東洋思想家は所謂「陰キャ」「コミュ障」なるを恥じず

才気煥発、明るくて口が達者、要領がよくて、何かと弁が立つ方が、個人としても色々うまくゆくし、組織にも有用な人材かもしれない。

これは古くから変わらぬことであり、そうした人間が身分を越えて華々しき出世をするとか、そういった話が古今尽きぬのは当然と思う。

しかしそうしたことをはっきり認識した上で、東洋思想の価値観としては、素とか朴といった、単純、口下手、如何にも世間で要領よくやる、といったものとは真逆の性質が好まれたのは実に興味深いことである。これが東洋思想の妙味というか、面白さであろう。

例えば老荘思想などは、社会規範でもある儒教のアンチテーゼというべきものだから、一般に貴ばれる美徳の逆を喜ぶものが多いのは分かりやすい。

賢いよりもむしろ単純たれとか、強くよりも弱くあれとか、人の先頭にたつなとか、そういったものが老荘の特色であり、故に口が上手いことを嫌うのは自然である。

一方で、我々の一般常識にも近く、老荘と違い社会や組織の成立や発展を重んずる儒教に於いても、「巧言令色鮮し仁」とか、「剛毅朴訥仁に近し」として、口だけが上手いものを必ずしも肯定しなかった。「事に敏にして言に慎む」とし、実行の方を重んじたのである。

こうした価値観の延長に日本社会はあったから、少し前までは口下手は非常な美点であった。
江戸期の武士の指南書「葉隠」にも、
「物言いに肝要なるはいはざることなり」
つまりなんでも話さないに越したことはないとしている。しかしいまはとにかく発言しろという。

昭和にいたっても、男の理想像と呼ばれた高倉健さんが沈黙こそ寡黙な男の魅力たるを我々な伝えてくれた。

戦前の教育をうけた私の祖母なども、男の口下手、朴訥を非常に喜んだものである。


しかるに現代ーー西洋風な巧言令色が持て囃され、かつての東洋的な男である口下手族は「コミュ障」として侮られているようである。

軽挙に騒がず沈着におる者は「陰キャ」と呼ばれ、これまた嘲笑の対象である。

これまでどれだけのわきまえた寡黙な男たち、特に若い世代の者達が、この風潮に苦しめられ、自己に備わった重篤な性質を却って軽薄なるものにせんと試みてきたか。

しかし、この記事を読み、この二つのレッテルをはられたるものたちは、東洋の理想がむしろ己に近しいことに気づいて安心してほしい。

諸君こそが武士である。



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