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かりやど〔拾六〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
あの日を取り戻せるのなら
どんなことでも出来る気がするのに
 
どんなことをしても
取り戻せないのがあの日だと
 
知りたくはなかったのに
 
 

 
 

 翠の顔を見つめたまま、朗はひと言も発せないでいた。
 
 どれくらいの間が流れたのか。自分でも気づかないうちに、いつの間にか立ち上がっている。
「……何を言って……」
 ようやく絞り出せた言葉は、あまりにも儚く宙に消えて行った。
「……知ってたよ……」
 息を飲み込んだ。自分の喉が鳴る音が、まるで雷鳴のように耳の奥で聞こえる。鼓動は早鐘のように鳴り、離れていても聞こえてしまうのではないかと思えるほどに響いていた。
「……気づいてないと思ってた……?」
 翠がポツリと呟く。
 朗にしてみれば、微塵も考えたことはなかった。気づかれるはずがないと、疑ったことすら。
 本当の『小松崎朗』がいなくなってから、この三年以上もの間、ただの一度も『昇吾』と呼び間違えられたことはなかった。唯一、翠を抱いている時以外は。
 その時だけは、自分は『昇吾』の代わりなのだと思わざるを得なかった。
「……いつから……」
 茫然と呟く。
「……最初の夜……」
 視線を下に向けたまま、翠は短く答えた。
「……初めから……?」
 その答えに、絶望感を湛えた朗の声。
「……戻って来た時は気づかなかった……あの時は目も良く見えなかったし、見つけられたって聞いて動転してたし、朗しか知らない『翠(すい)』って呼び名も知ってたし……だけど……」
「……だけど……?」
 顔を上げた翠は、瞬きの止まった朗の顔を見つめて睫毛を翳らせる。
「……だって朗じゃないもの……どんなに姿形や声が似てたって……朗じゃなかったもの……」
 その言葉に、朗──昇吾の脳裏に湧いた数々の疑問が解けて行った。
 
 美鳥が言う『最初の夜』──初めて美鳥を抱いた時。
 口づけの時の不思議そうな顔。
 ひとつになった瞬間の驚いた顔。
 その一瞬、身動きひとつしなくなったこと。次いで、見えない目を見開いて顔を凝視して来たこと。
 
 その時、昇吾にはその理由はわからなかった。
 だが、今にして思えば、あれが『これは朗ではない』と美鳥が気づいた瞬間だったに違いない。
 
「……美鳥…………もしかして、朗と……?」
 翠は再び下を向いた。
「……朗を……想っていた……?」
 ゆっくりと首を左右に振る。だが、それが否定の返事ではないことを昇吾は理解した。
「……今でも……?」
 まるで頷くかのように、更に下を向く翠の表情に、想っていた、のではないと確信する。今でも想っているのだ、と。
(……過去形じゃない……美鳥にとって、朗への想いは今でも……)
 ずっと、漠然と感じていたことは気のせいではなかったと知り、昇吾はその場に崩れて膝を着いた。己のあまりの迂闊さに放心しながら。
 
 美鳥が朗に心を許していることには気づいていた。
 昇吾に対するのと同等に信頼を寄せていることも。
 時に、兄も同然の昇吾より気楽に話せる相手だと言うことにも。
 昇吾にとって美鳥は妹に近い存在であり、まだ子どものように考えていたのも間違いなかった。
 だからこそ、それが深い想い──思慕であること──それだけが読み切れていなかった。
 美鳥の内面が、いつの間にか娘へと変化していたことを。
 
 下を向く翠を、昇吾は言葉もなく、覗き込むように見上げる。
「……ぼくを……恨んでる……?……朗を身代わりにして……奴らの真っ只中に……松宮とは何の関係もない朗を見捨てて、ひとり戻ったぼくを……」
「そんなこと考えたことないよ!」
 勢いよく顔を上げた翠が叫んだ。
 見つめ合う。数年ぶりに、昇吾と美鳥として。同じ血を持つ、従兄妹同士として。
「……戻って来たのが朗の方が良かったとか、そんなこと考えたこともないよ……ふたりに戻って来て欲しかった。でも、ふたりとも戻って来ないより良かった。昇吾と朗を比べるなんて考えたことなかった。昇吾と朗は私にとって別の存在だけど、でも別じゃないから……」
「……美鳥……」
 今度は昇吾が下を向いた。
「……すまない……すまなかった……」
「……何で謝るの……」
 翠の問い掛けに、昇吾は強く目を瞑る。
「……どうして謝るの、昇吾……!」
「……ぼくが捕まっていれば良かったんだ。『ぼくたちはそっくりだから誤魔化せる』『見つかっても身分証があるから大丈夫だ』なんて、朗の言葉に甘えたりせずに……そうすれば……」
 昇吾の言葉は、最後まで発されることはなかった。それ以上、言葉として表すのはつら過ぎたのだ。
「……り……って……言いたかった……」
 途切れ途切れの翠の声。昇吾の肩に何かが触れる気配。目を開けると、傍に膝を着いた翠の手が肩に置かれ、その目が顔を覗き込んでいる。
「……おかえり、昇吾……って……ずっと言いたかったよ……」
「……美鳥……」
 いつも昇吾に呼ばれていた名前。昇吾にとって、彼女は『翠』ではなく『美鳥』なのだ。
「……昇吾……」
 そして、いつも美鳥に呼ばれていた名前。
 翠はいつものように、昇吾の首にするりと腕を回すと、真っ直ぐに目を見つめながら顔を近づけて来た。
 唇が重なると同時に目を閉じる気配。昇吾の腕も翠の身体を抱きしめた。
 何度も、角度を変えて繰り返される口づけ。深めても深めても、底に着かないほどに。
「……昇吾……おかえり……」
 合間に、翠が耳元に囁く。
 その吐息を、また唇で飲み込み、絡まり合ったままベッドに倒れ込んだ。昇吾の身体の上に折り重なりながら、更に口づけ、抱きしめ合う。
「……昇吾……」
 自分の名前を呼ぶ声を飲み込みながら、昇吾は初めて気づいた。
 『代わり』などではない。『仮』などではない。そんなものではなく、翠──美鳥は、抱かれながらいつでも自分のことを、『昇吾』のことを求め、『昇吾自身』を呼んでくれていたことに。
「……美鳥……」
 そして、昇吾が耳元で名前を呼ぶたびに、肌の上に指を滑らせるたびに洩れる吐息。その熱さが昇吾の心と身体を煽り、溶かしそうになる。
 数え切れないほどの吐息。意識が遠退きそうになるほど求め合いながら、『美鳥』と『朗』と、そして『翠』と過ごした日々の記憶が、鮮やかに昇吾の脳裏を駆け抜けて行く。
 そして、翠もまた──。
 初めて『朗としての昇吾』ではなく、『昇吾としての昇吾』の熱に『美鳥』として包まれながら、その違いを身体で感じていた。
 産まれた時から自分を見守っていた眼差し、引いてくれた手の温もり、幼いながらも感じた力強さ、そして太陽のようだった明るさを──。
 
 まるで、たった今の出来事のように。
 

***
 

 初めて会ったのは二十一年前。
 互いが三歳と産まれて数ヶ月の時。
 
 初めて逢ったのは八年前。
 互いが十六歳と十三歳の夏。
 

 
 七年前──。
 松宮美鳥、十四歳の夏。
 
「また、お世話になります」
 高校二年生の小松崎朗は、従兄弟にして親友、そして同じ高校の同級生でもある緒方(おがた)昇吾に連れられ、松宮家が夏を過ごす別邸を訪れた。
 二度目の来訪である。
 
 昇吾の母・緒方曄子(はなこ)は、美鳥の父である松宮家当主・陽一郎の妹に当たり、曄子の夫である緒方グループ社長・緒方信吾(しんご)の姉が朗の母、と言う間柄である。つまり、昇吾は朗と美鳥のどちらとも従兄妹同士であるが、朗と美鳥の間には直接の血縁関係はない。
 
 昇吾は一年前の高校入学時から、通学時間を短縮すると言う名目で松宮家に世話になっていた。その関係で夏の避暑にも一緒に訪れることになり、それならばと、昨年、高校生活初の夏休みに伯父である陽一郎に頼み込み、朗のことも別邸に招待したのだ。
 それが朗と松宮家の直接の交流の始まりであった。
 
「朗くん、一年ぶりね。元気そうで何よりだわ。また逞しくなったわね」
 笑顔で迎えたのは美鳥の母、松宮陽一郎の夫人・美紗(みさ)である。
「おばさん、お言葉に甘えて、また図々しくお邪魔してしまいました。よろしくお願いします」
「とんでもないわ。賑やかなのは大歓迎よ。自分の家だと思って寛いで行ってね」
「はい。ありがとうございます」
 美紗の後ろでは春さんがニコニコしている。料理好きの春さんは、食べ盛りの男の子が来てくれると大喜びなのだ。
「おお。朗くん、来たのか!」
 奥から松宮陽一郎が姿を現した。
「おじさん、お世話になります」
「まあ、ゆっくりして行ってくれ。きみがいてくれた方が昇吾も楽しいだろうしな。また時間が空いた時にボートを出してやろう。ドライブにもいいところがあるぞ……ところで美紗……うちの台風の目はどこに行ったんだ?」
「台風の目?」
 陽一郎の言葉に、朗は不思議そうな顔をし、昇吾は吹き出す。
「さっき、近くの女の子のところに行くって……すぐ帰って来るって言ってたんですけど……」
 朗が昇吾を肘でつつく。
「……もしかして『台風の目』って美鳥ちゃんのこと?」
「ピンポーン!正解!」
 その時、ヒソヒソ話をする少年二人の後ろから、走る足音が次第に近づいて来た。
「ただいま!朗くん、もう来たの!?」
 朗たちが振り向く間もなく、ふたりの背中に向かって美鳥が勢いよく飛び込む。
「「うわっ!」」
 ふたりはハモってつんのめった。
「美鳥!お行儀の悪い!」
 美紗が窘めると、ペロリと舌を出したものの、悪びれることなく朗に笑いかける。
「美鳥ちゃん、久しぶり。元気そうだね」
「朗くんも!」
「元気過ぎて困ってるよ」
 昇吾が茶化すと、陽一郎が笑いながら「確かに」と同意。
「昇吾、うるさい」
「呼び捨てか!」
 ふたりのやり取りに朗が吹き出した。
「これ、美鳥!女の子がお行儀の悪い。いい加減になさいよ」
 再度、美紗が窘めるも、ペロリと舌を出して反省の気配はない。そのまま朗に話を振る。
「朗くんも背が伸びた。やっぱり昇吾と同じくらいだね」
「そうだね。大体、同じような背格好かな」
 背格好だけでなく、ふたりは顔も声も、まるで兄弟と言っても通じるくらいに似ていた。
 全く無視して会話を続ける美鳥に、
「呼び捨てやめろ。朗のことは朗くんって呼ぶくせに」
 まだ昇吾は文句を言っている。
「昇吾だって美鳥って呼び捨てじゃん」
「歳、違うだろ!?前は昇吾兄(にい)って呼んでたのに何でだ!?」
「だって昇吾、全然お兄さんっぽくないよ」
「何だ、それ。可愛くないなー」
 収拾がつかないふたりに、朗が割って入った。
「まあまあ、じゃあ、ぼくのことも呼び捨てでいいよ。そうすれば差がなくなるだろ?」
「ちょ……!逆だろっ!?何で呼び捨ての方向に行くんだよ?」
 昇吾が突っ込む。
「あ、じゃあ、じゃあ、私のことも美鳥でいいよ、朗」
「何だ、それ!?」
「了解。昇吾、あきらめろ」
 そう言って笑う朗に、その場の全員が笑いに包まれた。
「……何だよー。納得出来ないぞー……」
 ただひとり、納得が行かない様子の昇吾を除いて。
 
 用意された部屋に荷物を運びながら、まだ昇吾はぶつぶつと言っている。その様子に、朗はおかしさを隠し切れない。
「よっぽど兄さんぶりたいんだな、昇吾」
「だって、三つも違うんだぞー?しかもずっと昇吾兄って呼ばれてたのに……近頃、すっかり生意気になって」
「でも、彼女といると、余計なこと考えなくて済むからいいんだろう?」
 朗の言葉に、昇吾は瞳を翳らせた。
「叔父さんと義叔母さんは相変わらずなのか?」
「……もう、あのふたりの関係が良くなることはないと思う。対外的な場では取り繕ってるけど……」
 昇吾の両親の中はうまく行ってなく、松宮家に居候になったのにはそのことも関与している。
 昇吾の母・曄子は、昇吾が幼少の時は病的なほどにベッタリと溺愛していたにも関わらず、ある時期から一切見向きもしなくなった。その急転換の理由が昇吾にも全くわからない。更に、それを境に夫婦仲も悪くなったように思え、昇吾も自宅に居づらいところがあった。
 そんな息子の状況を見かね、さすがにまずいと思った昇吾の父・信吾が、陽一郎に申し出たのを機に実現したのである。
「松宮の伯父さんと義伯母さんは仲いいし、朗のところは兄弟もいるしな……そう言う時はひとりじゃないっていいよな、って思う」
 いつも明るい昇吾の弱音に、朗が黙って肩を組んだ。
「まあ、朗の言う通り、今はそんなこと考えてる暇ないよ。台風の目が引っ切り無しに行ったり来たりしてるからな」
 すると、後ろから足音と共に近づいて来る気配。
「……来たぞ……台風が……」
 昇吾の言葉に朗が笑いを堪えた。
 
 そんな風に過ごした夏が終わる頃、悲劇は訪れた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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