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私、岸田劉生好きかもしれない「重要文化財の秘密」

壁打ち美術鑑賞、日本の美術を見にいくぞ編。
に、ピッタリの内容。
もともと原田直次郎の西洋画で描いた観音像を見たくていたのだけど、それも含めていろいろ重文集めたよ!というやつでした。

中身は、なんか……
地味というわけではないんだけど…なんだろ、この、今になればわかる、「大人の事情」。
意地と派閥と、メンツと政治。
そこを踏まえて見てくれや…というのが、背景にあって、奥歯にものが挟まったような「皆さまもそのところをよくお考え下さい」みたいな、日本人的な問題提起を含んでいたようです。
「ご遠慮ください」は「絶対やるな」だし、「お控えください」も「絶対やるな」です。お考え下さいは、こっちが言いたいことはそこにある通りではないんですわ、という感じになる。

あるよね、そういうの。
そりゃあるよね。

でもそういうの抜きにして見ると、美術の資料集現品大集合!って感じで、「あっ、あれはあの有名な!」みたいなタイプのテンション。

想定していたサイズ感とチガウ、通販で失敗した時の感じがフラッシュバック

猿が、デケェ……。
ニホンザルじゃない、チンパンジーくらいある。
勝手に床の間サイズだと思ってた。

スマホ首の鷹🦅

スマホ首に異様に執着するわたし。

日本史にも美術の資料集にも出てくる鮭

高橋由一のシャケ!!
思ったより暗くて躍動感みたいなものはあまりなかった。そして「それでよい」。彼は芸術家というより技術者だったという。
絵のすべてが芸術であるなんて、そんなわけなかろ?という当たり前をどーんと出してる。
せやね、なんか勝手に勝手なこと思ってたわすみません、でも上手いよね、上手いことと芸術性と、それから本人の役割や果たしたい仕事は、どれも別のことだよね。
最後に、歴史が意味付けをしてしまうことはあれど。


騎竜観音

時代に翻弄された画家、原田直次郎。
この並びでこれだけ見ると確かに「無理しちゃって変な絵描いたんだね」みたいに見える。
でもドイツ留学してバキバキにうまい西洋画を描くのに、ここだけ切り取って「あー、なんかちょっと遊んでる?ふざけてる?」みたいになってしまった時代と場所(当時の日本)の空気感みたいなものも、なんとなく感じられた。
価値観の変容はむずかしく、それが美意識の変容となると、さらにむずかしいのかもしれない。
価値観の変容はシンプルに利益が絡むので、意外とあっさり変化するのだけれど、美意識ってずっと引きずる。

何がいいのかは、一生わからないのかも。
だから他人がいいというのに乗っかって、安牌に逃げる。

「南風」和田三造・作 24歳の時の作品

こういう肉厚な男らしいイケメンをぶっ込んでくるのも、また勇気だったのかもしれない。
いわゆるアカデミックな画風でもあり、画題はリアリズムとフォークロアがあり、一番「闘える」絵なのではないかとも思った。なんていうか、その場を大事にするとどうしてもぶっこんでいくってむずかしくなる。勝ちに行くというのもしなくなる。そして「闘える」力を失っていく。
今のジャパンってそんな感じじゃない?
この絵を見ていると、正当に戦う力をちゃんと発揮していく事の重要性が響く。そのくらい、我が国は衰退していると思う。

しかし、わたしの中で一番の変化は、あの怖い怖い麗子像の岸田劉生である。

麗子……普通にかわいい。
幼子らしい可愛らしさがちゃんとある。我が子への愛みたいな、ちょっと謙遜してまわりの反感を買わないようにしたいという親心みたいなものの気配もあるし、芸術家としての「その生命体がその先向かうもの」を込めているような部分も(それを妖婉さと言ってるのかも)あって、あんな怖い怖い言ってたのはなんだったのか!という気持ちだ。
印刷されて小さく美術の教科書に納まってしまうと、そりゃあ怖く見えるし、子供の頃はちょっと変な怖いものって大好きだから、ぎゃあぎゃあ取り上げてしまう。美術の教科書のせいで、私の中の岸田劉生評価はとても低かった。いや、人々の記憶の中にずっと残っているというだけで相当な存在感と言えるのかもしれないけれども。
でも本物は、ちゃんとかわいかった。

さらに常設展スペースでのかぶの絵も、キュンだった。特別展にあった麗子像の隣の、ただの家の前の土の坂道を描いた風景画もとてもとてもよかった。
なにか、内側から光が灯っているような気がするのだ。

どこか翳りがあるのが、私の好みの芸風ではあるけれど、翳りつつもモチーフは翳りがないのが好き。
明るいくらいのモチーフ、ユーモラスなものの翳りまでしっかりとらえて、描き出すところがとてもグッときます。


で、最後に、一番最初にあった横山大観の大作、生々流転について。

噂は聞いてはいたのだけど、いざ見て見ると、40メートルの墨絵の巻物は、映画のような、それもドキュメンタリー映画のような静謐さと、不思議な心への高画質を持っていた。
見ているうちに「あっ、これはナショナルジオグラフィックでは!?」という気持ちに。

ふわりとした霞のようなものから画面が始まり、奥深い山の風景が見えてくる。鹿や猿などの動物が小さく見え、小川が流れ始める。
そのうちに山奥にまでくる人間の姿があったり、徐々に大きな川になって行ったり、鳥がいて、その鳥の種類も変っていき、牛を追う人、それから大きな屋敷や橋、船、生活する人たちの姿があり……もっと、漠然と大きな水になっていく。
山育ちの私が海を見るとどうしても「水が、水がいっぱいある…」という気持ちになってしまうのだけど、海という段階になるともう「水がいっぱいある」という感じになっている。
それが、歪み、その中に竜の姿が見え、それも最後には何かよくわからないぼんやりとした輪郭を持たないものへ飲み込まれていく。

神秘!
紙でできたナショナルジオグラフィック!
高画質動画では、確かにきれいに見えるんだけど、本物は「見通す」ことができるのが醍醐味です。サッと振り返ると、ここまでの道のりがそのまま見える。これは現物を見ないとなかなかね。
画像として見るならYouTubeにUPしてもらった動画でもいいのだけど、通しで見ることのダイナミックさは、絶対に見えない。



ちなみに、後は青木繁のこれを見て

こちらの総集編を見ると、この「重要文化財の秘密」は、全部つながって見えてきます。


それにしても、岸田劉生は思いのほか好みかもしれないということがわかったのは、大きな収穫というか、発見というか変化というかでしたね。

すごい写実性のある絵なんだけど、確かにオーラがあるんですよね。
写実なのに、写実を越えることができる。
そっくりに描くなら写真でいいという世界にあって、芸術はもっとなんかこう、そういうことじゃない方向に引き伸ばしていかないといけないんじゃないかってがんばってきた人たちの存在も、彼らがやろうとしたこともなんとなくわかるんだけど、「普通にちゃんと描けばそういうのできるって」ってなる岸田劉生は、それはそれでとても怖い。
突き抜けた天才が普通に日常を生きている感じの怖さ。
麗子像が怖い怖いといっても怖いの質が全く違っていた。
怖がらせるための不気味さではないのだ。
あれらはすべてものが「存在する」怖さなのだと思う。「存在している」事実の怖さ。実存の恐ろしさとでもいうのか。
怖いけどぶわっと何かが広がっているような、光が見えるような、そういう不思議なひずみが生じている。


あと、フジタの5人の裸婦が見れました。常設展のほう。
(常設じゃないのかもだけど)

フジタと言えば猫だけど、右下のちっさい犬が思いのほかかわいくてびっくりした。わんこもかわいく描いてくれるんだね、FOUJITA!!
あとフジタの猫ってすぐフジタの猫ってわかる、フジタ顔をしているね。
猫、乳白色の裸婦(乳首がうすピンクだった)、模様の入ったテキスタイル、フジタ要素全部盛りと言われる大作。

フジタは、岸田劉生とは違って「吸い込まれる」タイプの光り方をしていた。絵の中に呼び込まれる感じ。
岸田劉生はフェルメールと似た発光型というか。絵から世界が広がってしまうというか。

そして横山大観は、吹き飛ばす。
見る者を受け入れることも導くこともしない、吹き飛ばす。
芸術家だなという感じがする。

原田直次郎は、どっちかというと技術者だったのかなとも感じられた。
でもartって技術という意味でもある。ここら辺が日本語翻訳の時の揺らぎなのかもしれないけれど、誰もが「うまければいいというものではないが巧くなくてはだめで、ヘタなのによいものがあり、ヘタならよいなんてことは絶対にない」という、まったく答えにならないことを、その答えの形を探してウロウロしている。

それは、きっと誰もがその答えのようなものを、どこかで感じたり見たりしているからなのだと思う。
記憶にない人もいれば、あれがそうだとわかっている人もいる。

私は小学生の時に、自分の身体を見て「あ、私は完全なんだ」と思った時があった。その時は非常に、まるで世界がそこで終わったかのように、無風の凪で、落ち着いていて、安心していた。
ローティーンの頃にそういう感覚があり、あれが間違いなく落ち着いているという感覚だったと思う。
そんなふうに、どこかでその芸術をする理由となる感覚とすでに出会っているのではないかと思う事がある。
それが前世だという人もいれば、無意識に共有されたなんとかという人もいる。とにかく、なんとかそういう何かにアプローチをしようとしている。

芸術という世界は、誰もがなんらかのよくわからない感覚の存在を確固として追いかけたり、それに振り回されたりしている。
権威もつきやすいので、常にソー・エスタブリッシュ。
だけど純粋に面白く、納得するものもあれば、簡単に納得できるものは納得できないみたいな二重、三重の構造を持ち、常に世界の時間のごく潰し。なのにそれがないと社会はやせ細ってつまらなくなる。

重要文化財の秘密展は、エスタブリッシュな部分の不均等さというか、不平等さ、判断基準のあいまいさについて、はっきりとは言わないけど言いたいことがあるんだぞ、という業界内のうっすらとした告発なのかもしれないし、ただの教育的なイベントなのかもしれない。

我が国の近代史を見るという意味でも、実体を伴った理解の入り口として、まだ私自身は理解が乏しいことを感じつつも、意欲的なものなのだなという事はとても強く感じました。

つよく生きていきたい。