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シンプルじゃなくて本質でありたい

おしゃれ、というのが昨年の秋からずっと私の重要な課題だった気がする。
「おしゃれになる」という事よりも、「おしゃれであることはどういうことか、なんのためか、その意味と意義、そして私がおしゃれであることと私が心地よくあることとは」みたいな、包括的なおしゃれに対する思考という感じだ。

今までおしゃれって出たとこ勝負というか、運がほとんどのように思っていた。
生まれた場所が都会じゃなかったとか。
顔がおしゃれじゃない、体型がおしゃれじゃない、というボディサイズの話だったり。(肉体はかなりガチャみたいなものだ)

つまり、「おしゃれ」は最初からできる人とできない人が決まっているような認識でいた。
おしゃれじゃない人は「がんばっておしゃれをする」。
おしゃれになろうとする。
そういうものだと思っていた。

そうなると、元の自分を矯正したり、足りないものを付け足したりすることになる。それがとてもむずかしかった。
足すのがむずかしいから、足さずにシンプルと言い始めることはとても多く、それは明らかに逃げなのだけど「失敗したおしゃれ」よりはマシみたいな、保険のような立ち位置として「シンプル」と言い張っている。

全然シンプルじゃなかった。
地味で貧相なだけだった。

モノの数を減らせばシンプルになる、というのは一面的な考えであって、完成度は下がる可能性があるという事は全く頭になかった。

シンプルであれば万事解決とはいかなかった。

でもシンプルであることには非常に惹かれるものがある。
それはなぜだろうかと思っていたけれど、それは「本質的である」ことに似ているからじゃないかという事に気が付いた。

私は、できるだけ本質的でありたいなと思っている。

それはとてもむずかしい事だとも思う。
本質が解明されていないことがたくさんあるし、本質だと思っていたけれど実は間違ってましたという事だって常にある。この世界はいつもグラグラと揺れている(という認識でいることがパニック障害につながっているような気がしないでもない)。

本質的であるという事は、とてもむずかしいが、拍子抜けするほどシンプルだと感じる。最小限の工程で、最もよい成果が出る。

未完成で不完全なシンプルよりも、ちょっと散らかっていても本質的であることを求めたい。

おしゃれという事を考えていて、結局そこにいくというのが、不思議な話だけど、仮におしゃれが表面をいかに美しくするかという事だと、一番簡単に少ない力でおしゃれにしたいという怠惰な気持ちがあればあるほど根本的に、本質的におしゃれにしないとむずかしいという事に着地したわけです。

毎日マスカラをぬってまつげをふさふさにするより、最初からまつげがふさふさならマスカラを塗らなくても良いわけですよ。

効率というのは、本質がわかっていないといい具合に発揮できない。
本当に効率を求めるほど、むずかしいことになるし、それこそ小手先の表面的なことでは全然追い付かない。
おしゃれというのが表面的にちょっとしたテクニックでどうにかなる、というのは嘘だと思った。でも、できないことではないというのも分かった。
一気に、時間とお金と労力をかければ、意外とすんなりできてしまうのだ。
なぜならそれが「本来の姿」であるから。

本質的というのは、最も基礎的なあり方でもあると思う。
最もベーシック。
ベーシックがシンプルかどうかは、また別の話になる。
なんでもシンプルなことがベーシックだといっちゃうのは、のちのち間違いが起きる原因になってるような気がしてならないのだ。

シンプルに逃げず、本質を探し続ける。

本質に近づいた時に、なにか、ぱんと柏手を打ったような明るさが見える。
そういう明るさがある世界を、私は作りだしてみたいなと思うのです。

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