女性が遊廓跡に行ってはダメなのか?

「興味あるから、遊廓跡に足を運んでみたいんだけど、女だから…」

私が経営している遊廓専門書店・カストリ書房(台東区千束4-39-3)に訪れるお客さんの8〜9割が女性です。正確に計測してはいませんが、来店者数ではなく、購入者数を対象とすると、ほぼこの数字近辺で間違いありません。

カストリ書房に来店する少なくない女性から、冒頭の悩みとも嘆きともつかない言葉を聞くことがあります。言葉はそこで途切れ、「だけど…」の後に続くはずの肝心の理由は聞くことができません。私は身体的性、性自認ともに男なので、その女性の言葉を継ぐこともままなりませんが、仮に身体的性、性自認が女だったとしても、来店される女性の多くがこのように言い淀む様子からすれば、そもそも言語化が容易ではないと推察します。

遊廓跡に行きづらい理由は様々あるかもしれませんが、今回は「女性(女性性)だから行きづらい理由」に絞って考えてみたいと思います。併せて予めお断りですが「遊廓跡へ行くべき」といった主張ではありません。「行きたいけど、行きづらい理由」について考察を加えるのが本稿の目的です。

遊廓に対峙してきた女性たち

いったん遊廓跡への訪問とその理由は棚上げして、従来、遊廓に興味を抱く女性はいなかったのかと振り返ってみると、決してそうではありません。思いつくままに挙げますが、遊廓をはじめとする娼街・性売買といったテーマが、さまざまな創作家たちの創作意欲を掻き立ててきたことが分かります。

創作家(作家、写真家など)

樋口一葉[作家・1872-1896]『たけくらべ』
芝木好子[作家・1914-1991]連作『洲崎パラダイス』
広池秋子[作家・1919-2007]『オンリー達』
鈴木しず子[詩人・1919-]『夏みかん酢つぱしいまさら純潔など』
三浦綾子[作家・1922-1999]『われ弱ければ』
宮尾登美子[作家・1926-2014]いわゆる土佐三部作など
森崎和江[作家・1927-2022]『からゆきさん』
常盤とよ子[写真家・1928-2019]『危険な毒花』
津村節子[作家・1928-]『石の蝶』『海鳴』
竹内智恵子[詩人 作家・1932-]『昭和遊女考』シリーズ
山崎朋子[作家・1932-2018]『サンダカン八番娼館』
石内都[写真家・1947-]『連夜の街』
安達智[漫画家]『あおのたつき』
※生年順。

このうち少なくない創作家が芥川賞歴や木村伊兵衛賞などの賞歴を持ち、文壇や読書界などで高い評価を得てきました。また研究者にも女性は少なくありません。

研究者・学者

小野沢あかね[立教大学]『近代日本社会と公娼制度』
加藤晴美[東京家政学院大学]『遊廓と地域社会』
関口すみ子[元法政大学]『近代日本公娼制の政治過程』
高木まどか[国文学研究資料館]『近世の遊廓と客』
茶園敏美[京都大学]『パンパンとは誰なのか』
藤目ゆき[大阪大学]『性の歴史学』
平井和子[一橋大学]『日本占領とジェンダー』
人見佐知子[近畿大学]『近代公娼制度の社会史的研究』
横山百合子[国立歴史民俗博物館]『江戸東京の明治維新』
林葉子[大阪大学・1973-]『性を管理する帝国』
※在籍機関は著書に準じた。五十音順。

「だけど…」の先にある理由

創作や研究など様々なアプローチから、従来から女性が遊廓を対象としてきたことが分かったので、次に理由について考えてみます。私なりの推測で挙げてみます。(その他あれば是非コメント欄にお願いします)

  1. 同性の悲しい過去を抱えた場所に足を運ぶのは心情的につらい。

  2. 男性向けの街に女性の自分が興味が持つ理由が整理できない。

  3. 売春を肯定していると誤解されたくない。

(その他あり得る理由も含め)上記理由や男女問わない理由が複数が組み合わさって、各人それぞれに比重が異なることからすると、理由は無限のグラデーションを描いていると推察されますが、まずは上から順に考えてみたいと思います。

理由1:同性の悲しい過去を抱えた場所に足を運ぶのは心情的につらい。

冒頭お断りしたように「遊廓跡へ足を運ぶべきだ」などの価値観を押しつけることが本稿の目的ではなく、また私自身こうした考えを持っていないので、「行ってみたいけどつらい」とするつらさについて考えてみたいと思います。

そもそもつらいのであれば、心的負担を押し殺してわざわざ足を運ばずとも良いと私は考えますし、つらさは共感性として大切にして頂きたいと願う一方で、「つらさ」が視野を覆い、それ以外のものが受け容れなくなった姿を、「悲しい過去」を辿った同性本人がもし見たとしたら、同様に「つらい」ことではないでしょうか?

先に挙げた女性作家を始めとする創作家や、女性の研究者たちにとっても、大変困難な作業だったと思います。先行して対峙してきた女性たちの仕事に触れるとき、「辛さ」以外の心情が加わることを願い、カストリ書房では多くの女性たちの仕事(本など)を扱っています。

これは、私が吉原遊廓跡に場を構えることを企図した2016年に、「書店」という形態を選んだ大きな理由の一つです。実のところ、私は書店にあまり興味がありません。これまでの人生で「本屋さんになりたい」と夢見たことは一度もありません。「書店」形態を選んだのは、多くの人に馴染みがある業態だからです。検討途中に思いついた「○○遊廓研究所」いった名はボツにしました。もし私がこの名を見かけたら正直なところ「時間を持て余した爺さんに懐古趣味と独自研究を小一時間聞かされそう」と倦厭します。穿った見方過ぎるかも知れませんが、人を選ぶことは確かです。遊廓を好事家趣味としたくなかったので、人を選ばない業種を選びました。

売防法から60年過ぎて、全国的にかつての記録や記憶が失われつつあるのは吉原遊廓跡も例外ではなく、本来規模から考えて最も多く名残りが残されているはずが、現状は逆です。せめてシンボリックな遊廓である吉原にかつての手触りが残るうち、より多くの人に知って、見て、経験して貰いたいと願った私は、来訪ハードルを下げるであろう「書店」を選んだだけのことでした。カストリ書房に来れば、必然的に吉原遊廓を訪れることになります。遊廓に興味を持つ理由が分からないまま、行こうかどうか迷っているうちに、名残りは消えてしまいます。自分の内面に向き合うことは大切ですが、時間的制約を考えるとき、理解してから行動することと同じかそれ以上に、まず行動して理解を促すことも大切に思います。

理由2:分からない(男性向けの街に、女性である自分が興味が持つ理由が整理できない)

憶測ですが、私が実際に接した経験上、おそらくこの理由に当てはまる女性がもっとも多いのではないかと推測します。理由1は理由がある程度明確で、その理由の妥当性が問われるものでしたが、これは「理由が分からないから近づけない」というものです。私も女性が興味を持つ理由が知りたいので、接客する中で質問したことがあります。ある女性の答えが奮っていました。

「女性なのに」ではなく「女性だから」興味があるんです──

世間一般には、男性の性的要求ありきで各地で遊廓が創設されたと考えられていますが(私は、男性の性的要求を利用した売春政策すなわち政治・経済・軍事面での積極的活用、福祉面での消極的不作為と考えます)、当事者は男性だけではなく、遊女や遣り手婆など使役される側のみならず、経営者側にも女性が介在した事実に照らせば、女性も当事者です。娼家内に留まらず、娘を売った女親、売春禁止に向けて奔走した女性活動家、さらには遊客の妻など、遊廓の歴史には有名無名な女性が、直接間接に関わっています。女性が歴史的にどのように位置づけられてきたのか? という興味を同性が持つことは何ら不思議はなく、先の「女性だから」は端的にその動機と必然性を表しています。

理由3:売春を肯定していると誤解されたくない。

■女人禁制というムード
以前、遊廓関連の著作を持つ女性ライターさんから、講演中に「女性が遊廓を扱うなんて!」と高齢男性から怒鳴られた、という話を聞きました。講演内容が売春礼賛かどうかが問題ではなく、講演の場を乱すことが問題であって、女性ライターに何ら非はないのですが、仮に売春礼賛であったとしても、だったら「男なら扱って良いのか?」という矛盾が生まれ、結局のところ「女人禁制」「女は触れるべからず」が主張のようです

意外とこの思考を持つ男性が高齢層にいることを私の経験上からも知っています。この思考そのものに説得性はないのですが、上記を顕著な例として、頭ごなしに他者を妨害したり傷つけたりすることを躊躇しない人物が現実にいる以上、主張の是非はともかく、おかしな人に会いたくない、嫌な思いをしたくないという意識が働き、「売春を肯定していると誤解されたくない」と忌避する理由が生じるものと推察します。

■売春を肯定しないことは当たり前なのか?
さてここで「売春を肯定する女性は少ない」は当たり前でしょうか? いったんここで立ち止まって考えてみます。

私はカストリ書房を開店した2016年以降、来店した女性と様々に会話する中で、「もしかしたら女性は売春したいのだろうか?」あるいは「身をやつしたい零落趣味があるのではないか?」と頭をよぎることが度々ありました。大変誤解を招きやすい表現なので、これを書いている私は慎重に筆を進めるつもりです。

最初は、着飾った高級遊女を描いた極彩色の錦絵、あるいはその生き様を刺激的に描いた小説や廓噺、現代コンテンツなら映画やマンガなどに惹かれて肯定している短慮に過ぎないとも考えましたが、短慮は私であると気づきました。

■売春禁止は誰のためか?
LGBTやジェンダーという言葉が日常に浸透し、従来の因習が解体されつつある一方で、性役割、性自認、性指向など、性の取り扱いを規定するものも同時にとき解かれつつあります。性と身体の自由を得ると同時に、持て余している女性も少なくないのではないでしょうか。もちろん男性にとっても戸惑いを覚える瞬間は増えましたが、「制限」が多くの女らしさと結びついていたことからすれば、制限が解かれて強く寄る辺なさを覚えるのは女性ではないかと推察します。

これまで「女性の性」を規定していた社会背景の大きな一つは、男性社会(と、これを良しとする女性社会)だったと知るとき、分かりやすい例では「女は貞淑であれ」つまり「女の性は特定の男にだけ開かれ、それ以外は閉じるべき」(そして男は逆)とする規範などへの報復感情に駆られるのではないか──

てんやわんやの末に昨年開催された、対外的な一大イベントのオリンピックに伴う一連の不祥事は象徴的でした。いまだにアップデートできずに女性を下に組み敷こうとする意識が残存することよりも、その意識が差配している事実には男性でさえ不快を覚えるものですが、女性であればなおのことと推察します。

こうした嘆き、怒り、諦めが「克服できないなら破壊する」つまり旧来の社会が望んできた(押しつけてきた)女性像を破壊することに向かわせている、それが私が感じた冒頭の「売春をどこか肯定的に捉える」意識ではないかと考えました。一方で「肯定的売春観」は、第三者からは、不特定多数との性行為や金品の授受を肯定していること区別が難しく、ともすると〝淫らな女〟という嘲笑、揶揄、軽蔑を(特に男性側から)招きがちです。理由3に挙げた「売春を肯定していると誤解されたくない。」は、ある種の肯定観との背中合わせにある誤解を忌避する意識ではないでしょうか。

遊廓跡に足を運ぶ

さて、縷々述べてきましたが、以下は付け足しです。

前述の通り、理由はグラデーションであり、自分の理由を見つけることができるのは自分だけです。その手助けとなることが、カストリ書房を開店させた理由の一つです。新本・古書問わず、遊廓に関連する本はおおよそ揃えてあります。本を揃えること、すなわち選択肢を増やした一方で、お客さんの動きを見ていると、多くの本から選ぶ作業はかえって難しいことに気がつきました。

およそ1,600箇所あった娼街の歴史を漏らさず扱う1冊、あるいはそれぞれの娼街を詳述した1,600冊、そうしたものは存在しません。したがって、1冊で自分の興味が完結する本など存在しない、と私は考えています。興味を深めるための読書は、興味からたぐり寄せた本から次の本へと渡り歩いていく作業に似ています。そのためには、どうしても自分の興味の整理が必要になります。

そこで、実地に遊廓跡を歩くことで、自分の興味を探って貰う機会をつくることにしました。2017年から吉原遊廓跡を歩くガイドをしています。ガイドとは、知識が高い方から低い方へ受け渡し、すなわち学ぶ機会ですが、単なる勉強機会よりも遊廓に興味を持ち始めた人が、どこに興味の源泉があるのか探る機会になることを願って続けています。

ツアーでは、遊女や遊客の心情的なことから、娼家経営などの仕組みまでソフト・ハード面、時間軸は近世から戦後(できれば現代)までとり、できる限りバランス良くレクチャーするようにしています(参加者の質問や反応によって、内容はやや異なります)。そして行程の最後はカストリ書房に行きます。

数百年前確かにここにあった同じ場所に立ち、過去に思いを馳せるとき、自分は遊女の心情を知りたいのか、料金体系などシステムについて知りたいのか、遊女とされた女性の流通について知りたいのか、並んだ本の背表紙を眺めるだけでは掴みきれなかった自分の興味がおぼろげに見えてきます。(私の経験上、女性は遊女の心情的な説明に反応が強く、男性は料金体系や建築など仕組みに強い反応が返ってきます)。本と自分の無限に近いマッチングから試みるよりも、一つしかない自分を確かめるために本を選んで貰えたらと思います。

※以下は有料ラインですが、以上がすべてなので、その下には何も書いていません。記事を有料化するためのものです。

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