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「私の」インテリア考、仮説

つくづく思うのは「だれも私の好みや私のために何かを作っていてくれはしない」ということだ。
私のためにデータを出したり、教えてくれる人は、いない。
私が自分で探し当てないといけない。

毎日暮らす部屋について、そのことをものすごく感じる。

整理整頓掃除、みたいな家事と、よく暮らすというインテリアとは、同じ空間に存在しているはずのことなのに、信じられないくらい乖離している。

大体生活の必要に追われて、家事からスタートする。
起点が家事=部屋の汚れ(衛生面)や散らかりから、生活空間へのアプローチが始まっているのだ。

それだって、結構いっぱいいっぱいじゃないかと思う。
朝起きて顔もろくに洗わないけどなんとか化粧して服を着替えて荷物を持って電車に乗り込む。
土日に雨が降ったら、洗濯ができなくて、布団が干せなくて、じめじめと苦しい。ゴミの日をスキップしてしまったら、一週間生ごみと暮らすことになる。
だから、もう必要に迫られる家事さえろくに回っていかない。
そんな中で、服もあるものをなんとか着て、なんとかやってるわけだから。
部屋なんて、「今月も家賃が何とか払えた」という毎月くる給料と家賃とのいたちごっこのために存在しているくらいになってしまう。

生きているということは、生きていくという事は、そういうところがあるよね。あるよ。大変なんだよ。家賃が払えるという事は。大変なことだ。
家賃が払えなくなるような怖さを抱えながら、私たちは家賃を払っている。

そんな中で、インテリアに対しての意識が後回しになるのは当然だ。
すごく当然だと思う。
だけど、どうして「いまここ」にある部屋という空間に対して、我々はそんなに手も足も出ない未熟な状態にあったのだろうか、とも思う。

家事や、さらに進んで過剰な片付け、断捨離、ミニマリズム、整理整頓インストラクターみたいな、そういう問題解決視点のアプローチはたくさんある。必要に迫られているからだ。
でも、問題を解決した先には、さらなる問題か、問題を解決した後のよりよい暮らしかがあるわけで、「よりよい暮らし」は誰も提案してこない。

あるいは、インテリアということだけが突然生活から切り離されて提案されている。
住宅に関する仕事をしていると、常にモデルルームや模型が出てくるけれど、そんな感じで急にプラモデルやジオラマキットを渡されて「これでそれっぽく作って」と、生活空間に模型を作るようなことを提案される。

だって、あれはスタジオで作っていることが多かったもの。

それを生活の中でやったら。
まあ、一部は素敵にみえる。
映える。その後ろは、ごっちゃごちゃだ。家はスタジオじゃない。
そんなことにどれほど意味があるだろう。きれいに見せることに意味がないということではなくて、本質的に生活空間が変わっていないのに、表面どころかちょっとしたトッピングだけを食べてメインディッシュを捨てて、栄養失調になっているような状態なんて、ちょっと居たたまれない。
スタジオに住むのも、悪くはないのだろうけれど。そういう人もいるけれど。それは私がついに望むものではないのだ。

生活に関して、問題解決に関するアプローチばかり重視されて、インテリアなどの美観に対するアプローチの基礎教育が足りな過ぎるというのは大きいと思う。
家庭科で料理と洗濯は教えても、歴史で建築様式は教えても、「じゃあ今、どういう生活を作るか」ということまでは、手が回ってない。
家事に関しても、しつけという曖昧な言葉でごまかされて、ちゃんとした技術を教えたり練習したりという事は個々人に丸投げされているほうが多い。
ここにジェンダー観が混じるとさらに厄介なことになって、話が進まない。

すごくややこしい問題が隠れてる。
そのことに気が付いていなかった。

私が始めて「もの起点じゃなくて、空間起点で考えないとダメなんだね!?」と気が付いたように、ずっとそこに変わらず同じ容量の空間があったのにもかかわらず、なんにもわかっていなかった。

私が最初に気が付いたのは、インテリアのテイストやジャンルを決めて素敵に作ろうということの前に、空間起点で部屋を見るということだった。
空間は、限界が決まっているがその中は完璧に自由だ。

空間の限界は、建築が決めている。

そこで気が付いたんだけど、ミニマリズムは、建築に大きく依存する。
どの文脈から考えるミニマリズムかでもめるポイントだと思うけど、貧乏系モノを減らすミニマリストから金がありまくっているけど貧相な暮らしがいいよねという貴族の遊びミニマリスト、部屋の片付けまじ無理発達障害系ミニマリストなど、いろいろ方向性がある。
が、とにかくものを減らすという方向に一度は舵を切るわけで、基礎となるのは建築のみということです。
(そういえば、途中から家を処分して住所不定になる人も多い。旅をしながら生きている、とか言うけど、昔から瘋癲フーテンの寅さん的なやり方になってしまう人は一定数いるんだなって感じがする)

部屋は服だと思う事がある。
部屋を着ている。
空間を着ているので、外に着ていく服は建築のように自分で組まないといけない。持ち歩く部屋、持ち歩く空間、持ち歩く建築物が服。
建築というのはほのかな質量だけれど、構造を作り直すことができるので、自分という肉体と社会の間に建てられる小さな建築物だなと思う。

(なので、家を買わない人生なら、服にがんがん金をかけるのは非常にコストパフォーマンスが高い事じゃないかと思った)

ミニマリストに話を戻すと、ものを減らす分、建築そのものに頼る部分が圧倒的に増えていく。
が、内部構造にまで関わることはほとんどできないので、その中でも表面的な天井の高さとか床面積、そして壁紙の色や床材、窓の位置からくる日当たり、空気の動き、気温、湿度などの空気。

空気は、最初からある見えない家具、家財だよね。
見えないけど、とても重要。くさい=空気が汚染されている、つまり腐った家具の中で暮らすということだ。
空気の質は、間取りほど価値が高く思われていないけど、とても重要じゃないかなと思う。間取りは狭くて家賃が安くても、空気がいつも入れ替わりが良くてカラッと心地よい空間だとしたら、非常にいい。お値段以上。

あと、騒音なんかも、空気の一部だろうと思う。
それからもちろん、室温と湿度。エアコンという空気をコントロールするための装置が現代では命綱でさえある。

建築依存の間取り、床面積や天井高、床材などは、あんまり簡単に変えられない。替えるにはプロが関わるので、手間賃がすごい。一般人が電気の配線とか、あんまりやっちゃいけない。

そういう視点がそもそもなかった。ただ家具をいい感じに入れればいいというイメージで、だからこそ「ソファなんか置けるかボケ!!」「なんで枯れた草を部屋に吊るしている!!」みたいな家具や雑貨しか見えないし、そこに反感や無力感(金のなさ)があったし、いざ買っても家具を入れただけでは空間にアプローチしきれないので、家具を入れただけの空間になっていた。

話は変わるが、北欧インテリアが人気なのはなぜか。

もうこれは単純に、「これがおしゃれ」という提案が強かっただけじゃないかと思う。
もう少しおしゃれに興味があって、センサーがあった人たちはインダストリアルとかに行き、塩系とか男前インテリアとか言い出したし、女子たちは韓国系と言い出した。
更に、金持ちたちはいちいち自分で部屋を作らないでインテリアデザイナーとかに丸投げするから、プロが作ったモダンスタイルインテリアが「僕たちの暮らし」としてお部屋拝見コンテンツで頻回に出てきて、タワマン社長インテリアや、若手起業家インテリア、ベンチャー企業オフィスなんかが手垢のついた個性のないパターンとして印象付けられていった流れもあるらしい。

とにかく、「自分の」「私の」インテリアは、そういう情報の中には全然なかった。
北欧系も素敵だが、インダストリアルも素敵だが、素敵だと言っている人が楽しそうでうらやましくてそこを真似ているだけのことって結構あるぞ、と思っている。
別に部屋のことは後付け、ってことはけっこうあるんじゃないか。

モダン様式は、もう今普通に生きていればそこはモダン様式のインテリア。
で、実際に自分がその中にいた時にどう思うかというと、「あの照明のあて方はあのタワーオフィスの職場でつらかったことを思い出す」みたいな、やっと個人的な感情に結びついたものが出てくる。

モダンなんて、我々はほとんどがやっすい貧相なモダン様式の生活をしている。
ほとんどが建築に依存しているから、どこに行ってもモダン様式。

やっとインテリアのテイスト、ジャンルの話になってきた。
インテリアは、というかほかの多くのものがそうらしいですが、モダン様式とクラシック様式に大雑把に分けられる。
まあ、それはわかる。
じゃあ、いつからモダン=現代なのかというと、それが1920年代。世界大戦がその線を引いた。

この節目については、以前「キュビズム展」を見に行って、すこーんと理解した。
なので、いつからモダンなのかというのは違和感がなく捉えられている。

ただ、モダンも地域差があるし、そこにいつもと違う感じを入れるのが「飾る」テクニックでありスキルだから、じゃあ何をどのようにしていきますかねっていう話がやっとここで出てくる。

やっと、私の好みの話。
となると、モダンの冷たい感じ、非人間的な感じはあんまり好きじゃないので、クラシックに傾く。
地域は、アジアに住んでいるのでアジアっぽさは地続きとしてうまくなじませたい、積極的に馴染ませていきたい。
が、家具や生活様式は西洋、ウェスタナイズされているわけだから、ヨーロッパ文化のスタイルが入ってくる。そこの馴染ませを、馴染ませずに「モダン」として現代はもうそういうことで大量生産工業製品でみんな同じくいい感じに行きましょう!とやるのか。
あるいは、「ちょっと古くさい時代の、産業革命以降のニュアンスまで戻した古き良き」に振るのか。
工業製品系でありつつ自然要素を多めに残して伸ばしていった北欧系スタイルに落ち着くのか。
そこまで形にこだわらないけど、自然っぽい雰囲気は入れていく意思を見せているナチュラル系にするか。(いうて北欧系、かなりエスタブリッシュメントというか、貴族的な感じがチラチラある)

どれも、「素敵だとは思うけど、別にすごい好きってわけじゃない」に着地する。

かといって古典に戻してアールヌーボーにすると、職人に螺旋階段作ってもらわないといけないし。それだけですごい経済の話になっちゃう。個人の資産ではなく、経済。
(昔の大金持ちが、文化芸術のパトロンだったというのは、そういうことなんだろう。自宅を作ること自体が公共事業みたいな)
それは、ちょっとまだ規模が追い付かない。

でも個人的にワクッとするのは、古い時代のビル。トイレは最悪だけど、階段の感じや照明などはとても、趣きと勢いと、過去の意匠がなんやかんやあっても死んでないという事実に、心打たれる。
なので、西洋がアジアにねじ込んできた時の、租界感を背景にしたテイストはソワソワする。
ナチュラル系インテリアみたいに心が死なない。あれは貧乏を隠して一生懸命生活している緊張感そのものだ。
モダンも嫌いだ。素敵な職場として考えられた建物の中で私たちは昼休みに給湯室のポットをお湯で満たしておく女子社員だった。
そういうのから、離れたい。
かといって、嘘っぽいジオラマに住みたいわけじゃない。

まだ、模索中である。
現実から離れるほど嘘くさいジオラマになり、かといってインテリアは非日常感がうまく出てこないとおしゃれで素敵にはならない。

租界は、日本では出島とか、近代では横浜外国人居留地、神戸なんかもそうだろう。海!港!江戸っ子以上に地元っ子であることを鼻にかける地域性!
ここら辺は、山生まれの田舎育ちには、ちょっとざらつく。
が、異文化がかちこんできて、新しい価値観が沸き上がる感じ、そこにぶら下がって美貌で成り上がる女、うまい事やってひとやまあてる男、組織化するマフィア、みたいな。自由だけど命と腕と金、みたいな。で、結局お偉いさんがいつもしずしずやってきて、反感と共通の敵があるからこその団結と、まあなんていうか、人間のナチュラルさが濃い目に出てくる感じ。

それをインテリアに入れたいかというと、もっともんでいかないといけないなーと感じているところです。

が、方向性はなんとなく見えてきた。
ナチュラル系インテリアは貧乏をなんとかごまかす緊張感に溢れている、というのは個人的な発見であった。

その先に「私の」インテリアがある。

ある。
見つけねば。作らねば。

つよく生きていきたい。