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現代舞踊家・山田奈々子先生を悼む

山田奈々子先生が亡くなられた。享年89歳。
私が存じている方の中で、戦前から芸能の世界で活動される最後の方だった。
これで、私の中の戦前は、本当に伝説のものとなった。

山田奈々子先生 2016年撮影

私が奈々子先生と初めてお会いしたのは、某美術館館長のご紹介であった。
それは私が浅草オペラの書籍を上梓したことと、それに付随して、石井漠からの現代舞踊の歴史研究をテリトリーとしていたためで、今となっては某美術館の館長には感謝の言葉しかない。

ここで、山田奈々子先生ご本人から伺った、先生の簡単な経歴を記しておきたい。

東京出身。父は現代舞踊家の山田五郎氏(1907-1968)、弟は映画俳優で歌手の山田眞二氏(1937-2007)。伊藤道郎氏や千田是也氏は親戚にあたる芸能一族である。
父・山田五郎氏について改めて記すと、幼少より能を桜間弓川に師事し、1926年渡欧。帰国後は能とモダンダンスを融合させた「モダン能」を確立させた。1968年紫綬褒章受章、全日本芸術舞踊協会副会長もつとめた人物。

山田五郎氏『扇の舞』

3歳から父に師事し、中田奈々子の芸名で東宝映画の子役として映画出演もされていたようだ。ご本人から資料を見せていただいたことがある。
父が出征、1944年からは高田せい子氏(1895-1977)に師事、まさに戦前からの現代舞踊の歴史を身に受けて生きてこられたレジェンドであった。能は桜間金太郎に師事している。
なお、高田せい子氏は明治時代より日本におけるバレエ、モダンダンス界の構築に尽力した草分け的人物で、日本洋舞史の一番最初を飾る女流ダンサーのひとりである。

『海のバラード』山田五郎氏、高田せい子氏と共に

山田奈々子の名で本格的なダンサーデビューは1949年のことで、以後、バレエからモダンダンス、能まで、幅広いジャンルの踊りを修得された。
カラーテレビの試験放送にも頻繁に出演され、1961年公開の映画『モスラ』にはインファント島の住人として日劇ダンシングチームを従え、センターで踊られていることで、その名を知る人も多くいらっしゃるだろう。

また、今よりもモダンダンスが一般的な娯楽だった時代、若き奈々子先生はモダンダンス界で憧れの存在であった。
ある劇作家の方は「昔、郵便配達のアルバイトをしていた時、奈々子さん宅の区域が担当になったんですよ。配達の時、奈々子さんが庭先にいらっしゃらないかと胸をおどらせたものです」とおっしゃっていた。
その話を奈々子先生にお伝えした時、先生は誇らしげに恥ずかしそうに笑っていらしたのを思い出す。

映画『モスラ』での奈々子先生

そして1960年後半からは前衛的な創作舞踊に力を注ぎ、多くの名作を世に送り出し、現代舞踊史に大きな足跡を残して行くことになる。

幼き日から父・山田五郎氏の背中を追い、高田せい子氏に師事。石井漠、小森敏ら、帝劇オペラの流れを汲むモダンダンスのレジェンドと舞台を共にした、まさに歴史の証人といえる。
そして多くの後進を育て、劇団円のほか李麗仙ら状況劇場の人々も奈々子先生の指導を受け、世界で活躍するダンサー折原美樹氏も奈々子先生門下である。

そんな奈々子先生であったが、私がお目にかかる時、昔のお話しを伺うという感じではなかったし、私も昔話しは求めていなかった。
先生は常に創作や、次の舞台を如何に作り上げるかに命をかけておられ、そんな奈々子先生の姿勢が大好きだった。
また、私が「芸術って言うと難解なものが尊ばれる感じがありますが、誰にでも分かりやすいものを作り上げる、これも大切だと思っているんですよ」と申し上げると、先生は心より賛同してくだすったことがある。
そして舞踊論を交わす時間が最上のひとときであったことは、生涯忘れないだろう。

コロナ後は直接お目にかかることはなく、客席からスタジオ発表会の様子を拝見するか、電話、メールでの連絡であった。
ことに2022年夏、山田奈々子モダンダンススタジオの発表会の際、私がコロナに罹ってしまったために拝見することができなかった。
まさか最後の発表会になるとは思いもよらず、今となっては一生の後悔となって身をせめる。

発表会翌日、伺えなかった無念をメッセージすると、先生からは「お大事になさって下さい。幕が降りて感動で泣いた生徒が二人もいました私も。命がけで作った作品です、嬉しいです」(原文ママ)とのお返事があった。

もうお会いできないと思うと寂しくて仕方ないが、私は先生の足跡を筆で残していきたい。

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