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かりやど〔弐拾壱〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
逢いたくて
逢えなくて
 
逢えないくらいなら
死にたかったのに
 
逢えた時には
逢わない方が良かった
 
 

 
 

 いつものように、美鳥を昼寝させた午後のことである。
 
 ここ数日、美鳥の調子が今ひとつであることが、昇吾の気持ちを波立たせていた。
 季節の変わり目と言うこともあり、体調が不安定なだけでなく、精神的にも少し安定しない。そんな時の美鳥は、赤ん坊の原理と同じなのか、昇吾の気配が傍にないとすぐに目覚めてしまう。
 そのため、美鳥が眠っている部屋で作業するのが常となっていた。
 
 その日も昇吾は、美鳥の枕元近くでパソコンを開いていた。
 佐久田が提案する資産運用案や資金移動に目を通していると、来訪者を知らせる通知。広大な敷地の庭に、誰かが医療施設側ではない場所から入るとわかるようになっている。
「……?……誰だ……?」
 美鳥の様子を見るとよく眠っている。パソコンを閉じ、急いで様子を見に行くことにした。
 用心のため、美鳥の部屋にロックをかける。パニックになった美鳥が、部屋から飛び出すのを防ぐためもあるが、誰かに侵入された時の緩衝も兼ねている。
 本多から渡された銃を忍ばせ、階下に降りた。夏川と春さんが見つめるモニターを覗くと、一台の車が居住区域に向かっている。
「先生たちはここにいてください。美鳥の部屋はロックして来たので」
 外に出て待ち受ける。
(こうも堂々と侵入して来ると言うことは、道にでも迷ったのか?)
 やがて、モニターに映っていた車が正面玄関の前に停まった。偏光ガラスなのか、乗っている人間の顔は良く見えず、昇吾は固唾を飲んで様子を窺う。
 扉が開き、運転席から姿を現した男の姿を確認した瞬間──。
「ーーーーーー!!」
 何もかもが止まった。昇吾は目を見開いて硬直していた。
 目の前に降り立ったその男が、ゆっくりと昇吾の方を見る。
「…………朗…………?」
 それ以外の言葉は出て来なかった。
「…………昇吾…………」
 呼ばれた方も、それ以上は返せなかった。
「……朗……」
 フラつくように歩み出た昇吾を、朗が受け止める。
「……昇吾……待たせてすまなかった……」
 短い、しかし万感の思いがこもる朗の言葉。
 昇吾は静かに泣いた。事件の後、初めて流す涙は、夏川にさえ一度も見せたことはなかった。
「……無事で良かった……」
 昇吾と抱き合いながら、朗の目からも一筋の涙が伝う。
 様子を見に出て来た夏川も、抱き合って泣くふたりにただ目を潤ませ、春さんは顔を覆い、声を殺して泣いた。
 
 事件からは、約二年の歳月が流れていた。
 

 
「……かなり前に、昇吾の無事と消息はわかっていたんだ」
 昇吾の背中を抱きながら朗が言った。昇吾は朗から身体を離し、見つめ合う。
「……ただ、迂闊に連絡を取れなかった。ここにももっと早く来たかったんだが……チャンスを作るのに手間取ってしまって……すまない……」
 昇吾は首を振った。
 本当なら、もう二度と会えないかも知れないと思っていた。狙われている自分に、危険を冒してまで会いに来てくれるとも考えていなかった。自分から会いたい、とも言えなかった。
「母さんから伝言を預かって来た」
「斗希子伯母さんから!?」
 驚く昇吾に、朗は力強く頷く。
「こちらも出来る限り動く。諦めるな、と。母さんだけじゃなくて、父さんも、兄さんも、烈(れつ)も、皆の意見だ」
「……伯母さん……」
「松宮家の佐久田さんを通じて、本多さんと言う人とコンタクトを取れたのも母さんのお陰なんだ」
 朗の説明に、昇吾はただ驚いた。確かに伯母は結婚前、緒方グループの令嬢でありながら、そして若いながらも凄腕のジャーナリストだったと聞いてはいたが。
「……朗さま……」
 ふたりの会話に水を差すまい、と黙っていた夏川が、春さんの肩を支え、躊躇いがちに呼びかけた。
「夏川先生……ご無沙汰してます。その節はお世話になりました。春さんも……」
 言葉ではない何かで意志を交わす夏川、春さん、そして朗たち。突然、昇吾はハッと朗に目を戻した。
「……朗……!」
「……ん?」
 真剣な昇吾の目を見つめ返すも、なかなか次の言葉は出て来ない。
「……いるんだ……ここに…………美鳥も……」
 震え声で言う昇吾の腕を、朗が弾かれたように握った。目が見開かれ、瞬きも忘れて昇吾を凝視する。
「……今、何て……」
 朗の唇も震えていた。ありえないはずの言葉。諦めていた名前。
「……生きているんだ……美鳥も……ここで……」
 互いに見つめ合ったまま、どのくらい固まっていたのか。漸く、朗の唇が空気を震わせた。
「……美鳥が……ここで……」
 脳裏を駆け巡る二年前の思い出。浮かぶのは笑顔、笑顔、笑顔、甘い匂い、そして……。
「……そうだったのか……」
 ふたりは再び抱き合った。
「……昇吾……本当に頑張って来たんだな……」
 
 ふたりには、それだけで充分だった。
 

 
 朗を案内しながら、昇吾は美鳥の現状を簡単に説明した。
 
 事件の日から半年以上、生死の境をさまよったこと。
 目を覚ましはしたものの、未だに精神的にも肉体的にも安定はしていないこと。
 何より、今でも目が見えないこと。
 
 それは、最後に会った時の美鳥ではない、朗が知っている美鳥ではない、と言うことであった。
 神妙な顔付きで聞いていた朗は、昇吾の肩をポンと叩いた。それだけで朗の気持ちは伝わって来る。昇吾にとって、この状況になってから初めて感じる安心感であった。
 朗に少し外で待ってもらい、美鳥の部屋のロックを解除して扉を開ける。
「……昇吾……?」
 中に入ると、目を覚ましていたらしい美鳥の泣きそうな声。
「……起きてたのか、美鳥。……ごめん……急な来客だったんだ」
「……目が覚めたらいないから……」
 呟きながら手を伸ばす美鳥。近づいてその手を握る昇吾に、必死に縋りついた。
「……怖かった……」
「……大丈夫だ。どこにも行ったりしない」
「……うん……」
 抱きしめ、背中を撫でながら落ち着かせる。
 朗は扉の外で、胸を突かれる思いでその様子を見ていた。昇吾から説明を受けたとは言え、実際に目の当たりにするのとではあまりに違い過ぎて。
(……あの美鳥が……)
 弾ける笑顔はどこにもなく、代わりに浮かぶのは寂しげで不安そうな顔。今にも泣きそうな頼りなげな瞳。か細い腕、身体、そして声までも。
 朗は唇を噛んで俯いた。──と。
 昇吾にしがみついていた美鳥が、ゆっくりと身体を離す。
「……お客さん、帰ったの……?」
「……いや……」
 昇吾は朗の方を向くと、やんわりと美鳥から離れた。
「……昇吾……?」
 不安げな美鳥。
 だが、昇吾は黙って扉のところに戻り、目で朗に合図して入れ代わる。昇吾から目線を受け取った朗は、ゆっくりと、そして静かに、中へ足を踏み入れた。
 美鳥の目の前に立つ。もちろん、美鳥には見えていない。だが──。
「……誰……?……昇吾……昇吾……ここに誰かいる……?……誰……?」
 昇吾ではない、他の誰かの気配は感じるのか、怯えた声で問う。
 朗は、後退ろうとする美鳥の手にそっと触れた。ビクッと反応し、昇吾がいると思われる方に、助けを求めるように視線を向ける。泣きそうな顔に、朗は胸が痛くなった。
「……美鳥……」
 呼びかける。
 瞬きを止め、身体の動きも止め、美鳥は凍りついたように固まった。何かを思い出そうとするような、信じられないと言うような、そんな表情が浮かんでは消えて行く。
「……美鳥……」
 もう一度、呼びかけながら、朗はもう片方の手で頬に触れた。
 唇が震えだす。見開いたままの見えない目を、目の前の人物に向け、見上げた。
「…………朗…………?」
 美鳥の瞳が潤いを帯びる。
「……逢いに来るのが遅くなってごめん……」
 涙でいっぱいになった瞳。顔がクシャっと歪む。
「………………!」
 名前を呼んでも、もう声にならなかった。朗の首にしがみつき、美鳥は声も出せないほどにしゃくりあげて泣いた。
「…………朗……朗……朗…………」
「……生きていてくれて良かった……きみと昇吾が……」
 美鳥の身体を抱きしめる。扉の横では、昇吾も再び目を潤ませていた。
「……もう二度と……逢えないと思ってた」
「……ぼくもだ……」
 朗の脳裏に、美鳥と思しき遺体が発見された、と言うニュースが流れた時のことが過る。
「……逢いたかった……」
「……ぼくもだ……」
 あの絶望感が嘘のように霧散して行く。例え、何かが変わってしまっているとしても。
「……顔を良く見せて」
 身体を離した朗が、美鳥の両頬を挟み込む。その途端に、美鳥は朗の手を掴んで外そうとした。
「……や……!」
 必死に顔を背けようとする。
「……美鳥?」
 手を離さないまま、朗は顔を覗き込もうとした。
「……やだ……見ないで……!」
 泣きそうな声で訴える美鳥に、後ろで聞いていた昇吾はハッとする。
(……美鳥……もしかして目の色のこと気づいていたのか……?)
 誰もその件について触れたことはなかったが、最初の頃の皆の会話で気づいてしまっていたのかも知れない。昇吾は後悔した。少しは回復して来たとは言え、それでなくとも身体もすっかり痩せ細ってしまっている。
「……お願い、朗……見ないで……」
 
 懇願する美鳥に、堪らなくなった昇吾が、何か言わなければと、言葉を発しようとした時、ポケットの中で携帯電話が振動した。
(……本多さん……?)
 昇吾は仕方なく、会話が聞こえないように部屋から離れた。
 
「……美鳥……」
「…………いや…………」
 朗が美鳥の顔を、強引に自分の方に向かせると、睫毛を伏せて小さく首を振る。
「……変わらない、何も。……いや、やっぱり変わった……前よりもっと綺麗になった」
「…………うそ…………」
 確かに痩せ細ってはいても、二年の歳月は確実に美鳥を『少女』から『女』に近づけていた。透き通るように美しく。
「……嘘じゃない……」
 やや中性的な美しさも、白い肌も、しなやかでやわらかな身体の線も。美鳥が微かに目を開き、朗の視線を感じたのか、また強く閉じる。
「……こんな……変わっちゃったのに……」
「……その瞳の色も……」
 親指で美鳥の目の際をなぞり、
「……玉のようだ」
 その言葉に、再び微かに目を開いた。
「……美鳥……翡翠(ひすい)って知ってるかい?」
 目を開き、朗の顔を見上げた美鳥が頷く。
「玉って言うのは玉石……翡翠のことを言うんだ。今の美鳥の瞳の色が翡翠の色だよ」
 見えない目で自分を見つめる、透き通るような美鳥の瞳。見つめ返し、朗は頬を撫でた。
「そしてね……翡翠と書いて、カワセミ、とも読むんだ。翡翠色の羽を持つ鳥のことだよ」
「……カワ……セミ……?」
 呟く美鳥に朗が頷く。
「……翡翠……翠……美しい鳥だ。……美鳥……まるで、きみのことみたいだね」
 美鳥の瞳を見つめながら、朗は優しく微笑んだ。見えないであろうその顔を、美鳥は見えているかのように見つめ返す。
「……私の目の色が……?」
「そうだよ」
「……ホントに……?」
「本当だよ」
 頬を挟む朗の手に自分の手を重ね、美鳥は何かを考えるように下を向いた。
「……じゃあ、今度から『翠』の字の方で『みどり』って呼んで?」
 咄嗟に意味がわからず固まる朗。しかし、ややして、
「……声に出したら、字まではわからないよ、美鳥」
 朗が笑いを堪えながら返した。
「……そっか……じゃあ、じゃあ、『翠(すい)』って呼んで?」
「……皆が混乱してしまうよ」
「そしたら、朗だけでもいいよ」
「……昇吾がヤキモチ焼くと困るし」
 何で?とでも言うかのように、美鳥がキョトンとする。
(……こう言う顔は変わってないのに……)
 切なさを隠し切れず、この時ばかりは美鳥の目が見えていないことに感謝した。──と。
「じゃあ、朗と私しかいない時でいい!」
 何故か、どうしてもその呼び名が気に入ったらしい美鳥が声を張り上げる。
「……わかった。……努力するよ」
 絶対に混乱して間違えるな、と言う言葉は飲み込み、朗は頷いた。
「……うん!」
 それでも、嬉しそうな笑顔に心がほころぶ。
 
 その時、本多との話を終えて戻って来た昇吾が、美鳥のその様子に驚いて目を見張った。
 本多からの用件は、朗の母親、つまり昇吾の実の伯母である小松崎斗希子と協力体制に持ち込み、情報の交換をする可能性がある、と言うことであった。
 先ほど、朗が言っていたことが現実味を帯びる。
 
 だが、それよりも今は、目の前の美鳥の様子の方が昇吾にとっては喜びだった。久しぶりの明るい笑顔が。
(美鳥のあんな顔……どれくらいぶりに見ただろう……?)
 朗が来てくれたことに、心強さを感じているのは昇吾だけではなかった。
(……ひとりじゃない……)
 
 その実感は、昇吾にとって束の間の安らぎだった。
 
 
 
 
 
 
 
 

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