#シンゴジ実況 はきっと心的外傷を昇華するのだろう

昨日やその前の11/3から、映画シン・ゴジラのストーリーの時系列にあわせてTwitterで実況する参加型の遊びが大流行りで、昨日なんかはTwitterのサーバーが落ちたみたい(公式アカウントが(ゴジラめ…)ってつぶやいてたけど)

これを見ていて「コロンバイン高校乱射事件のあとの遊び」を思い出した。

99年にアメリカで起きたコロンバイン高校での生徒による銃乱射事件で、多数の生徒と教師が死傷したショッキングな事件だ。
この乱射事件の後、その高校では「乱射ごっこ」が流行ったという。
いくつもドキュメンタリー作品が作られたし、その事件をトレースして繰り返す虚構が何回も人々の目に触れた。

これは、遊びによって心的外傷を昇華していくプロセスのひとつなのだという。

東日本大震災のあとも、避難所で子供たちが津波ごっこをしたというのは、同じように遊びで心的外傷をなんとか昇華しようとする人間の心に備わっている働きのためだ。

それと同じ役割を、このシン・ゴジラは背負っていたんだなって、Twitter実況を見ながらはっきりと思った。

あの震災の混乱と、酷い現実に向き合えなかったことを、ここで虚構の形を取ってトレースして見直して整理している。
もちろん、シン・ゴジラそのものにあの311をモチーフとしている骨格があるし、最初から意図された虚構なのだろう。

あの時、何もできなかった人たちが、虚構の中でもう一度あの時の事をトレースしている。
ものすごい現実的な、あの時と同じ混乱が再現されている。
そうやって、みんなどこかで、あの心的外傷の一部を修正し始めているんじゃないかと思う。

もともとゴジラは、原爆から第五福竜丸のことまで「日本の核兵器トラウマの化身」として生まれている。
背負っているものが違う。

このシンゴジ実況をTwitterで眺めていると、フィクションがどんな意味を持つのか、芸術がどんな力があるのか、それを見せつけられた気がしている。

子供たちは、遊びの中でいくつもそれを昇華していく。
それができなかった大人たちは、それをゴジラに託したのだろう。
この半世紀以上もの間。

でも、できれば、このゴジラで最後にしてほしい。
シン・ゴジラで、この化身が現実から立ち上がることを最後にしてほしい。
現実ではまだ何も終わっていない。

こうやってフィクションによる熱狂によって、ひどく傷ついた人々の心が少しずつ修正されていくのだろう。
クリエイターたちは、無意識にもそれを背負っている。
だから、そういう人たちが一定数いないと社会はちゃんと機能しないんだ。

興行収益とか、芸術性の高さとかじゃなくて、おそらく日本という国のトラウマを昇華するにはゴジラが必要で、それが絶望的にも復活してしまったという現実をもう一度虚構にすり替えていくのは、どれほど作り手には負荷がかかっただろうかとも思う。
観る側の熱狂は、その傷の深さを証明するようなものだ。

コロンバイン高校のその後の事は、あまり知らない。
あそこに居合わせた人たちだけじゃなくて、その後の世界はあの事件で衝撃を受け、その傷がどこかにずっとあるのだろう。それを日々の生活がまろやかに癒していったと思いたい。が、それをモチーフに何度も虚構が作られるような事件ほど、その傷は深く広い。

そういうドキュメンタリー色の強いものは、なかなか日本では人気が出ない。とっつきにくいし、だから人目に触れにくい。

でも日本には、ゴジラがいた。
ゴジラだと思えば、気持ちの整理をつける時間の余裕が少しだけ生まれる。

その昔はお祓いとかで鎮めたけれど、それは当時の最新で最も現実的なやり方だったのだろう。
今は、科学的な処理とかがそれらと同じ役割を担っている(効果も絶大だ)。

でも、この実況は識者などの誰かが主導したというよりも、自然発生的に生まれて、多くの人がその流れに参加した。
この熱狂によって、心の一部が修正される人は数多くいる。
そして、本当に苦しい気持ちを支えられるようになるのだ。
あの震災で傷つかなかった人なんてひとりもいない。全員が被災したし、見えないPTSDを持っている人は本当にたくさんいる。ほぼ全員がそうだといえる。だから、そこを何とか修正していかなきゃいけないんだけれど、それがこの虚構と銘打ったゴジラによってなされていく様を見ていると、人間てすごいと思うのだ。
自発的集団心理療法、参加型演技療法みたいなもんだ。

ついでに、防災訓練にもなって、日頃の備えに対する自覚も生まれて、なんかもう、すごいと思う。

ゴジラの破壊によって、この国に住んでる人たちはまた強くなれるのかもしれない。



シン・ゴジラ、観てないんだけどさ……。

つよく生きていきたい。