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〘異聞・阿修羅王5〙須羅と摩伽

 
 
 
 咲き誇る花の盛りも過ぎ、香る花の季節が訪れる頃。

「さっきから人の傍をうろうろと……一体、何用だ?」

 烟るように香る花の中、いつものように見回っていた須羅(しゅり)が足を止め、背後に問いかけた。

「……この距離で気づかれるとは思わなかったが……」

 頭をかきながら姿を現したのは摩伽(まか)であった。容易く気づかれるはずなどない、と確信出来る程度には距離がある。

「どれほど気配を殺したとて、気づかぬなどとありえぬ」

 親しげに近づいて来る摩伽に、須羅の方は微塵の遠慮も感じられないほど迷惑そうな表情を浮かべ、背を向けた。

「いや、あの毘沙門天ですらこの距離では気づかぬぞ。まるで後ろにも眼(まなこ)があるようだな、須羅は……」

 驚きの中にも滲み出る摩伽の楽しげな物言い。

「……なに……?」

 だが、そこではないひと言に、須羅は振り向いて眉をひそめた。鉄面皮の須羅の関心を引いたのが、自分が『須羅』と呼んだことに対して、であると気づき、摩伽はさらに得意気な表情になる。

「今後、おれはおまえのことはそう呼ぶと決めた。気に入らずとも、もう遅い。はじめに名乗らぬおまえが悪いのだからな」

 一見、人懐こそうな、悪戯っ子のような笑みを浮かべる摩伽に、須羅はさらに眉根を寄せた。

「好きにすればいい」

 だが、すぐにそれだけ言うと、再びそっけなく顔を背けた。その表情は、既に何事もなかったかのように戻っており、都合良く『諾』と受け取った摩伽は満足げに頷く。

「もう一度、訊く。何用だ?」

 今度は眉ひとつ動かさず、摩伽に顔を向けもせず、さらに須羅が問うた。

「用がなくば、おれは須彌山を自由に動き回ることも出来んのか? ……と言いたいところだが、用ならある。須羅、おまえ、おれと立ち合え」

 もったいぶりつつ、実はその質問を待っていた、と言わんばかりの摩伽の答え。

「断る」

 だが、須羅も即答であった。そこに『何を言っている?』だとか、『何のために?』と言った切り返しすらない。

「何故(なにゆえ)断るのだ!」

「理由がない」

 須羅の返答に、摩伽は一瞬、躊躇した。

「理由などと……! おれが立ち合えと言っているのだ! 理由など、それで十分であろう!」

 今にも剣を抜きそうな勢いの摩伽に対し、須羅の方は振り返りさえしない。

「話にならん。さっさと去(い)ね」

「待て! 逃げるのか!」

 前に回り込み、行く手をふさぐ摩伽を上目遣いで一瞥し、須羅はそのまま脇を通り過ぎようとした。

「待てと言っておろう!」

 須羅の肩を掴んだ摩伽の手は、一瞬で弾かれた。

「今、見回りをしておるのだ。これ以上、邪魔立てするな」

 冷たさしか含まない、抑えた低い声音。何より、あまりの速さに摩伽は呆気に取られるも、すぐにまた前に回り込み、両腕を広げた。

「おれと立ち合うまでは行かせぬぞ!」

「……ならば、訊く。何のために私と立ち合いたいのだ?」

 冷たく訊ねる須羅に、瞬間、摩伽は口ごもるように視線を左右に泳がせた。

「……いくら、おれがまだ正式にインドラの座に着いていないとは言え、四天王でさえ、あのように無造作におれを薙ぎ払うなど不可能だ……何故なのか、おまえの強さが何なのか見極めたい……」

 先ほどまでの勢いはどこへやら、絞り出すように答える。須羅は「やれやれ」と言わんばかりに溜め息をついた。

「はっきり言うておくが、その慢心のせいだと心得ておけ。それと、私の力は四天王とは違う……八部衆とも。座を置くことにはなるが、別物と思うておくことだ」

「………? どういうことだ?」

 相も変わらず、質問には答えずに脇をすり抜けようとする須羅に、摩伽が痺れを切らした。無理やり立ち合いに持ち込もうと逸った手が、目にも止まらぬ速さで剣の柄へと動く。

「…………!」

 だが、驚いたは摩伽の方であった。己の身体を見下ろす目が、何が起きたのかわからない、と言うように見開かれる。

(……これは……!)

 摩伽の手が震えた。

 衣の前身頃が、大きく✕(ばつ)の字形に裂けており、その端々が小さく焦げたように燻っている。戦慄く手で触れると、身体にはほんの僅かな傷もなく、ただ、布地だけが裂けているのであった。

(両の腕(かいな)で無造作に払っただけで……!)

 暑さとは関係ない汗が伝うのを感じながら、摩伽は須羅の顔を見上げた。

 剣を含め、鋭利なものなど何も持たぬ手。何事も起きていないかのように変わらぬ冷たい眼差し。だが、そこに確かに浮かぶ無条件の美しさに、さらに目を見張る。

「……もう一度、言う。私の邪魔をするな」

 言い捨て、少しずつ遠ざかる細い背を、摩伽は硬直したまま見送るしかなかった。

(……あれで本当にインドラとなれるのか……)

 一方、周囲を見渡しながら、須羅の胸の内を過る一抹の不安。

(……いや、なってもらわねば困る)

 拳を握り、歩き回る須羅の傍を、花の匂いをのせた風が一陣、すり抜けようとする。

「……立ち合いなどせずとも……」

 睫毛を翳らせ、つぶやいたひとり言は、その風にさらわれて空(くう)へと消えた。

 だが、須羅の冷遇をよそに、摩伽はそれからも足下(し)げく訪ねて来るようになる。
 
 
 
 
 
 
 

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