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中高年の悩みを読書で癒やすためのブックガイド|『中年の本棚』荻原魚雷


 荻原魚雷さんの『中年の本棚』を読む。おもしろい。このおもしろさは、おそらく、共感としてのおもしろさだと思う。なにしろ、私ももう37歳なのだから。

 きっかけは東京新聞の書評欄(2020.9.12)。

三十代半ばごろ、会社勤めの経験がなく、社会不適応を克服しないまま年を重ねた結果、なんとなくうまく年がとれていないような気がしていた。若手でもなく、かといって、貫禄や威厳や経験があるわけでもない。そんな中途半端な時期を乗りきるにはどうすればいいのか。その答えを探すために「中年本」の収集をはじめた。

 フリーランスは社会への不適応(会社員なら「不適合」か)を感じやすい人種だと思う。とくに私のような非社交的な人間であればなおさらだろう。

 一人で仕事をしていると、フリーランスをしているせいで社会に適応できなくなったのか、社会に適応できなかったからフリーランスになったのか、わからなくなってくる。

 しかし若さというのは便利なもので、気力や体力が、そのような非生産的で非効率な悩みを打ち消してくれる。だから迷わずにここまでやってこれた。

 だが今はどうだろう。正直、迷いまくっている。「このままでいいのか」「何かできることがあるのではないか」。そのように考えるのはもはや日常茶飯事だ。

 迷いの種は何か。やはり体力の衰えであろう。気力・体力・精神力が低下し、睡眠の質は悪化。あふれるような好奇心も失せた。日々は同じことの連続であり、頼りにしてきたスキルも通用しなくなりつつある。

 何より辛いのは、これまで積み重ねてきたものが、必ずしも価値あるものばかりではないと気づいてしまったことであろう。

 労働は金に変わり、金は日々に消えた。

 それでも……それでも何かがしたい。まだ何かできるのではないか。そんな思いが去来する。そんなとき、『ドクトル・ジバゴ』の一節を思い出す。

とつぜん、なにもかもが変わった――世の中の空気も、人々のモラルも。なにを考えたらいいのか、誰の話に耳を傾けたらいいのかがわからなかった。まるで幼児のように、これまでずっと手を引かれて生きてきたのが、とつぜん、独りぼっちにされて、自力で歩くすべを身につけなければならないかのようだった。まわりには、誰もいなかった。家族も、その思慮分別にたいして敬服していた人々も。そんなとき、人は自分自身をなにか絶対的なもの――人生とか、真理とか、美とか――に献身したいという気持ちになる。人間が作ったルールに代わって、見向きもしないできたその絶対的なものに支配されたいという気持ちになるのだ。昔なつかしい平和な日々、いまや崩壊して永久に過去のものとなった昔の生活、あのころよりももっと徹底的に、もっとしゃにむに、なにかそんな究極の目的に身をゆだねる必要があった。
(『ドクトル・ジバゴ』ボリス・パステルナーク)

 そこで、「人生とか、真理とか、美」を見つけるために読書をするわけだが、『中年の本棚』は、そんな中年期に抱きやすい悩みに対して諸先輩方がしてきた対応を知るための、格好のガイドになっている。

 文章もいい。魚雷さんの適度に力が抜けた文章は、「まだまだ若い」と肩に力が入った中年のコリをほぐしてくれる。素直な文体も心地よい。

 中年のみなさん、ぜひ読んでみてください。

※本書でふれている書籍については、以下の記事で紹介しています。http://kojigen.com/post-16363-16363.html

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