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言語化力を高めて保つために私がしている事、しない事

言語化力=なにかを言葉にして表現する力

みたいなものがあると思う。
そういう言葉じゃないかもしれないけど。

実際のところ、よく聞く文章力とか言語化力みたいなものの高め方って、たくさん本を読んで語彙力や言い回しの表現サンプルを多く増やしていくみたいなことが推奨されている気がする。

それも悪くはないと思うけど、そこはおまけじゃないかと思っている。
本当に言語化する時に、あんまり言葉の数=語彙力は重要じゃない。もちろんあったほうがいいけど、一定数をクリアしていれば十分だと思う。
小学校、中学校くらいの表現力、語彙力がまずきちんとできているかのほうが重要な気がしている。

高級な言い回しは、そういう基礎的で素朴な言葉がちゃんとつかえなければ飾り付けたり、省略したりする事って難しいし、相手が受け取れる絶妙さで言葉をチョイスすることも必要だから凝った言い回しができる事が上等ってわけでもない。相手が語彙力が多くない人にも伝わるということがとても重要になる。

と思う。

言語化をするためには、言葉じゃなくて起きている事や感覚をじっくりと咀嚼する

大事なのは、言葉よりもその表現したいと思っていることをどれだけの解像度で捉えられているのかという話だ。

それも、解像度が高ければいいというものではなく、解像度を落とすことで見えてくるものも見る必要がある。
虫の目で細かく見るのと同時に、鳥の目で高く広く大ざっぱに俯瞰する。
とにかく、対象を言葉にする前にたっぷりと感じて考えて、なぞって、角度を変えて。

それから、言葉だけじゃなくて、重さとか質感、温度、リズム感、触覚=痛み?ほわほわ柔らかい感じ?水っぽい?、とにかく身体で感じ取れるあらゆる角度から感じる。

まず言葉にできないというのは、ちゃんと感じ取る事ができてないというのと同義じゃないかと思っている。

わかってない、ということだ。

わからなくても感じ続ける

わからなければ言葉にならないというけれど、それはいわゆるテストの回答のように理解していなくてはならないということではないと思う。

わからない、自分の中で知っているものではないかもしれない、と思いながらも感じ続ける。

一番の肝はここじゃないかと思っている。

感じ続けていると、そこに似合う言葉がいくつか出てくる。
それを当てはめてみると、「オッケー!」ってなる時もあるし、ハマらずに滑って消えていく事もある。

この、言葉がハマるか滑って消えるか、ばっちり分かるというところが、かなりの部分が持って生まれた才能じゃないかと思う。
例えば、絵がうまいというのはかなりの部分遺伝的な才能だけど、最初からそういう線が描ける人はオッケーな線とダメな線が最初から分かってしかもそれを描き出せるという肉体を持っている。
同じように、オッケーな言葉を選んでいい感じに選べるというのは、もう才能にかなり占められていると思う。

が、別に絵が下手な人でもきちんと勉強して練習をしたらとてもうまく描けるようになるみたいに、特に才能がなくても努力でカバーできる範囲はあると思う。

その時に必要な感じ取るというステップを、なかなか人は教えてくれない。
絵でいったら、対象をどんなふうに見るか?みたいな視点が、なぜか言語化に関しては教えてくれる人が非常に少ない気がする。
言語化だって、徹底的に観察力、それも外界や事象への観察だけではなくて、内面に起きている事柄(感情や感覚に対して)も徹底的に観察し、感じ取る必要がある。
そうしないと、頭の中という見えない場所にしまってある言葉からいいものを選んで当てはめるという作業ができない。

こういう大事なステップがあるということを、誰かから教えてもらった人は珍しいんじゃないだろうか?

だから、才能ある人たちばかりが名文を書き、才能のない人たちは駄文を書いたり、名文を読んでは「こんな文章が書きたいんだ」と歯ぎしりしているように見える。
(読解力もまた言語化とは別の能力だと思う)

感じ取ること、それも相当な情報量で咀嚼し続けることがなくては文章も言葉も、俳句や短歌も、それっぽいものしか書けない。

これを、文章を書く前に山ほどやり続け、そして文章を書きながら常にやり続けていく。

身体で言葉を探す

私の文章を書いている時の体感としては、ピアノとか何か楽器を演奏しているような感じがある。
しかも多分、即興。
こういう感じっていうのはあるけど、それにどの音=言葉をぶつけ、どんなリズム=いいまわし、句読点、ですます調のいい感じの配合っぷり、改行や体言止めなどの表現方法で、たまにどんな和音=言葉遣いのニュアンス、敬語や古語、定型文、ことわざなどを入れてアレンジしていくのか、を全身で感じながら書いている。
文字で声帯模写のように、聞こえた音を表現しなおすとかもよくやる。ここはかなり音楽的な才能を問われるので、それがすごく巧い人もいる。
とにかく、こんな感じで、ずっと文章を泳ぐように作っていく。

やりながら、あ、ここのリズムがわるいな、とか。
ここで「しからば御免」と入れて急におっさんくさい時代劇っぽく転じるとコミカルになるな、みたいなことを、ずっとずっと考えながら、書きたいことの本筋を失わないように手綱を取って、ゆるめたりしめたりしながら、走り抜けるという感じだ。

音楽のように、ずっとうねっている。

たまに、手綱がちぎれてどこかにいってしまって、どうにもならない文章になってしまう事もある。
書いているうちに方向性を見失って、でもなんかいい感じに別のテーマが出てきている場合は、そのテーマにあわせてタイトルや内容を書き換える。

それを常に即興でやる。

だから、文章は言葉だけじゃない。音や重さや、色や形や、味や口どけに歯触り、気配、もうとにかく何でもかんでも全部、全部が必要になる。

身体全部を使っている。

言語化力を高めるためにやっている事

①とにかく文章を鋭く即興で書く筋トレ

noteでは、ひたすら私の文章の訓練として書いている。
いい文章を書こうとか、読者を得たいとか、売上が欲しいとかは、ない訳じゃないけど、あんまり重要に思っていない。

すぐに言葉にして即興で文章にする、という筋トレみたいなもんです。

が、これだけではあんまり意味がないです。
駄文の量産みたいなことになります。でもいつでもスパッと書くという場を持っておくのは大事かなって程度。毎日文章を書いてもうまくなるわけじゃない。ただ書くという筋力だけは減らないかな、程度です。

②言葉が通じない世界に行く

一番簡単なのは、外国に行く事かと思います。
言葉が通じない外国です。私はあまり経験がなくて、台湾が一番多いかな。あそこは日本語がたくさんあるから、ちょっとズルな気もしますが…
それでも、通じない世界の道路標識や駅の路線図、トイレの使い方なんかを見ているだけで、相当いろんなことを感じると思います。
いつもなら伝わるはずのものが全然わからない、という状況に放り込まれて、言葉じゃなくて感じる事への量が圧倒的に増えるという感じ。

これは別に海外に行く必要はなくて、絵画展や彫刻展などの美術=ノンバーバルな表現の世界に行くというのも、似たような効果があると思う。
ノンバーバルな表現に、言葉が添えられていることも多くて、言葉と非言語表現がぶつかり合って、違和感や納得感や、新しい見え方なんかが生まれたり消えたりするのをその場で感じる。

これに慣れると、普通の生活でも「もし今これが全部言葉が通じなかったらどう見えるだろう?」とコンビニの棚を見てくらくらするとか、日本語分からないとこのトイレの流し方全然わかんないなーって「大・小」って書いてあるボタンを見て思うとか、言葉と感性を切り分ける事ができるようになってきます。

わからなくても感じ続けるというのが、フィットする言葉を得るまでにとても大事なのだけど、それってめんどくさいから最初から言葉に頼って言語化するというひと手間を省いてしまう。
だから無理やりそういう環境に意図的に行って、言葉に頼らない部分のCPUをアップデートしておく。

言葉をなんとなく体感だけでぼんやり使っていると、言葉の意味がドロドロに溶けて輪郭を失う事があるんだけど(たぶんここの感覚があるかないかが才能の仕事じゃないかと思う)、この輪郭をちゃんと取り直す作業にもなる。

語彙量を増やしても輪郭をちゃんと分けてないと、言葉のエッジが立たないし、逆になじませる事もできない。

③ツーカーで話が通らない相手と話をする

これは結構相手を選ぶんだけど、話が通じない相手と結構真剣に相手の言っていることを理解するように会話するというのは、とても効く。

みんな、自分の世界の言葉で話をしている。
「あれっていったら靴の事でしょ?」みたいな。
基本的にその程度にしか言葉を使ってない生活をしている人ってすごく多いと思う。

それを、些細な事でも通じない相手と、面白い話をする。
相手のいう事を理解して、自分の言いたいことが伝わったかどうかを手探りで探しながら、分かり合った時に笑うみたいな。

とにかく通じにくい相手と話すのはとてもストレスが多いので、できれば面白い話題を持っている人でないとダメだと思う。
だから、誰にでもこんな相手がいるとは言えないし、とても得難い存在だと思う。
相手の事をたまに嫌いにもなるが、この「決闘のような会話」をするために関係を取り続けている人がいる。相手にとっても面白い人間であり続けなくてはいけない。もはや、存在を賭けた決闘のようだ。

会話する相手がいなくても、完全に分野違いの講演会を聞くだけでも本当に効果があると思います。なるべく興味のある内容で、面白く感じる事が大事なことじゃないかなと思います。面白くなくて、内容も理解できずに居眠りしてしまったら、それは言葉ではなく単なる音でしかない。

語彙力や表現方法を増やすことにこだわらない

まずは、今ある語彙で言語化できなくては、いくら言葉を増やしてもあまり意味はないです。
よほど語彙が少ないならともかく。

そして使い慣れていない言葉は、どうせ使いどころがわからない。
畢竟とか、まあ言葉としては知っているけど、きらっと光る使いどころって考えちゃう。泉鏡花じゃあるまいし。

どんな表現方法でも、フィットする場所にはめないと意味が消える。となると、少ない言葉の数でもフィット率が高ければ、言語化は成功している。
いかに言葉の数を減らすかで勝負する詩歌・短歌の世界は、モータースポーツのF1グランプリみたいな精密さと重さと破壊力がある。言葉数だけが力ではない。

表現方法や語彙を増やすということと、言語化するということは、ちょっと違う分野の話だと思う。

表現力を広げるのは、それはそれで広い世界、豊かな世界にアクセスできるから、追及しても楽しいと思う。でも表現を豊かにすることが、思った事や感じた事を正確に言語化するわけではない。

それよりは、歴史とか、文化的な文脈みたいなものを学ぶ方が、言語化には役立つ気がする。
昔はこれはこういう意味だった、というニュアンス、意味のDNAみたいなものを知っておく方が、言葉のフィット率は高まると思う。

インプットを増やせば出力の質が上がるっていう説も根強いんだけど、個人的には「そこよりも、受け取った情報をもっと様々な角度から検証しなよ!!!」と思うわけです。
無闇にインプットインプットっていう人は、材料を次々放り込んでも、どれも使えずに腐ってしまって、いつも使いなれている材料でチャーハン作っている感じ。いつも文章がつまらない。ビジネス系ブログのつまらなさ、文才のなさよ……。
だから、勉強して知識を増やして、材料ばかりが増えたチャーハンを作ったってダメなんです。むしろマズくなる。

思考力よりも、感受性をがっちり太くする

もうひとつ、思考そのものよりも、感じていることを重視するほうが、言語化には重要だと思っている。

思考ってしょせんたいしたことないんですよ、余程の天才じゃないと。
それよりも、感受性、感性みたいなものの方がその人なりの個別の表現に繋がっていく。

感受性も、一層じゃなくて二層三層、とにかく多重構造に分解して、解像度をあげたり下げたりする作業があってこそ、言語化にたどり着く。
この解像度を変えて角度を変えてみるということが、思考ということなのかもしれないけど、でも与えられた刺激を分析しているだけなので、自分の中から出てきているものでは、ほとんどないです。

解像度を上げたり下げたりする作業は、ほんとに瞬間的にやるけど、その後もずっと考え続ける。いつも頭の中は言葉や文章でいっぱいだ。瞑想なんかしたくない。私はずっとこの言葉の海に浸っていたい。
困ったことに、こういう状態にトラウマ的事象を取り込むと増強してPTSDになったりしちゃうから、善し悪しだと思う。もはや、業(ごう)だ。

言語化力を高めると仕事ができるとか年収が上がるとかは、どうでもいいことじゃない?

言語化できると、相手と話が通じやすくなる、交渉もうまくなって仕事もうまくいくようになり、年収も上がる……みたいなビジネス系の伝聞があるみたいなんですが、私個人は言語化力を高める(保つ)のはビジネスのためじゃなくて、むしろ逆です。

言語化力を高くし続けることで生まれる副産物で、ビジネスをしている感じです。

ただ、自分が感じていることを精密に感じて、再編纂して出しているだけ。

だから、感じるということは私の命、魂、人生、実存に関わる根幹みたいなものです。
金が欲しくて身につけたわけじゃなくて、これを活かすためにむしろ金が欲しいくらい。(金がなくても感受性は存在し続けるのは便利なんだけど、金があったらあったでいろんなことができるのもまた魅力的)

文章を書くことが好きという人は、「書いたものを誰かから評価されるから好き」な人と、「とにかく書くことが好き、読者などどうでもいい、自分が思う完成形を求め続けたい」という人に分かれるかもしれない。
真実、文章を書くことが好きな人は後者だ。

もう誰かかの褒めとか応援とか、ほんと不要。
なにもなくても書き続けるというエンジンが搭載されているということが、生まれついての才能であると思う。

そして、常に解像度の高い言語化の為に自分が存在している。
そういう、もはや生き方でしかない。

生存、実存。

だからこそ、その技術は常に磨きづつけなくてはいけないし、たまに下手なものを書いても書き続けないといけないし、いいものができてもまたすぐ忘れて次の何かを書き始める。
だって、それが私の命だからだ!息をするのと同じだ。心臓が脈打ち血が身体を巡るのと、同じことだ。小手先の話ではない。言語化をやめろというのは、心臓に杭を打てということだ。

命がかかっている。

大抵の人は、そんな事は思っていないとわかったのは、結構最近になってからである。
私はうまい文章の書き方なんかに興味はない、ただ、生きていたいんだ。それだけなんだ。

だから、ある種、職業作家になるにはちょっと難しい面もあるのだろうと思う。ライターになんかなるのはまっぴらごめんだ。私の命を単価いくらで売るつもりはない。そうしなくてもいいように、同じ文章を書くというやり方でも違う形でお金が入ってくるような仕組みを作った。
大層に聞こえるかもしれないけど、普通にビジネスをやっているだけです。
文章を書きまくっているけれど、ライターじゃない、小説家でもないお金の稼ぎ方はたくさんあると思う。


まあ、どれも個人的な感覚ですけどね!
他人が持って生まれた才能について語っている事は何の役にも立たないというのが相場です。そして他人はそれを理解できないし、真似もできない。

自分の中の才能を探して、その才能を活かすように心を砕くこと。
才能のない人はいないので。
それが、自分が望んだ才能とは違っていても、何らかの才能はみんな持っている。

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つよく生きていきたい。