見出し画像

学びの態度を作らない目的とは

「嫌われる勇気」から入ったアドラー心理学を学ぶということはいったいなにを学ぶのかということについては正直よくわかりませんでした。当時よんでいた野田俊作先生の本には以下の記述があります。

アドラー心理学は「お稽古ごと」であって、本から学ぶことはできません。
(性格は変えられる アドラー心理学を語る/野田俊作)

折角なので学びたいと思い、野田俊作先生が代表を務めるアドラーギルドのサイトをみると「アドラー心理学基礎講座(応用編)」というのが浜松であるので参加してみることにしたというのが2017年5月の話でした。「応用編が基礎編になりますので是非参加してください」という記述があったと思います。

6月になって参加したのですが、少し前から咽頭炎にかかっていて一切声をだせない状況で参加しました。そこでは「最初にみんなで勇気づけの歌を詠唱しましょう」「知らない人とエピソード分析しをしましょう」とかいきなり正直よくわからない状況からスタートしたので会話を一切拒否して単に講義を聴いてるだけの参加にしました。講義自体は非常によかったのですが、感想は「なんだこりゃ」以外のなにもありません。同時期に私のパートナーがパセージを受講していたのですが、私の感想は気持ち悪い以外なにもいえず、そのままで終わってしました。

1年ぐらいたってCBTとスキーマー療法をはじめたり、自分と人生の中でやり残した高校にいってみるとかやってみると、「折角なのでパセージにいくか」と思い申し込んでみました。ですが、最初の6時間は「発言すると殺す」というスキーマーの声がずっと聞こえている状態でした。そのため、カウンセラーのところで一連の「アドラー心理学の学び」についてのCBTとその下に潜む自動思考とスキーマーがどうなってるかということについて検討をしてみました。

マインドフルネスに状況を観察してみると、少なくとも「学びをしたい」ということは本心ではありつつも、「グループワークするやつなんでキチガイ」「暇人のやること」といった父上の幻聴が発動したスキーマーから聞こえてきてました(すごいなうちの父上)。これら発言は幼少期ににリアルでいわれていたことです。このように両親は「お前はどうしょもないので人と交わらないことが最良」「他人はみんなバカなので話す必要ない」といった考えを押しつけてきました。

実は昨年より父上や母上、弟たちからの差別的発言はあまりにひどいことを認識できたので、縁を切っていました。過去にいわれた発言は「そんなこと楽しんでやるやつはガキ」「本をよんでわからない奴は一生わからない」「どうせ勉強しても無駄」「やる気は才能」「宗教やってるやつはみなキチガイ」「人生一発勝負。失敗したやつは即退場」といった外在化するだけで友達がいなくそうなことが多くあります。

このようなメッセージを発する実家と交わることで自分傷つけていました。例えば25年前に私と末弟が同じ中学の音楽教師の担当になったのですが、その人から「お前のほうが姉より才能ある」と弟に向かっていったことをいまだに呑み会のネタにされています。さらに私が不愉快だと伝えると「ガキみたいに切れる」とまたネタにされたりとかそんなことばっかりされています。

実家の人の声で幻聴が聞こえだしたらスキーマーが発動しかかってる状態なので、ともかく今はスキーマーと対話し、出て行って貰うことで「お稽古ごとであるアドラー心理学」を学べる状態になることができました。いまはほぼ大丈夫なのですが。

こんだけ酷いスキーマーが発動していると学びの態度すら作れないというのは一番の問題です。アドラー心理学が提案している目的論からの逆の原因論にみえます。しかし「酷い環境で生き残るという目的のために習得したスキーマー」なので、「常に生き残る」という目的論で暮らすためにどのような状況下であれ、スキーマーを発動させる対処行動をとっているようにも見えます。ということは目的論として行動してるように見えます。つまり学びの態度を作らないのは「実家で生き延びる」という目的によって出てくる「対処行動」によって態度が作れないのであり、逆にいえば「実家で生き延びる」という目的を自分から外せれば、そもそも学びの態度が出来ないという状況にはならないはずだと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?