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師をもつということ

先日、自分の人生を変えない決意を捨ててこの人を師だと思いたいという人に弟子入りをしました。その前にもどうしてもこの先生の下で研究したいとおもって弟子入りさせてもらったことがあります。

師については、勝手にレヴィナスを師だとおもっている内田樹先生の著作を読むと師と弟子について自分の感覚と隣接しているなと感じています。

師を欲望するのではなく、つねに「師の欲望」を欲望しているのである。
(内田樹「他者と死者」P94)

正式に弟子入りをしなくても、師だとおもってる人間はいま何人もいます。ところが師だとおもってる人は「私は師じゃないよ」と口を揃えています。私が師から学びたいことは「知」すなわち、「既知であるものを既知に繰り込む」ことではなく、自分が師を思うことで自分がいた「出発点にかえらない」ということを宣言することに等しいのです。

師としての「他者」を持つことが自分が常に「遅れている他者」としての自分を認識し、「絶対的敗北」の地位を自分が認識することが大事なのではないかと考えています。

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