」
 確認するように昇吾が呼びかけた。頭を起こした美鳥がその顔を覗き込むと、昇吾も美鳥の頬に手を添えて見つめ返す。
「……頼みがあるんだ」
 返事はない。だが、昇吾はそのまま続けた。
「……ぼくが必ず、最後の黒幕を引きずり出す。……だから……」
 美鳥の腰を抱く腕に力が入る。
「……副島の元に行くのは待って欲しい……」
 言い切り、頬に触れていた手を背に回すと強く抱きしめた。
「……美鳥、お願いだ……」
 懇願する昇吾の胸に頬を埋める。
「……時間がない。長くは待てない」
 考え込んでいた美鳥は、やがてポツリと答えた。
「……三ヶ月……!三ヶ月でいい。それで必ず片をつける……!」
 そう言ってから、昇吾はふと気づいたように美鳥の顔を覗き込む。
「……美鳥?……時間がないって言うのはどう言う意味だ?」
「……別に?あんまり時間をかけていられない、って事だけど?」
 即答する美鳥に、昇吾は漠然とした不安を感じた。不安気に自分の顔を凝視する昇吾に、美鳥は悪戯っぽく笑いかけて口づける。
「……美鳥……!誤魔化さないでくれ……!」
「……引退する可能性がある」
 顔を引き離して訴える昇吾に、前置きなしの美鳥の言葉。
「……え……?」
「現役のうちに潰してやりたい。だから、昇吾がそこまで言うなら、三ヶ月だけ副島のとこに行かないで待つよ。でも、それ以上は待たない」
 真っ直ぐに昇吾の目を見つめ、美鳥は言い切った。
「……わかった……」
 思い詰めた眼差し、決意の口調。昇吾はもう一度、美鳥を強く抱きしめた。美鳥の腕も昇吾の背中を抱きしめ、その指が行き場を探すように少しずつ動く。
「……美鳥……」
「……ん……?」
 美鳥が次の言葉を待つも、昇吾からは躊躇いしか感じなかった。無言のまま、腕の力だけは緩まる事がなく━━。
「……いや……何でもない……」
 何か、を昇吾は引っ込めた。美鳥もそれ以上は問わなかった。
「……美鳥……」
 もう一度、名を呼び、覆い被さるように口づける。昇吾の唇と身体の重みを受けながら、美鳥は目を閉じた。
 昇吾の中に、何か決意、のようなものを感じながら、そして自分の中にも何かを抱えながら、その熱の中に溶け込んで行く。
「……美鳥……」
 朦朧として行く意識の中でも、しきりに自分の名前を呼ぶ声だけは聞こえ──。
「……美鳥…………と…………る…………」
 けれど、最後の言葉は意識の渦に飲み込まれ、記憶の中に留まる事はなく──。
 
 翌日、昇吾は美鳥の前から姿を消した。
 

 
 ひとりになった美鳥は、現在は佐久田の身辺警護に専念している本多から、夏川の元に戻る事を勧められるも承諾しなかった。
「……伊丹が傍にいるからいいよ」
 以前、本多が担っていた役割は、現在は主に伊丹が引き受けている。そして、人里離れた場所にいる夏川の身辺には、別の親衛隊が付いていた。
『しかし、昇吾さまが戻られないのに、朗さまが美鳥さまの傍から、今さら離れるなど考えられません。一体、何があったのですか?』
 本多からの鋭い探りに、美鳥の口角が持ち上がる。
「他に好きな女が出来たらしいよ」
『面白い冗談ですね』
 特に変化のない声で即答され、吹き出しそうになった。
「……まあ、ちょっと、ね……。朗の事はいいよ、とりあえず。また戻って来るから」
 その口調に、恐らくは何かを感じたであろうが、それ以上の事を突っ込んで来る様子はない。そう言う意味では、本多は徹底している。美鳥にしても、何も知らない本多に『実はあれは昇吾だったんだ』などと、今さら言う気はなかった。
(……とは言っても、本多の事だから薄々気づいてる可能性はあるかな)
 だが、例え気づかれていたとしても特に問題はない。伊丹はそこまでは気づいていないであろう、と言うのが美鳥の見立てであった。
 二年前、伊丹と初めて会った時に美鳥が受けた印象は概ね外れていない。頭は切れるし腕も立つ。多少、性格的なものはあるにしても、やはり経験値を積む事で、本多に引けを取らないまでになっていた。あれ以来、必要以上に出過ぎた干渉をして来る事もない。
 だが、昇吾は伊丹の事をあまり気に入らない様子が見て取れた。もちろん、表面上は普通に接しているが、本多との関わり方に比べると、どうもぎこちなさを感じる。
 これは、互いに若い男である事も関係あるかも知れない、と知りつつ、本多も敢えて配置変えをするまでには至らなかった。
「……ところで、ずいぶん前から頼んでいた調査……その後も進展はなし?」
 美鳥が話題を変える。
『実は、ひとつ気になる事がありました。ただ、まだ確証が掴めません。もう少し時間を戴きたいのですが』
「わかった。何かわかったら教えて」
『はい』
 あっさりとした美鳥の返事に、本多の返答も簡潔なものだった。
「何かついでみたいで悪いけど、佐久田さんは元気?」
『はい、お元気です。美鳥さまにお会いになりたいようで、たまに寂しげにしておられますよ』
 夏川もそうであったが、幼い頃の美鳥は佐久田にも可愛がられていた。松宮の家に来るたびに、美鳥が喜びそうな土産を持参し、仕事の話が終わると遊び相手になり、一緒にお茶を飲んだりしていたのだ。
「じゃあ、佐久田さんの方が遊びに来て、って言っといてよ」
 半笑いで言う美鳥に、本多が微かに笑った気配。
『すぐにでも伺う、と……今、隣で仰っておられますよ』
 美鳥との通話とあって、佐久田は本多の横で聞き耳を立てていた。もちろん、それを承知の上で、わざと提案したのだ。
「佐久田さんならいつでも歓迎だよ」
 隣で盛り上がっている佐久田の様子が伝わって来て、吹き出すのを必死で堪える。自分に対しては、こんなにわかりやすい反応をする佐久田が、業務上に於いてはシビアでクールに金を扱う男になるのだから不思議だ、とも思うのだ。
(……そう言ったら、私も同じか……)
 佐久田たちに対してはこんな気持ちになっても、他人の命は何の躊躇いもなく平気で奪えるのに、と。
(実際、私は何も感じていないのだろうか……?躊躇いはない。良心の呵責もない。だからと言って満足感は……?あるような、ないような……それは、何故……?)
 理由があるとすれば━━。
 視線が宙の一点に定まる。何も見ていないような、何か大切なひとつだけを見ているような、そんな目で。
「……あれは、いつのこと……?」
 口から洩れるひとり言。
「……初めて……人に“悪意”をぶつけられたのは……」
 遠くを見る目は、遠い何かを思い出そうとしているのか、見出だそうとしているのか。
「……生まれて……数ヶ月の……あの時……」
 乳児の頃の記憶を呼び起こそうとしているのか、美鳥は更に遠い目になる。
「……あれは……誰……?……あれは……」
 その時、美鳥の携帯電話が鳴った。『夏川美薗』名義の電話である。着信画面を見ると『小半』の名前。
「夏川です」
 すぐに脳内を切り替え、美鳥は『夏川美薗』になる。
『小半です。先程はご連絡を戴きましたのに、出先で申し訳ありませんでした。……何かありましたでしょうか?』
「お忙しいところ申し訳ありませんでした。実は、先日のお話のお返事を……」
 その言葉で、小半は何の件であるかすぐに悟った。
『……場所を変えます。そのまま少しお待ち戴いても宜しいですか?』
「はい」
 保留音が流れ出し、数秒経って途切れた。
『お待たせ致しました』
 聞かれてはまずい人間が傍にいたのであろう。
「いえ……」
『……それで?』
「……少し待って戴きたいのです」
 言葉の意味を反復するような少しの間。
『……それは……返事を待て、と言う事でしょうか?』
「……そうではありません。……先生の元に伺うのを待って戴きたいのです……そう、三ヶ月ほど……」
 小半が考えている様子が伺えた。美鳥は先に結論を提示する。
「今、抜けられない、専念したい案件が入っています。それが終わるまで待って戴きたいのです」
『それは……私の一存でお返事は致しかねます。副島に確認して、再度ご連絡差し上げる形で宜しいでしょうか?』
「もちろんです。よろしくお願い致します」
 昇吾の望み通り、三ヶ月の猶予を申し入れたものの、副島が受け入れるとは限らない。受け入れなければ断ればいい、とは言え、美鳥にとっては貴重なチャンスを逃すことになりかねない。
「……副島は……受け入れると思うんだけどな……もし、否、だったらどうするかな……出来れば逃したくはないんだけど……」
 昇吾との約束を破りたい訳ではない、と思いながらも、美鳥の本心は傾いていた。
 
 しかし、その夜、小半から受けた電話で、美鳥は副島が条件を飲んだ事を知る。
 そして約束通り、三ヶ月後に昇吾が戻らなかった時は、自ら副島の喉元に詰め寄り、真相に近づく決意を曲げはしなかった。
 

 
 その三ヶ月の間も、美鳥はただ過ごしている訳には行かなかった。
 
 伊丹と共に、少しでも関係ある情報の収集に奔走する。もちろん、佐久田が管理している資産運用にも目を通し、夏川の元に検査にも赴いていた。
 姿を消した朗━━昇吾の身を案じ、そしてひとりになった美鳥の身も案じ、夏川と春さんがしきりに戻って来るように勧めるも、美鳥は頑として譲らなかった。
 もちろん、その理由の中には、昇吾や朗の事も、そして美鳥は自分が行なっている事を夏川たちに知られないため、と言うのもある。だが、それ以上に美鳥を戻らせない理由がもうひとつあった。
 
 昇吾が姿を消してから数日経った頃である。
 伊丹を伴っての外出中、美鳥は自分に注がれる視線を感じたのた。敵意は感じないものの、かなり強い視線であり、だが不思議な事に伊丹ほどの男が気づく様子がない。
(……気のせい……?)
 しかしその後も、美鳥はたびたび自分を監視するような気配を感じていた。敵意も、嫌な感覚もない。だが、本多ではない。まして、昇吾でもない。
 その正体がわからないままでは、敵意がないとは言え、気にならない訳がない。だからこそ、夏川の元へは尚更戻れなかった。気のせいであるならば、その確証を得られるまで。気のせいでないのならば、その正体を掴むまでは。
 美鳥はその視線の相手を誘(おび)き出そうと考えていた。伊丹には何も知らせないまま。
 
 己を餌として、美鳥は動き出す。
 
「邪魔をする人間ならば容赦はしない」
 呟き、美鳥は仕掛けの餌を投げた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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