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オントローロ、つまり私がとても好きな詩人のはなし

それがなんなのか、知る人はきっと少ない。

渋谷の妙な古いビルの2階で、それはそれは妙なお洒落さを漂わせるの、その古い本の微かな甘い匂いのなかで、古い本の詰まった本棚に囲まれた狭い場所にぎゅうぎゅうと40人くらいの人が言葉少なに小さな椅子に座ってを待っていた。

「はーい授業はじめるよー」と、ふらっと舞台である場所に(本人曰く泥ゴボウのような)男がやってきて、そしてこれが今夜の詩人であった。

前回、はじめて見たときには04と掲げられた会のタイトルなのに「」と書いてあるキャップをかぶっていた。

詩を書いて読む男、小林大吾の独演会「オントローロ」

2015年の秋口に、わたしが派遣社員をしばらくやめて自分の仕事ばっかりやるようになってから、彼のCDを購入して、それっきりほぼ毎日聞いている。

今年(これは2015年の12月30日頃書いている)、ふと思い出したのだ。
ドリアン助川先生の叫ぶ詩人の会に憧れていた中学生だった自分を。
その当時はまだインターネットも一般的ではなく、その存在はかの雑誌オリーブの小さなコラムで読むことで知りえた情報で、田舎のさほど裕福さを知らない10代の少女に彼らの事を知る手段はほとんどなかった。
なのにポエトリーリーディングについていろいろ嗅ぎまわるようなことをしていた。私にあったのは、カセットテープの蓋が壊れてセロテープで貼り付けているようなラジカセで、ラジオからはブランキージェットシティ―の「ガソリンの揺れ方」が流れるし、イエモンも解散してしまった。

(※やってみたかったサブカルっぽいセルフィー)

それから恐ろしいほどの年月を経てしまった。0.2世紀も経ってしまった。
そうして2015年にであったのが、詩を紙に印刷するのではなくCDに吹き込んで焼きまわす、かの詩人。

せまい古本屋の、大型洋書の本棚に磔になって120分、ずっと詩人がCDに吹き込んでいたあの詩を、音にのせたりのせなかったりしながら、聴いていた。

椅子もあったんだけど、満員で立ち見が出るくらいだった。
チケットも5分しないで売り切れてしまって。
これにはご本人もびっくりだった様子で、謝罪ブログを書いた上、当日も「まさかあんな速さで売り切れとは」と最初にもぐもぐとつぶやいていました。

それで、肝心の独演会なんですけどね。

詩の朗読の独演会って、何だって感じだろうけれど、とりあえずまずみなさん、CDを買うべきですね。話はそこからです。

できればAmazonなどではなく直接公式サイトで買う方が良いです。最初にオーディオビジュアルというのを買ったのですが、それには「取扱説明書」がなかった。これがあるとないとでは、話の進み方がまた変わってきます。手に入れそびれて地団太を踏んでいるのが私です。
(でも今のところ小数点花手鑑しか買えないみたい。ほかは残念ながらAmazonで)

一番最初のアルバムは、確かにくぐもった感じできれいになる前のヴィレッジヴァンガード的なアングラとまではいかないけれどサブカル枠な感じで、「リーディングでCDを作る」みたいな足掛かりとして必要なものだったのだろうなという感じがあり。まずこれがなくては一歩がすすまないものだったのかと思う実験的な要素を感じる。

そこから、2枚目、3枚目と、小林大吾ワールドが確実に広がって「え、ここってそういう世界だったの」と気づいたら違う場所にいたという感じになっていく、大型ファンタジー小説のような展開になっていく(ことに後で気づく)ビューティフルでワンダフルで、かなりひそやかな世界です。

ただただ軽妙な物語が繰り広げられたり、言葉遊びだけだったり、いろんな曲調()がある世界が、ひそやかにわずかずつ折り重なって、とどまるところを知らない。

かってにどこまでもいって帰ってこなくて、それでも手紙だけは届く。音源としてだけど。

その世界をどう説明したらいいか、説明ができない。
だからこそ愛しているのだと思います。
彼の作る世界の自分勝手な心地よさ。世の中にプラスになろうとしなくていい、でも十分面白いじゃないか!幸せになろうとしなくてもいい、不幸せは大抵面白い。それが斜に構えてそうなっているんじゃなくて、「いえ、いたって真面目です」といいそうな。

大好きです。
理由はないです。

これなんか前半のちょっと切ない思い出みたいな恋心にも似た心の揺れを切々とつぶやきあげておきながら、1:30で気づく。
「ヤギ……?」
なのに、最後まで聞いていると、涙が浮かんでくる。どうしてくれるんだ、KBDG。こんなに好きでいいのだろうか。

つよく生きていきたい。