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追憶~冷たい太陽、伸びる月~

  • 空の果て

  • 第31話 2043年~2044年―モリ珈琲にて

 八塩がある任務に就く前、名もないハナサキ族が見届けた一体と一人。

 トビヒ族とハナサキ族の血を引く、百武佐奈子。

 人間でありながらトビヒ族の義姉を持つ、田中光樹。


 ときは、佐奈子が長崎県諫早市の養護施設に身内を名乗った後に遡る。


 トビヒ族がマスターを務める寂れた喫茶店にて。

「おばさん、そい俺(おい)に話すより、自分で小説にでもしたらどがんですか? しかも俺に日本ば出ろって。市内から出たことすらなかとに、何ば根拠に」

「十七年も君に会いに行っとらんけん、信じろと言うのは酷やろうね。とはいえ、君が否定したところで事実は何も変わらん。けどこん目ば見たと公言すれば、間違いなく君は日本政府に利用されるやろうね。重要参考人として」

 佐奈子はサングラスを外した。アイス・コーヒーの氷がカランと鳴った。グラスに着く霜が、光樹の驚きを表していた。

「こいがオッド・アイ? ってか赤? と緑のくすんだ色彩って、海外でもこがん色しとらんでしょう」

「赤っぽいのはえんじ色、ハナサキ族の特徴。緑っぽいのはもえぎ色、君のお義姉さんと同じトビヒ族の印だ。私はどちらも守るため、両方を両親に持つ」

「じゃあ、おばさんが俺の身内ってのは」

「血縁上では嘘だ。ばってか私には君を見届ける義務のある。瑚子さんの代わりに」

「そんなら会わせてよ。ココさんって人に」

 光樹から敬語が抜けた。一方で佐奈子は立ち上がった光樹を静かに見上げていた。マスターはこっそりプレートを掛けに外へ出た。「本日貸切」のプレートを見てもなお入店する日本人は滅多にいない。

「会わせてやりたかとは山々ばってか。あくまで人間である光樹君はトビヒ族の住処に立ち入ることのできん。瑚子さんもまた人間に関わることのできん。昔はカラー・コンタクトば着ければよかったばって、今は人間の科学文明ば体が受け付けんごとなっとるけん」

「そいならなぜ(なして)俺にこがんことば話したと? なして諫早市(ここ)ば……」

「さっき話したとおり、十七年前、市内住宅街で怪死体の見つかった。被害者は君の実父。しかもモラハラ男。その血縁者の君がここに居おれば、いずれ好奇の目で見られる。とくに地方だと、普通の生活ばしづらか。ま、こがん話ば聞いた時点で、以前と同じ気持ちでなんか居らんやろうけど」

「そんなら」

「けど君はどがんしても知らんばでけんかった。君を本当の弟のごと愛しとった存在ば。君自身が誰かに愛されとる事実ば。そがんせんば、瑚子さんの、人間の味方の居らんごとなる」

 光樹は瑚子の事情と自分の進路とが繋がる理由を察することができなかった。

「君自身にとっても、幅広い視野が必要だ。何、心配は要らん。君の教育費や渡航費は私と……そこのマスターとで折半する。彼はトビヒ族いぅても人間の血が濃くてね、確かお祖母さんがクォーターやったかな。彼にもえぎ色の色彩の出らんかったおかげで、政府の駆除ば免れたとさ」

「そんならマスターこそ渡航したらよかやろ。色んなお客さんの来るわけやし、そいこそマスターのルーツば知られる確率の高たっかけん」

「物分かりは義姉に似らんでよかったとに」

 瑚子は学業が得意な方ではなかった。佐奈子自身が教鞭をとっていたわけではないが、追試のため部活を休むことが度々あった。

「私ら年配ではなく、若い君に未来ば託したかとさ。人間社会の中で生きる同胞のために。トビヒ族でも、ハナサキ族でもない君に、光樹君」

 翌日、光樹は同じ喫茶店にて、佐奈子の提案を受け入れた。当時は未だ佐奈子が話した内容を疑っていた。それでも頷いたのは、真偽を自分で確かめたい欲求が強かったからだ。光樹も特別に学業がすぐれているわけではなかった。しかしそれは受け身体制の授業に性が合わないだけで、自ら調べることの方を好んでいたからだ。佐奈子の提案を受け入れれば、進学費を気にせずその学習スタイルに身を投じることが可能だと踏んだ。また光樹は密かに諫早市外に出てみたいと思っていた。地元も、兄弟同然の子どもたちが大勢いる養護施設も嫌いではないが、地元就職と同時に施設を出る人生に漠然とした物足りなさを感じていたからだ。とはいえ、高卒での地元外就職は現実として困難であることも何となく理解していた。たとえ高卒で就職したとしても、やりたい仕事が見つかっていなかった。

「ばってか、俺にできることは俺しか気づけん。最終的に選ぶ道は俺が決めるけど、そいでもよかと?」

「そいだけの図太さのあれば問題なか」

 それから一年、光樹は予備校に通い必死に勉強した。渡航するためならばとTOEICやTOEFLにも挑戦して、英語の実力も伸ばした。

 佐奈子とマスターは宣言どおり、光樹の金銭面を全面的にサポートした。光樹の新たな住処は佐奈子の自宅だったが、養子縁組はあえてしなかった。佐奈子が必要を迫らなかったので、光樹もあえて戸籍については沈黙を貫いた。

 光樹が高校三年生でIELTSにも挑戦したことで選択肢が増えて、結果としてイギリスの大学へ進学が決まった。

 佐奈子の勧めで国外の預金通帳を作り、長崎空港には佐奈子だけでなくマスターも見送りに来た。長崎から羽田まで搭乗し、成田から渡英した。


 光樹は飛行機の窓を覗き込み、雲の中に隠れている空の穴を探したが見つからなかった。

 アジア大陸が見えると、今度は大地に隠れている杜を探した。しかし光樹はまたしても見つけられなかった。


 光樹がトビヒ族と会ったのは、これが最後だった。

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