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追憶~冷たい太陽、伸びる月~


  • 杜を巡る旅①

  • 第9話 孤独の杜 after

「何ば言いよっと。着の身着のまま空の穴に連行したとは、他ならんアンタやろうが。どがん見ても重か味噌や固くて臭かトビウオ(あご)ば持ち歩いとるごと見えんやろうが」

 瑚子は同郷の利矢ではなく、一体のトビヒ族を見下ろした。同じトビヒ族でありながら月光の存在を否定したような凍えた眼差しだった。

「で? まさか人間の世界に逃げようとしとったワケじゃなかよねぇ、王(ワン)の……僕(しもべ)クン」

「僕ですらない。俺は王(ワン)に生まれながらも王であると認められたことなど、今まで一度もない」

 利矢が捕らえていたのは、瑚子と利矢がこの杜で最初に出会った下男である。

 若い王(ワン)は土人形の仏頂面が砂絵のようにキメ細かく歪んでいた。感情が千を超えるマッチ棒を伝うもらい火の速さで体外に現れたからだ。

「別に理由ば推測しとうなかけど、少なくとも王(おさ)に問題があるっていうことやろう? 連中の誰もが神跳草の件で騒がしかったとに、アンタ一人だけ生気の無なか顔でそよ風のごと静かに離れるっちゃけんんだもん」

「問題なんて大ありだ。なぜお前は持ち前の強力な力であの男を罰しなかった? お前が本当にグリーン・ムーンストーンだというならば、あの男がお前自身にとってもすべてのトビヒ族にとっても糞にすらならないのは分かっているだろうに」

 王が螺旋の隙間から右腕を伸ばすと、利矢は檻の面積を縮めた。王は腕を引っ込めたが間に合わず、火傷と凍傷のブレスレットが重ね付けされた。

 王が舌打ちすると、利矢が口を挟んできた。

「先代までのグリーン・ムーンストーンならばともかく、この女王に関しては嘘でも敬ったところで、お前のためになんか何も手配せんぞ。彼女の神経の図太さは並ではなかけん。仮にあの王(おさ)が彼女に無礼を働いたところで、お前の個人的な恨みに則った罰し方は決してしない」

「だから俺があの男を憎む理由を訊かないのか? ハナサキ族の長であっても同盟とは建前ばかりで、結局自分だけが可愛いということか。あの男は俺の母親を孕ませた挙句餓死させた。男でも女でも他の王(ワン)も同じく卑しいぞ。母があの男に拾われた流れ者というだけでトビヒ族としてすら認めず、木の実一つをも施さなかったのだから」

「そいでアンタは結局何ばしたかったと?」

「王の領地を滅ぼさせたかった。そのためある者と秘密裏にかけあったのに。さっきも言ったように、お前はあの男を罰しなかった。だったら俺は母の分まで、別の存在として生きられる世界を探し求めるまでだ。そこが他領地ではなく、トビヒ族と相容れない人間の住処であっても何の問題もない。俺がトビヒ族としての生を捨てたら良いだけの話だ」

 王が拳を握り断言すると、瑚子は自ら右手で螺旋を押した。

 利矢の力加減が間に合わず、手中に吸収しきれない温度が二本、王の左頬にくっきりと押印された。瑚子の手形の色づきが比較的薄かった。

「何をする!」

「どがん寝言ば言ぅとるとか。トビヒ族に生まれた以上、アンタも他の誰(だい)も、どこに向かっても、思い描く自由なんか死ぬまで手に入らんとぞ。人間としての生き方なんて夢のまた夢! ストレスで願望と現実の区別がつかんごとなってしもうて、ウチに言わせたらアンタも憎んどる王(連中)と同類たい」

「だったらどうしてこの杜にのこのこやって来た? お前みたいな女がどんな身分であっても、どの領地に行っても決して受け入れられないと分からなかったのか?」

「——たい」

 瑚子は王が涙する前に背を向けた。利矢に一言も声をかけずに檻から離れるので、利矢は慌てて拘束する部位を変えた。王は二本の螺旋が右踝(くるぶし)の表面を傷めるのに構わずにしゃくり声を上げた。

「あいつの言葉を借りたくなかけど、本当に罰ば下さんで良かとか?」

 利矢は忙しない呼吸で瑚子の後を追った。下山したことで杜よりも人間の住処に近くなり、上空とは質の異なる空気で喉から肺までが苦しくなったからだ。

 この大陸とは相容れない体質は瑚子も同様だったが、トビヒ族特有の脚力で傾斜道を進んだ。

 瑚子は利矢が追い付くのを待つ間でさえ、表情筋の動きが見えないほど静かな呼吸だった。

「あの男には、人間になりきる気なんて全然(いっちょん)なかけん」

「……根拠は?」

「そがん屁理屈ば考える手間なんか要らん。あの情けなか面(ツラ)ば見たら分かるやろう」

「まぁな。結局トビヒ族のプライドも王(ワン)の名も永遠に捨てきらんこともな。あいはあいつの本性ば読み取った上での台詞やったとか?」

「アンタも相当ねちっこかね。別にウチはあいつのこと、挨拶もできんマナー違反者としか思ぅとらんし、そい以外の性格なんて全然(いっちょん)興味無かもん。あがん男でも人間の世界ば荒さん限りは、トビヒ族の害にもならんけん」

 瑚子は再び歩き出した。

 利矢は神跳草が導き出すまで声を押し殺して立ち止まっていた。瑚子が想いを未だに捨てきれないことに動揺したからではない。

 生涯変わらないかもしれない瑚子の矜持を盗み聞きする気配を探るためだ。残り香はすでに薄まっており、瑚子との戦闘意志の気配は皆無だった。

「おい、歩くスピードば落とせ。人型でも本来の姿でも、腕力では踏み進めんとぞ。俺はこがんところに一秒でも長居したくなかとって」


 この杜は二人が離れるまで、薄く変色した霞が全身に纏わりついていた。

 瑚子は肺を傷める大気を気に留めるどころか、利矢の目には霞が瑚子に汚染されているように映った。

 瑚子の毒は長い間人間に混じって生を繋いだ結果ではない。

 人間としての将来を完全に奪われる過程の中で一つずつ願いを潰された。愛しい命を消されたり、別れまでもを繰り返した果ての副産物である。

 その無形の毒は、現在瑚子と最も身近な利矢ハナサキ族には微量でも抜き取ることができない。

 この大陸で利矢ができることは、一個人としての真理を受け入れて瑚子のために翼を広げることだけだった。


 赤渕で白金の羽根が一本、最も乾いた砂粒の上に舞い落ちた。

 同時に一体の人型トビヒ族の男は砂粒の上でこと切れて、流血と砂粒とが混ざり、ホット・ケーキのダマだらけのペーストと化していた。

 男の胸は、人間が投棄した刃物で貫かれていた。

 胸の痛みが鈍くなると、男の中で記憶が木霊こだました。


『我々が穢れた王(ワン)の者を受け入れる? それか人間に売り渡す? お前は分かり切った虚言を鵜呑みにして絶命するだけだ』


『どうしてこの杜にのこのこやって来た? お前みたいな女がどんな身分であっても、どの領地に行っても決して受け入れられないと分からなかったのか?』


『同類として、模範から外れたトビヒ族の定めば証明するためたい』

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