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エッセイ / 余命

余命があと一日だったら、
家族と過ごしたい。

余命があと一年だったら、
家族や友人、恋人をはじめ、大切な人たちと過ごしつつ、世界のまだ見たことのない国々を旅してみたい。

余命があと三年だったら、
自分のためだけに時間を使うには、ちょっと長すぎる。
だから世界が少しでもよくなるように、自分ができることをしてみたい。
自分がいなくなったあとにも、残るなにかをしてみたい。

そんなことを考えて、それは余命があと五年でも、十年でも、五十年でも、同じことが言えるんじゃないかと気がついた。自分は確実に死ぬってことがわかってるときに、自分のためだけに使うには長すぎる時間を、どう使うか。そんなの、自分がいなくなった後も残り続けて、自分がいなくなった後の世界が少しでもよくなるようななにかを、したいに決まってる、ような気がする。

余命が一年未満だったら正直、自分のやりたいことだけでいっぱいいっぱいだと思う。とはいえ、自分の身の回りの大切な人たちに感謝を伝えたり、自分の思いを文章にしたりと、自分が死んだあとも残るようなことを、結局やることになるんだろうけれど。でもそのほとんどはやっぱり、自分の半径10m以内に対してのアクションになるような気がする。

でも、一年よりも長い時間があったら、その範囲をどんどん広げていきたくなるような気がする。

そして私の余命は、たぶん一年以上ある。

そう考えてみると、自分がこれから何をするかが、ちょっとクリアになった気がした。

私が余命うんぬんについて考えたのは、画家であり詩人でもある星野富弘さんの本を読んだのがきっかけだ。星野さんは24歳のときに不慮の事故で首から下の全身が麻痺してしまい、母をはじめとした他者の介護がないと生活を送れなくなってしまった。そんな逆境のなかでも星野さんは口に筆をくわえて絵や文章を描き始め、現在では日本全国、世界各地でその作品展が行われている。

そんな星野さんの作品のなかに、「神様がたった一度だけ/この腕を動かして下さるとしたら/母の肩をたたかせてもらおう」という一節があった。星野さんのお母さんは、星野さんが怪我をしてからずっと、すぐ横について星野さんを支えてきた。その甲斐甲斐しさと、介護される立場としてその姿を見てきた星野さんの気持ちを思いながら冒頭の一節を読み、私は思わず泣いてしまった。

同時に、自分には自由に動く腕があるのに、家族の肩なんて何十年もたたいていないし、たたきたいと思ったこともなかったことにハッとさせられた。私も家族には心から感謝しているはずなのに。

そのとき、人は何らかの制限を受けてはじめて、自分にとって大切なものに気がつけるのかもしれない、と思った。星野さんの場合は、腕が自由に動かなくなってはじめて、この腕で家族の肩をたたいてやれたらどんなにいいか、と思えたように。

だから、命に制限をかけることで、自分にとって大切なものについて改めて考えてみよう。そんなことを考えて、自分の余命がもし一日だったら、一年だったら、と想像をふくらませてみたのだった。そうしたら、自分の身の回りの人やものに限らず、もっと大きな範囲のなにかや誰かのために自分の命を使いたいという気持ちが、自分でも驚くほど自然にでてきたのだった。それは自分にとっても、新鮮な発見だった。

もちろん、「自分とは遠く離れたなにかや誰かのために自分の命を使いたい」なんて、毎日心から思うのは難しい。せわしない日常生活に追われていたらなおさらだ。でも、自分の根底には間違いなく、そういう思いが存在していることを自覚できたのは、私にとってすごく大きなことだった。

とはいえまずは、今度実家に帰ったら、自由に動く腕があるうちに、そしてたたく肩があるうちに、両親と祖父母に肩たたきをしてあげるところから、はじめてみようと思う。

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