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「タイトル未定」のまま書いたnoteと意識の流れ、そして自身が「無」であることについての正当化について

noteのタイトルは先につけるべきか、それとも後からつけられるべきか。そんなことに悩んでいたので、このパラグラフを書いているときには「タイトル未定」として書いている。「とりあえずいいので、横において先に進めよう」という方法を採用してみた。

なにを書きたいのか、という強い衝動はない。ただ書かなくてはいけないという直感にも近い使命が自分の中にあり、そこの使命に対する義務を果たすべく書いている。

最近ずっと書きたいとおもっていたテーマがあり、それについて調べれば調べるとほど書き出すのが重くなってしまって1ヶ月以上かかってしまった。その間に自分の中の感情の振れ幅が以前と比べてとても平坦になってしまい、事実を受け止めつつも、感情によってなにかをするということが無くなってしまった。「感情は行動の触媒(Shulman)」とはいう。ところが、感情は絶対値ではなく相対値であると考えれば、感情の振れ幅がなくなることは行動自体にも影響が出ていることかもしれない。

いろいろ書いておきたいことはあるが、どこから書き始めたらいいのか悩んでいたら400文字を越えてしまった。ちょっと前の推薦入試を受ける友達から、2000文字の小論文で悩んでいるという相談を受け添削をした。この年になった自分では2000文字は楽勝のレベルである。しかも小論文という制約がかかることで、書き方の型は決まってくる。そうすれば自然と2000文字は埋まる、という話をしたのだけど、なかなかピントこなかったみたい。教育工学の敗北案件である。

ここ20年ぐらいの間に「文章の書き方」「ライトノベルの書き方」「新人賞の取り方」といった本を結構な数を読んだけど、結局のところそこで得たものがなにかわからない。でもこうやって流れるように自分の思考を文章で書くことができることになったのは、こういった本を読んで、何一つこの本に書いてあったメソッドをそのまま忠実に再現しようとしないことで身につけた方略なのであろう。

私の最も好きな作家の一人に高村薫さんは、文章をキーボードで打つことで作家になったという話がある。いまだに覚えているのだが、彼女の「マークスの山」が直木賞を受賞したときに、当時文藝春秋を毎月かっていた父から「これはすごい」といって渡されたがきっかけであった。20年ぐらいたってから、当の父にその話をしたところすっかり覚えておらず、自分の記憶について疑った記憶がある。そう、記憶は捏造されるし、偽造されるのである。

記憶の不正確さについて、主観についてというテーマをたまたま夜中に付けたノーベル賞作家となる前のカズオ・イシグロが「文学白熱教室」で語っていた。そのときに「この作家の本は読破しなければいけない」という使命について考え、「浮世の画家」「日々の名残」「わたしを離さないで」を読み「私にとってジャンルは問題ではない。書きたいテーマは常に1つだ」ということに衝撃を覚えた記憶がある。最新作の「失われた巨人」を読むために、追っかけていたアーティストの復活ライブを放棄しても、この本に使う時間が欲しかった。


いまこれを書いているのはソウルのホテルのラウンジである。ちょうど新刊で出ていたので、内田樹先生と平川克美さんの新刊を持ってきてよんでいた。カズオ・イシグロについても吉本隆明の話の中で触れられていて、「カズオ・イシグロがまったくもって語っていなかった事について、内田&平川が有責性を伴って発言をする」ということがとても面白かった。

この本で二人が話をしている村上春樹の話について書かなければいけない。少なくとも以下の発言について自分は責任をもって発言をする覚悟がないといけない。村上春樹の文章を渇望したことがいまだかつてない。中学生ぐらいのころに「海辺のカフカ」を買ったけど、結局数ページ読んでそのままになっていた。その後もインタビューやスピーチ(イスラエル賞授賞式とか)をみたけど、この作家を読むという使命についていまだに自分は帯びていない。私のパートナーが先日村上春樹が面白いとおもい、短編のはいった単行本を買ってきた(確かパン屋再襲撃がはいった文庫本)ので読んでみた。たしかその前には1Q84も2巻目まで読んだけど、3巻目を読みたいとおもう使命を感じなかった。今回の上記の対談を読んでも、天命として受け止められなかった。

今回の対談のポイントは村上春樹が階段を降りた地下二階の物語と書いているということ、そしてもう1つのあり得た世界について書いていることであった(あえて該当書籍を手元におかずにリファレンスをしないことで、なにが残っているか書いてみてる)。この時に頭の中によぎったのは新海誠の作品群である。実は冒頭で書いた「書きたいけど止まっている」のは「天気の子」が「日本民族における『海の民族』と『山の民族』の戦いであった源平合戦が、平家に対しての呪いが融けた現代版」であるという話である。これについてはもうテーマを公開した以上そのうち書くつもりである。

新海誠も村上春樹を同じぐらい丁寧に「少しずれた世界の話」を書いている。この前古い友人と呑んだときに「僕らの知っている気持ち悪い新海誠が天気の子で帰ってきた」という話をした。「世界にとっての秘密」のような大きな話が「二人だけの関係」の結末によっておきているの「気持ち悪さ」は、もしかしたら「アダムとイブ」の話から繋がる「地下二階」の話に繋がってくるとかぼんやり思い出してきた。

それはいい。「天気の子」では冒頭で家出した主人公が寝泊まりしているマンガ喫茶で村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでいる。なので、折角だからとおもい、買ってきたので読んでみたというのが今回の話のスタート地点であり、ゴール地点でもある話である。

何故「キャッチャー・イン・ザ・ライであったのか」、ではなく「なぜ村上春樹の訳のキャッチャー・イン・ザ・ライでなければいけなかったのか」という問いを立てなければいけなかったからである。確かに最後のシーンとか、冒頭の語りとか「キャッチャー・イン・ザ・ライ」をモチーフにしているとおもわれるところはいくらでもある。

でもそれは村上春樹の訳である必要はない。村上春樹の訳であった目的があったはずだ。それは「意識の流れ」と「主観の不確かさ」である。村上春樹訳を読むと、話がともかく流れる。すべて主人公のナラティブにもかかわらず、主人公が自分に語りかけてくるような形に見えるし、むしろ主人公の視点から強制的に同じ経験を強要されているような感じになる。しかし読み進めるについてその視点に違和感を感じてくる。それが「主観の不確かさ」に繋がってきている。だからその波に乗れるかどうか、自体が「天気の子」をどのように視ればいいかということを、そして「どちらの主人公」も主観によるナラティブでしかないという話になっている。

飜訳の村上春樹は読めても、オリジナルの村上春樹が読めないのはそこもあるのかもしれないということが分かった。

結局この文章を書いたとしても自分がいまだにどうしたいのかよく分からない。ちょっと前までやりたいことがあった。ところがいろんな理由により今すぐには無理だとわかった。しかしその瞬間に、コップにいれていたのは水だとおもっていたら、甘ったるいサイダーであったということに気がついた。だからそのサイダーを捨てたところ、自分には入れたい水がないということに気がついた。そして自分はコップを持ちすぎていたのは全部コップを洗って棚にしまうことをしている。

自分がコップに水を入れられないことを確認するために自分がいろんな形のコップをもっていた、ということがとてもよく分かった。だから私は究極的に無能であることの証明を、自分の有能さがないという形で証明しようとしていたということである。じゃあなにがしたいのか。いまだになにかわからない。いま自分の中身が無であり、とても透明になっている。

結局いろいろあって、というか嫌になって人間関係を結構整理した。整理したといってもいまどきはfacebookで友達を解除するだけである。これだけで人間関係は整理可能なのである。大変お手軽だ。マーク・ザッカーバーグの映画「ソーシャル・ネットワーク」であった「人間関係をインターネットに持ち込むんだよ!」ということは、「インターネットで人間関係を簡単に切れる」ということである。アドラーによる「すべての悩みは人間関係に起因する」ということなので、人間関係を切ったり貼ったり簡単にできることで悩みが減るのか、増えるのか、すくなくとも増えることはあっても減ることはないだろう。ともかく整理したいから切った、それだけのことである。そこにはもう自分は必要とされていないと私が感じた(それは相手がどうおもっているかは一切関係ない)ので、必要とされないところにはいる必要がないからである。

でも自分がなにで必要とされているかは自分自身では定義することはできない。それだからこそ、自分が無であることで、他人から必要となったときに自分が提供できる状態にあることが自分にとって一番楽な状態であるのではないかとおもっている。

ここまできてこの文章が「タイトル未定」のまま書き始めなければならなかったということ責務について果たしたことになる。

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