見出し画像

チャリティー商品を作ってわかったお客のお店への心理

熊本地震の時に、チャリティー商品を作った。
いつもの商品を寄付に回すよっていうやつだから、新しく何かを作ったわけではない。
地震前までに絶対に稼がなくてはいけない額は何とか取り戻せていたから、残りの商品を在庫にしてしまうよりはここで販売して人の手に渡った方がいいというのがビジネス上の判断だった。

また、寄付に関しては、当店からの寄付額はどうという事はないだろうと思っていた。(結果として20万くらいはおくったんだけど。結構な額だ)
それよりも、東日本大震災の事を思い出してショック状態になっている人たちがツイッターを見るだけでも散見されていた。
私のやっているビジネスは、お客さんが非常に非常にセンシティブなのだ!
触ったら死ぬレベルの人がたくさんいるのだ!
本人たちはそうは思っていないけど、そのくらい弱い部分がある。
私は常々、震災などが起きた時にその場で人を助ける事はできないなあと自覚しているので、自分のできる範囲で何かすることを旨としている。
この場合は、私が直接アクセスできるお客さんの気持ちを、現時点で私が持っているシステムで整えるという事だった。

つまり、チャリティー商品を売る事で、それを買うと商品も手に入るし支援にもなるとわかれば、それを買う事で心が落ち着く人が少しはいる。
その少しができればいいのだ。
寄付額はこの際問題ではない。どれだけ「被災地以外にいる人たちの心が落ち着くかどうか」が大切なのです。

が、ここで、わかった事があった。

「買おうかどうか迷っていたけど、寄付ができて、商品も手に入るなら買う」

的なコメントが結構あったのです。

これ、売っている側としてはものすごいショックだった。
お客さんの無意識に考えていることが全部そこに見えた。

つまり、お店に利益が出ないなら(安心して)買うといっているのです。

商品は欲しい。それが寄付になるなら(=自分がやりたい事or世の中的にそうあるべき事なら)、お金を出してもいい。
お店にお金が落ちるのは嫌だけど、寄付ならいい。

裏にあるそういう心理が、寄付という構造を噛ませることで表に出てきたのです。

全員がそうだとは言わないんだけど、全員がちょっとずつそういう感覚を持っていると思う。私も持っている。
「お店の儲けはなるべく少なくさせるのがいい消費者」「過剰に儲けをのせているお店(売り手)は害悪、社会悪だから、よい消費者として悪徳業者をのさばらせてはいけない」
そういう、消費者の正義感がある。

この正義感、実は全然正しくないのだ。

お客になった時に、人はいくつかの心理が働く。
・損をしたくない
・得をしたい
・悪い業者は殴ってもいい
・お客様として自分を大事にしてほしい

こんなあたりは大抵そうだ。

お客の心理というのは、すごく重要だ。
かれらは、今までの買い物を通して、今の価値観を身につけている。
お客の心理を知ることがとても売り手としては重要なのだ。

損したくない得をしたいというのは、わかると思う。
でも、その先だ。
消費者たちは今までにテレビなどで詐欺まがいの商売をして摘発されたニュースとかを見て、なるほどと思っている。それがごく一部の事なのに、それを全体化させているケースがすごく多いんじゃないかと思う。
つまり「お店を儲からせるのは、悪徳業者を太らせる事だから、なるべくお店に利益を与えないように買い物をするのがよい消費者だ」と思っている。無意識に。

それは、自分が損したくないとか得をしたいという心理を正当化するためのいい訳なんだけど、とにかく定価より安く買おうとする事がよい事だと思いたくて、そこにすり替えを起こしている。
という仮説をもっている。


わかるよ。お金がない事の恐怖心、そこから派生するお金を使う事への罪悪感。これが今の日本には蔓延している。
だからzozoの社長が大金持ちでそれをざぶざぶ使うのに全力でケチをつけていくとか、面白がられるコンテンツになるわけです。
私なんか「二億円あればもう二度と泣かないわ」とか言ってるのに、あちらは15億円のアート作品をポイッと買っちゃう。1000万円は100万円レベル、100万円は1000円くらいじゃないかしら?
私の1000円は大金持ちの100万円。

たった1000円のものを買うにも、ものすごくたくさん理由が必要な生活をしている人たちばっかりになってしまった。

特に私のお客さんに多いセンシティブなタイプの人たちは、基本的に大金持ちでパーリーウェーイwwwみたいな感じの人はほとんどいない。大体つましく暮らし、生きるのに苦労している。1000円でも使う事に躊躇して、たくさんの理由を欲しがっている。

その理由はよくわかる。
わかるけど、そういう弱い立場の人たちが押しなべて「店側は儲けてはならない!」といいはじめると、本当に世の中は回っていかないのだ。一番最初に潰れるのは、私みたいな小さい規模でやっているところだ。あっという間に消えてしまう。
(そういうのが普通なので、消えないように踏ん張るのがこっちの技でもあるんだけど、いくらそこに天才的な技を持っていても、外の世界がブリザードであることには変わらない。ちょっとでも技が狂うとかやる気が抜けたら、即死の世界だ)

お客さんたちは、世の中の仕組みをわかっていない。
もっと狭いところで苦しんでいる。たった1000円使う事に理由が必要なくらい、お金に対して罪悪感を持ちおびえている。その苦しさを何とか正当化しなければやっていけない。
そんな弱弱しいお客さんたちに対して、大資本は余裕だ。素敵な広告を打って大量に安いものを作って販売し、さらに利益を上げていく。「日本じゃ貧乏ビジネスしかできないよ、普通の上質でちょっと値の張るものは全部外人相手」というのが、私のまわりの小規模モノづくり系経営者の総意になってきている。(その割に、国や自治体のアウトバウンド補助はまぬけ過ぎる温度差)
弱弱しいお金のないお客さんは、全部大手資本の養分になるだけ。
小規模のお店も、大手資本の養分として訓練されてしまった消費者に潰される。お客にならないどころではない、安売りしろという圧力をかけて安く買い叩くわ、メルカリで転売するわで、確実にお店(作り手)に大きな傷を負わせていく。

もう正直、個人が小規模なビジネスなんか始めるのはやめた方がいい状況にあると思う。

それでも。

状況は変わる。この状況は一過性のものかもしれない。
変えられるかもしれない。
そういう貧困層はいつの時代もあったし、それでも人は連綿と生活して命をつないできた。恐れる事はない。
恐れる事はないが、ないが、生き抜くことは大変だ!


買い物をしたくないが物は欲しい、お金を使う事に罪悪感があるけどモノが欲しい人たちがお客になる商売というのは、とにかく大資本がコスト削って安く(しかも品質よく)作ることでしか、応える事ができない。

小さく丁寧にオリジナルのものを作るのは、まったく太刀打ちできない。

買い物が下手でお金の使い方が下手な人たちじゃない、よくわかっている立派な購入者のみをターゲットにするのが正しいのかもしれないけど、そういう人はとても少ないし、最初はみんな買い物が下手だ。育てていくのがお店の役割でもある。(昔はほんとに付き合いの範囲がせまかったので、お店がお客を育てていた。今はちょっと無理ゲーになっているけど)

金がない人は客でさえない。これは事実だ。
見込み客を大事にするマーケティングがまことしやかに言われているが、それは資本体力がある企業のやり方だ。小規模メーカーはそんな事やってられんのが実情。

でも、私たちは、これからもお互いに関わり合っていかねばならない。
それがビジネスというものだからだ。
ビジネスは、人間の関わりなのだ。お金や商品を介したつながりだ。あまり感情等は介さないので「関係」としてカウントされないのかもしれないけど、確実にビジネスは人間関係のひとつの形なのだ。

寄付を通して、「お店にお金は落としたくないが、商品は欲しいし、被災地の役に立っているならお金は出したい」という心理が見えたのは、売り手・お店(兼作り手)である側からすると、わかっていた恐怖が明らかになって目の前に現れたショッキングな体験だった。
「お前の店には利益を出させたくない」「でも商品は欲しい」といわれたのだ。泥棒以外の何物でもない心理じゃないか。でも本人は泥棒と同じだなんてつゆほども思っていないので、それを指摘すると逆上して怒り出す。
泥棒のようなお客さんとずっと付き合って疲弊して死んでいくお店がどれほどあるか、わかっているけどみんな目をつむっている。
自分も泥棒である。
泥棒にならなくては生きていけない。
その状況もわかるし、半ば自分もそういう状況である。

寄付とは?

こんな状況にある人たちが山ほどいて、むしろ「寄付を受けたい」状況なのじゃないかと思う。そんな中で、寄付をする。
これって、すごいインパクトだなと。

何度も襲ってくる自然災害に対して、寄付をすることの意識も仕組みも洗練されつつある。

その中で、私たちも「お金への感性」が成長していっているんじゃないかと思う。

熊本地震の時と、今とではかなり寄付への意識も変わっている。
それは阪神淡路大震災の時の反省、東日本大震災という関わった人があまりに多く当事者意識が急激に増大した震災を経て、今につながっている。

寄付をすることで、寄付という仕組みを通して、ものすごい成長がある。

いろんな宗教でお布施は重要視されている。
施しをさせる事が、人を救うのだという。
最初は意味が分からなかった。むしろ金をくれよと思っていた。その500円で私たちは今日を生き、明日がくるのだ!と思っていた。
でも「人に与える」事は、圧倒的なつながりなのだ。

与える事は上位変換された依存だという。
より洗練された依存なのだ。
依存というと嫌がられる言葉かもしれないけれど、人はつながりを必要としている。より良い依存関係を持つことが、人生においてとても重要なことだ。

寄付は、そのつながりのひとつだ。

他人に与える事は、貧乏だからこそ体験しないといけないと思う。
貧乏は人を孤独にするからだ。あるいは、小さな単位の人間関係(家族とか、ズルズルした関係の仲間とか)で社会から切り離されてしまう。
そこを突破するための、小さな入り口なのだ。

私自身は、チャリティーをすることで無自覚なお客さんたちのズルさに非常に傷ついた。それだけ、その人たちは傷ついていたのだ。そんな手負いの獣みたいな状態だったのだ。

そんな人たちが、たくさん、たくさんいる。

私には救えないと思う。その人たち自身がその課題に取り組まなくてはいけない。ネットでちょっと見かけた商品には、それをする力はない。
ないが、そういう人たちの苦しみを取り除くことをビジネスの目的の一つにしていかねばならないと思った。


寄付について、最初は素人なのだ。
幼稚園児レベルだ。
そこから、いろいろなことを体験して育っていくには、やはり経験が必要だった。

自分が寄付すること、自分が寄付の窓口になる事、いろんな段階でいろんな関わり方がある。それぞれ知ることも違い、得られる結果や感覚なども違う。傷つくこともある。

でも、やっぱり、最初は「やってみる」事がとても重要だった。

途中で自分が詐欺をするかもしれないという魔がさす瞬間も体験できた。
魔とは、これか、と。
普通魔がさすのは無自覚なのだけど、それが自覚できたのは大変よい事だった。

いいお客さんになりたいものだ

いいお客になる事は、とても難しい。
金の有無ではない。

いいお客さんは、すごい。なかなかいない。が、遭遇するとホントびっくりするほどありがたい。

わずかな金額でも、ビシッと次につなげる人がいる。
人生のコマをきちんと進めるお金の使い方ができる人がいる。
その時に、関わったお金を渡す先もハッピーにでき、育てることができる、そういう人がいるのだ。

自分が成長し、周りも育てる。
そういうお金の使い方ができる人。

それが、おそらく「いいお客」なんだろうと思う。

そうなるには時間もかかるし、浪費的な勉強代もかかるかもしれない。そこをケチる事はできない。
でもね、それで終わらずに、きちんと自分も周りも育つお金の使い方ができる人にならないといけない。そこに着地できずに浪費だけしたら、ほんと損するだけです。

寄付は、その「相手を育てるお金」にのみ意識が集中している。
自分にリターンがない分、相手の事だけのお金になる。
この経験がないと、どうしても「相手を育てるお金」がわからない。モノやサービスのリターンがないからこそ、お金を出した時に自分がどう感じているかを純粋に知ることになる。
宗教でお布施が重要なのは、こういう体験でしかできない成長を促す仕組みがあるからなんだろうと思う。


お金を使う時は、自分を守り、成長させ、人生のコマを確実に前に進める事がなくてはいけない。
そして同時に、お金がいった先も維持され育つようにする。
それはサイクルになっているので、どこかで自分に返ってくる。が、漫然としていてはサイクルに入れないので、学んで体験して返ってくるものをキャッチするところに行く必要がある。そこに行く事は人生のコマを前に進める事でもある。

お金は単なるモノやサービスとの交換チケットではない。
人のココロも買える。本当だ。
だから、寄付などで実態の伴わないお金の動きを体験しないといけない。じゃないと簡単に心が買われてしまう。
寄付をすることで、自分がお金に支配されていた事に気づく。
お金を出すことが嫌だ、嫌だ!と感じながら3000円くらい出すのはとても意味が深い。その「嫌だ!」という気持ちが、どこから来るのか。それが一番大事なことだ。


たまたま、私は「金を出すのが嫌だ!」という感情をぶつけられる先としての体験をしたので、とても鮮明だった。
そういう人たちからどうにか金を引き出そうと頑張っても、ほぼ意味がない。意味がないけど、そこを頑張って財布を開かせることが優れたマーケティングだみたいな事が世の中で結構言われているし、それを鵜呑みにしている。そこに、「違うんじゃないの?」ってはっきりと思えたのは大きな収穫だった。

金を出すのが嫌だ!嫌だ!でも出さないといけない、すごく嫌だ!という気持ちを一度きっちり体験する。
そして、次のステージとして、是非ともお金を出させてください!という経験もする。
この経験はとっても大切だと思う。
寄付には、この両方の経験ができる仕組みがあると思う。

ここから先は

0字

¥ 180

つよく生きていきたい。