逡巡と信仰①【長く短い逡巡】

逡巡と信仰・序章

私は、炊飯器がなくても米は炊ける。蓋つきの鍋か、フライパンがあればいい。お米を計る計量カップでさえなくてもいい。
火加減や水加減は、世の中で言われるほどむずかしくはない。

だから炊飯器はあえて買う必要がない家電だった。

でも一応3合炊きのものは持っていて、3日に一度くらいは使っている。
とはいえ、1万円もしないものだ。

そう、炊飯器にお金を使うなんて、考えてもいなかった。

そもそも、欲しかったのはスロークッカーだった。
煮物が簡単に、出かけていても眠っていてもいい感じに安全に煮てくれるスロークッカーが欲しかったんだ。

そう思っていくつか商品を検索したり探したりしていた。

あと、低温調理や発酵ができる機能も欲しかった。
炊飯器はしょっちゅうレバーコンフィ製造機になっていたし、甘酒も作るときは続けて作っていた。

スロークッカーの発酵機能はいまいちだし、発酵機能のあるヨーグルトメーカーはスロークッカーにはならない。
発酵機能のある商品はすごく安っぽく変なデザインが多かった。プラスチックに書かれた妙な商品名。ちょっと欲しくなかった。

でも、あの高価格炊飯器は、それらの機能を全部内包している!

それにね、実質炊飯器ではない。
鍋は普通の鋳鉄琺瑯鍋で、専用のクッカーがついているというイメージだ。

鍋は、そうですあのバーミキュラ。
国産鋳鉄琺瑯鍋のトップメーカー。入手するまでに半年以上かかるという大人気商品。海外では仏国のル・クルーゼなどが有名だけれど、負けず劣らずの大人気商品だ。

ただ、私は買わなかった。
一度は欲しいなと思って、ル・クルーゼもバーミキュラも眺めた。
しかし、あれは重すぎる。小さいサイズがいいかと思ったけど、結局別のメーカーの片手鍋型の厚手鍋を購入してそれで満足した(シラルガンのミルクポット)。
硝子の蓋で、可愛いピンク色で、ご飯も3合は炊ける。煮物も一人暮らしにはちょうどいい量ができるし、その気になれば揚げ物もできるらしい(家では揚げ物はしない派)。
それで、もう十分だった。それだって結構いいお値段の鍋だ。

たまに小さい15㎝くらいのスキレットとか欲しいなと思う事はあったけど、鍋系は小型厚手鍋、白琺瑯のソースパン、ガラスの蒸し器とセットの両手鍋で十分だった。(あとはフライパンと、魚焼きグリルに入れられる蓋つきの鉄鍋)

鋳物の琺瑯鍋は、とにかく重い。
洗うのがとっても面倒になる。

それにバーミキュラは、なべ底がでこぼこしている。
なにかそれがいい効果を生むらしいのだけど、うっかり焦げ付かせてしまったら洗うのがとても大変じゃないかと難癖をつけていた。

そう、買わない理由が欲しいのだ。

逡巡とは、欲しいと思う気持ちを押しのけるための、いらない理由を探す思考の流れを言う。

この炊飯器にしても、買う気はなかった。
素晴らしいとは思った。鍋メーカーが家電に乗り込んだという振り切れっぷりも感動した。同時にその機能面も、すべて私が欲しいと思っているものがそろっていた。
「保温機能がないのですよ」と店頭で言われたけれど、私はほとんど保温機能は使わないので(30分程度が最長)問題なかった。

素晴らしいと思った点は以下の通りだ。
・なにせバーミキュラの鍋だ
・スロークッカーにもなる
・発酵機能としても使える!
・低温調理もできる、1℃単位で設定できるってすごすぎる!
・鍋は素晴らしいだろう
・取り外して鍋としても使える!

それらを覆すべく、私は逡巡した。
・絶対重い、重さはどうなんだ
・置く場所はあるだろうか
※この時点で、価格は知らなかった

値段を知る前の最大の懸念事項は、重さだった。

そして、ついに値段を知る。
税込で、ざっとまあ、8万6000円くらい。

おいスロークッカー何台買える値段だよ(´・ω・`)?

まだ予約受付段階で、商品は年明けから3月頃の到着とアナウンスされていた。バーミキュラなのでそこら辺は了承済み。

って、え、8万円?
「税抜きだと79,800円です」
あと200円で8万円じゃないか。

この時点でも、あまり買うつもりはなかった。
なかったけれど、なぜか、逡巡が止まらない。

重さは?7キロか。というと、中身入れたら10キロは見込んだ方がいいね。今のキッチンに常設できる棚はないから、いつもはシンク下にしまって使う時だけ出す感じだ(今の炊飯器同様)
大きさは、収納は可能。

でも、これでいかに美味しいご飯が炊けようと、これを食べるの私ひとりなんだけど?

そう、家族や一緒にご飯を食べる人がいる機会が多いというなら、こんなに悩むことはなかったかもしれない。
これを使うの、私ひとりなんだよ?
それに、それに、8万円なんて、分不相応だよ、私に……。
家賃より高いよ。
他にできる事、たくさんあるじゃんそれだけあったら。
ただでさえ少ないお金をやりくりしてビジネス動かしているっていうのに。

……と思いながら、なぜか蔦屋家電に行った。
本当は別の予定があって、ついでにそうだ蔦屋家電があるんだよねここ、と思って、で、その、もしかしたら、あるんじゃないかな実物がって…思って…。

あった。

実物は、思っていたよりコンパクトで、高級感にあふれて家電っぽいボタンもついてなくてタッチパネル方式で、私は蓋をあけたり鍋を持ち上げたり本体を持ち上げたり(重さが気になる)した。
店員さんがやってきて、ちょこちょこ説明してくれた。
「なべ底も、他の鍋と違ってご飯を炊きやすいようにでこぼこが浅くなってる」と聞いて、懸念事項の一つが消えてしまった。

マズい、これはまずいぞ。

「テレビで放送されたらしくて、急に予約が増えてオンラインのほうでは1000台ほど予約があるので3月頃からの発送だそうですが、当店だと店頭取り置き枠がありまして、1月の半ばにはお届けが可能です」
「送料は?」
「5万円以上はサービスです」

私が眺めていると、これを目当てに来たカップルが後ろからやってきては、いろいろと質問していた。
お店の人は私が買う客には見えなかっただろう。

「バーミキュラの他の鍋も、サイズが合うものは使えるんですよ」
まじか。

「セットでこのお値段ですけど、バーミキュラの鍋も単体で使えるので、そう考えるとお得です」
冷静に考えても、鍋だけなら3万円程度でしょ。お得じゃないです。

「今日と明日はTポイントが5倍に」
8万円もTポイント換算する日がこようとは。
計算したら5倍だと2000円くらい、5倍じゃないと400円くらいデス!
キャッシュバック2000円で、8万4000円か。
みんな!Tポイントは8万円使っても400円にしかならないんだよ!


しかし。

値段が高すぎる、というところに最終的に着地。
ごはんを炊くにしても、それ以外の料理にしても、全然間に合っている訳です。別に今更買う必要のないもの。


結果を言うと、私はそれを買った。
支払いはちょっとひよって、カードで2回払いだ。
逡巡はまだ終わってはいないのかもしれない、それは長く続く。
しかし実際にはとても短かった。
する必要さえなかったのかもしれない。

長くも短い逡巡の果てに、私は8万6000円の炊飯器を買った。
その理由は、なんだったのか。

呆然としながら、あれほどに自分の中で購入を思いとどまるようにと考えていた理性的な条件が、使ったこともない買う必要もない商品に家賃より高い金額を手放すことへのブレーキにならなった理由を考えた。

美味しいご飯が食べられるから?
ブランド力の高いバーミキュラだから?
欲しかった機能だったから?

三つめが一番正解に近いが、金額との兼ね合いを見ると完全にバランスを崩していた。

それを飛び越えたものはなんだったのか。

それは、一番近い感覚を言葉にするなら、信仰という言葉が最も近いのではないかと思い当った。

見た事も聞いたこともないけれど、信じているもの。

私は、この高価格の炊飯器を買うという、自分にとって前代未聞の事を通して、自分の中にある信仰の存在を知ったのだ。


(つづく)

つよく生きていきたい。