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追憶~冷たい太陽、伸びる月~

  • 杜を巡る旅①

  • 第3話 2020年9月13日―孤独の杜③

 瑚子が下半分の籠の編み目を解くと、利矢より二、三歳ほど年上に見える男性が一人立っていた。

 黒の地毛、茶色がかった黒目にもえぎ色の色彩と、瑚子と共通の容姿だった。

 男性が着用している袍パオは霧の水分吸収と太陽光による蒸発が繰り返されているのが明らかで、元の赤い生地が傷んでいた。

「眼鏡もコンタクトもしとらん。そいに微かに甘か臭いの……こいは、桃? あんた、覚醒しとるトビヒ族やろう?」

 トビヒ族の男性は右手で鼻を覆い、走り去る途中で本来の姿に転身した。瑚子との距離が広がるにつれ男性の臭いが強くなった。

「何なんあい、逃げるくらいならウチの顔ばジロジロ見るなっての。追いかけんば……と、あー雪平、あんたはそこで休んどって良かよ。空中よりはここん空気がマシやろうけん」

 瑚子が利矢の頭部を覆う籠の編み目も解くと、利矢はそっぽを向き本来の姿のまま腰を下ろした。

 利矢が深呼吸を二、三回繰り返すのを見届けて、瑚子は転身せず小石の転がる山道を駆け出した。人間の世界で陸上競技をしていたため、経験の少ない四本足よりも疾走しやすいのだ。

 砂粒が服の繊維に入り込んでも構わず下山すると、二十体のトビヒ族本来の姿が待ち構えていて、そのうち袍を着用しているのは五体でいずれも男性だった。

 女性、子ども、他の男性は襟の傷んでいない、現代のファスト・ファッション・スタイルで、両者とも一体も染髪していなかった。

 初見で瑚子から離れた二十一体目のトビヒ族は、唯一袍の生地が傷んでいない中年男性の傍らに控えていた。

 男性は本来の姿のまま鼻を伏せ、瑚子と目を合わせようとしなかった。

「その独特の体臭、お前が新しいグリーン・ムーンストーンか。私の許しなく王(ワン)の領地に踏み入れるなど、今代はよほど無知なのだろう。しかも我が崇高なる血の長が女とは……きっと覚醒できなかった連中が人間の呪術を施したに違いない」

 中年男性の冷たく鋭い言葉は、あいさつレベルの文法すら知らなくても瑚子の耳孔から脳まで留まることなく入り込んだ。木椅子で足を組み、過剰に心境を示していた。

 生地の傷んだ袍姿の四体は男性から離れて構えていた。中年を含めた五体の姿勢と袍の傷み具合で杜での立ち位置を把握できた。

 ファスト・ファッション姿の男性三体と女性三体は互いの手で子ども三体の両眼と鼻を覆っていた。残りの子ども三体も女性三体の両手で視覚と嗅覚を抑えられていた。

 男性だけではなく、瑚子と同性の大人までもが立場が上である瑚子を目で弾いていた。

トビヒ族生活圏を囲む木々の幹が細く木の葉の量も乏しく、二十一体の陰気臭さが強調されていた。

「で、あんたは? ウチが女だからまともに取り合わんことぐらい想定しとった。ばってか相手を値踏みする前に名乗りもできんとは見逃せん」

 瑚子はあえて日本全土報道の標準語ではなく、これまで生活してきた方言を放った。

 一体の言語が瑚子のボキャブラリーに合わせて正確に変換されたので、なおさら相手を気遣う必要がないと判断した。

「そうか、噂以上に無知だったのか。これは私の失念だ、では改めて。私は王(ワン)、ここにいる私の妻たち、息子夫婦と孫たちも皆、王という名前だ。下界のように名前が姓と名とやらに分かれていない。同じ名前の家族ごとで治める杜が分かれている。無論この領土では私が長だ。グリーン・ムーンストーンになったからといって、私の杜では私の方が偉い。女ならなおのこと、名誉あるトビヒ族として私にひれ伏すべきだ」

 長の王が胸を張ると、他の王皆が笑いを堪えた。

 瑚子の胃酸は沸騰していたが感情を強引に胃に流し込み、人間だったころのアイデンティティを抑制した。

 眉間に皺一本も刻まず、代わりに足元の岩土にシャクヤクの花が咲いた。

「だけん何なん? あんたが今まで通りここのここン領地ば守りたかならそれで良かやろうが。第一ウチがあんたらに頭ば下げんでも杜中を見学ぐらいできるし、あんたらに干渉する悪趣味なんていっちょん無か。そいよりも王はこん領土から出たことの無かっちゃろ? トビヒ族が名誉? 汚名の間違いやろうが、少なくともここん王全員は」

「何だと! お前それでもトビヒ族の端くれか?」

 長の王の背中を蒸発寸前の霧が包み、瑚子の背後では冷風で落ち葉と砂が舞い上がっていた。

 夕暮れにすらなっていない上空と冬の新月並みの孤独な夜の温度差が激しく、空気の境目に触れた王たちは気温差で身震いした。

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