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【経済史】アジア通貨危機(1997)

【概要】
アジア通貨危機は、1997年から1998年にかけて、東アジアや東南アジアの複数の国で発生した経済危機です。この危機は、タイのバーツ暴落をきっかけに始まり、韓国、インドネシア、マレーシアなどの他のアジア諸国にも波及しました。この危機は通貨の暴落、株価の急落、外国からの資本流出などを引き起こし、多くの国で深刻な経済的打撃をもたらしました。

【詳細/前半】危機前夜
1990年代後半、東南アジア諸国は「東アジアの奇跡」と称されるほどに安定した経済成長を遂げていました。特に1995年の東南アジア諸国の経済成長率は、タイが+8.1%、マレーシアが+9.8%、インドネシアが+8.2%といった高い数値を記録し、それ以前の期間も同様に高い成長を維持していました。この時期、東南アジアは著しく経済成長を達成していたのです。

この経済成長を実現できた理由としては、高金利政策と固定相場制度(ドルペッグ制)が挙げられます。高金利については、当時アメリカの金利が5.5%であったのに対し、東南アジアではそれを大きく上回る12%以上の高金利を提供していました。これは、明らかに投資を誘致する魅力的な条件でした。

次に、固定相場制度についてですが、これは為替レートを一定のレベルに固定する制度のことを指します。例えば、日本ではかつて1ドル=360円を固定しており、この場合のタイでは1ドル=約25バーツ前後で固定していました。しかし、為替レートを固定すると言っても、それが自動的に固定されるわけではありません。実際には、その国の中央銀行が為替市場でドルとその国の通貨の売買を行い、定めたレートを維持する必要があります。簡単に言えば、バーツが高くなるとドルを買い、バーツが安くなるとドルを売ってバーツを買う介入を行います。このようにして固定為替レートを維持していたのです。

なぜこんな努力をしてまで為替レートを固定していたのかというと、固定為替レートの方が投資を受けやすいからです。高い金利差が存在する中で、もしタイバーツの価値が下落すれば、それだけで投資家の利益が減少してしまいます。日本の米国株投資家がドル安円高による為替差損を恐れることと同じです。固定為替レート制度は、このようなリスクを防ぐ目的がありました。結果として、東南アジアには多くの投資が流入し、好景気が続きました。

しかし、好景気が永遠に続くわけではありません。1996年になると、東南アジアの経済成長に陰りが見え始めました。その理由は大きく2つあります。一つはアメリカのドル高政策、もう一つは中国の台頭です。

まず、ドル高政策についてです。1995年にアメリカのクリントン政権は強いドル政策を発表しました。インフレ対策・投資促進を促すためのものでした。この政策のもとで、ドルの価値は実際に上昇しました。

しかし、タイにとっては問題が生じました。タイバーツはドルに対して固定されていたため、ドルが高くなると同時にバーツの価値も上昇してしまいます。例えば、当時1ドルが90円だったものが、1年後には110円まで上昇しました。これは、タイバーツも同様に他の通貨に対して価値が上昇したことを意味します。タイは輸出国であり、輸出品の価格が上昇すると、その商品は海外での競争力を失ってしまいます。結果として、タイの輸出競争力は低下していきました。

そしてもう一つの理由が中国の台頭です。先にも述べましたが、タイは海外からの投資を受け入れて工場を建設し、その生産物を売って稼いでいました。この需要を中国が奪ってしまったわけです。1995年、まさに中国の劇的な経済成長が目立ち始めた時です。

賃金の安い労働力に魅力を感じた投資していた企業は次々と中国へシフトしていきました。これにより、タイの輸出競争力はさらに低下しました。こうして、それまでずっと10%前後だったタイの経済成長率は、1996年には5.6%まで低下し、成長の勢いにブレーキがかかりました。

さらに、貿易収支もいよいよ赤字に転じました。タイの景気後退が始まったのです。この瞬間を待っていた人たちがいました。欧米のヘッジファンドです。彼らはこのタイのいびつな固定相場制に攻撃を仕掛ける瞬間を虎視眈々と待っていました。

何がいびつなのか、答えは既に出ています。1996年、タイバーツは米国のドル高政策に伴い高くなる一方、中国の台頭で輸出競争力は低下していました。タイのバーツは高くなる一方、タイの輸出競争力は低下していったのです。

これは不自然です。本来ならば、タイバーツは下がるはずです。当時のタイはまだまだ新興国で、輸出で食っている国でした。そのような新興国の状況が悪いとなると、その国の通貨価値というのは一気に落ちます。通貨価値というのはもともとその国の信用を反映するものですから、この場合タイバーツは下がるべきでした。

ですが、固定相場制にしていたために、通貨価値が下がっていくのに反して、ドル高に連動して価値が上がっていました。これこそが歪みであり、欧米のヘッジファンドが狙い打ったタイバーツの弱点でした。つまり、バーツが不自然に高い、過大評価されているという点を狙ったわけです。

彼らヘッジファンドは、過大評価されているタイバーツに対し、他に類を見ない規模の空売りを行いました。

そもそもヘッジファンドとは、プロの投資家たちが設立したファンドのことです。投資会社のようなものですが、彼らはお金を預けていただければ、プロである私たちが代わりに投資をいたします、儲かった分から少し手数料をいただきます、と顧客に呼びかけ、莫大な額の資金を集め、日々儲かりそうな市場を探していました。

ターゲットにされたのがバーツでした。彼らはバーツを売るため大量の先物契約を結びました。フルパワーでバーツを売り浴びせたわけです。先物契約とは、現在の価値でバーツを数カ月後に売る契約をしたことです。今回で言うと、1ドル25バーツのレートで売る契約をこの先にしました。この契約をした後に、莫大な資金を担保にしてその数倍もの資金を借り入れ、その資金でバーツを売り浴びせ始めました。

実際に利益が出るプロセスを説明します。バーツを売り浴びせ、目論見通り固定相場制が崩壊し、1ドル50バーツにまでバーツ安が進んだとします。そのレートでバーツを買い戻し、さきほどの先物契約で決めたレートで支払うことで利益が出るわけです。ここまでの一連の流れのことを空売りと言います。とにかく空売りというのは、ターゲットの相場が安くなれば勝てる賭けです。

今、入った相場が下落することをヘッジファンドが人為的に引き起こすというわけです。今回はバーツ安を引き起こす、つまり固定相場制を人為的に崩壊させるというものです。

では、次になぜ大量にバーツを売ればその固定相場制を破壊できるかという話をします。さきほども言いましたが、定められたレートを維持するために、中央銀行はバーツを買ったりドルを売ったりして調整しています。例えば、どこかの投資家がバーツを売ったとしましょう。市場にはバーツがその分出回ります。市場に出回るバーツの数が増えると、その分バーツの価値は下がります。しかし、固定相場制にしているため、バーツの価値を下げてはいけません。そのため、中央銀行はドルを使って、その下落分のバーツを買い支えます。こうして、定められた分だけバーツが市場に出回るように調整をしています。

ここで重要なのは、今、バーツを買い支えるために使ったドルはこのような調整等をするために、国が今まで貯金をしていたものです。これを外貨準備と言います。

ヘッジファンドは市場にバーツを大量に売りまくりました。今説明したように、タイの中央銀行はヘッジファンドが売った分を手持ちのドルを使ってバーツを買い支えようとします。しかしそのドルはいわば貯金を切り崩して使っているわけで、無限ではなく有限です。そして中央銀行の外貨準備でバーツを買い支えることができなくなったとき、つまり底をついたとき、固定相場制は崩壊するというわけです。今回のヘッジファンドの戦略は、中央銀行の外貨準備を使い果たさせ、対応できなくなるまで空売りでバーツを売り浴びせようというものです。

ヘッジファンドは外貨準備の量とバーツが過大評価されていることを考えて、空売り戦略は実践可能だと思ったわけです。

以上が危機発生前の状況とヘッジファンドの戦略の説明でした。

【詳細/後半】危機勃発
当時はインターネットの登場により、為替取引が非常に簡素化され、誰でも参入しやすくなった時期でした。5月14日、一斉攻撃が始まりました。ヘッジファンド、海外銀行、個人投資家からの攻撃に、タイ中央銀行は必死に対抗しました。タイ中央銀行は、これまで蓄えていた外貨準備を切り崩し、ドル買い介入を実行しました。加えて、overnight rate を25%から最大3000%に引き上げるという、通貨防衛の最終手段を用いました。この結果、数十億ドルから100億ドルの外貨準備を1日で使うという前代未聞の為替介入を行い、死に物狂いでこれに対抗しました。この対策の効果もあって、6月にはバーツへの攻撃が止まりました。

これで危機は回避されたかに思われました。タイ政府は6月30日、バーツの切り下げを行わないという事実上の勝利宣言を発表しました。しかし、7月に入るとヘッジファンドによる攻撃が再開。バーツの切り下げ圧力が再び強まりました。先の介入で外貨準備をほぼ使い果たしてしまっていたため、タイ政府には為す術もありませんでした。1997年7月2日、タイ政府は固定相場制を廃止し、変動相場制へ移行することを決断しました。その日、タイ政府は緊急特別番組で敗北を宣言しました。直後、タイバーツの暴落が始まりました。

ここで、固定相場制を導入した理由を振り返ると、投資を受けやすくするためだったと言えます。つまり、固定相場制を廃止すれば、タイから資金が流出するということです。1ドル25バーツの攻防戦中は、主に切り下げを狙う投資家だけがタイバーツを攻撃していました。しかし、固定相場制がなくなり、ドルの後ろ盾を失った時、レートが固定されていたという理由で投資していた人も、その基盤がなくなると投資を引き揚げることになります。つまり、タイの将来を信じて投資していた人も、状況が変わり、タイを見放したということです。そうして、タイバーツは「フリーフォール」(自由落下)と表現されるほど暴落し、変動相場制に移行してから半年で、1ドル56バーツにまで下落しました。今、ドル円は1ドル150円くらいですから、これがたった半年で1ドル300円になるほどの衝撃です。

タイの国内企業は、ドミノ倒しのように次々と倒産しました。これには原因があります。タイを含む東南アジアの企業は、当時、ドル建ての短期債務を現地通貨の長期投資に充てていました。これを簡潔に言い換えると、ドルをバーツに変えて大企業の投資に充てていたわけです。つまり、返済するときはバーツをドルに変えて返さなければならないのですが、バーツの価値が半値以下になってしまったため、企業は何もしていないのに返済額が膨れ上がったのです。

これに耐えられる企業はほとんどありませんでした。失業者が街にあふれ、各地でデモ運動が多発しました。バーツの暴落と共に大企業が次々と倒産したことで、大企業の株価指数も暴落し、1994年のピーク時と比較して9割弱も暴落しました。この状況を受け、タイ政府はIMFに支援を要請しました。内閣は総辞職に追い込まれました。

この危機はタイ同様にドルペッグ制を採用していた他のアジア諸国にも飛び火しました。マレーシアリンギットは-44%、インドネシアルピアは-83%、韓国ウォンは-51%暴落しました。

当時、日本はバブル崩壊によって国内経済に元気がなく、円高も1ドル80円まで進行していました。日本企業はそういった環境とアジアの人件費の安さに目を付け、こぞってアジアに進出していました。アジア通貨危機はそういった日本企業にも大ダメージを与えました。

【まとめ】
アジア通貨危機の直接の引き金を引いたのは欧米のヘッジファンドと言えます。しかし、その背景には政策の歪み、脆弱性が存在しており、それらが米国の強すぎるドルによって浮き彫りになった結果引き起こされたものと言えそうです。

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