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100年前、マレー半島に渡った三春遊女の墓

福島県三春町の遊廓跡を10年近くぶりに訪ねた。最初に尋ねたのが2012年だから、それから数えれば10年以上経ってしまった。当時は撮影記録のため、休日ともなると全国各地を撮り歩いていた。そんな折に訪れた三春町の遊廓跡で話しかけた娼家の持ち主であるKさんご夫妻は、肩書きもなく、見ず知らずのこちらをこだわりなく娼家宅内に上げ、撮影を許してくれた。

平成一桁に戦後の娼館・娼街を紹介する某書が出版され、冒頭には、現地を訪れても「風にように立ち去ってください」とある。遊廓跡を街歩きする自分のような界隈には、どこか金科玉条のように扱われている。

が、この手の「配慮」なるものは、差別偏見と裏表で、お為ごかしではないかと気付いたのは、コンタクトした当事者とのこうした経験からだった。この手の経験は他所の取材先でも多く、以降、当事者らには積極的にコミュニケーションを取るよう努めてきた。

白髪坊主のこちらを見て開口一番「歳とったね〜」と破顔のKさん。三春遊廓を訪ねる人があると、Kさんが私について言及して下さり、来訪者がやがてカストリ書房に来店して、事のあらましを話す。こうして風の便りが途切れず続いていた。私が稀にメディアに出ることがあると、Kさんは観ていてくれたようだった。

Kさんご夫妻もやはりお年を召されて、元来柔和な面立ちは、一層柔らかな輪郭となって顕れていた。当時から変わらず残っていた娼家四軒は、今や二軒を残すのみとなり、うち一軒は空き家、残る一軒Kさんの娼家だけが管理されている。「身体が続くうちは残したいけど」と、終活の話題に重ねて、Kさんが嘆息を漏らす。

平成の始め頃、町の有志らによって町並み保存が企図されて間取り図などが採録されたが、立ち消えとなった(*1)。立ち消えの理由は分からないが、一層景気後退した町の財政に余裕など残されていないだろう。地方の衰退、少子高齢化、空き家問題など現代の社会課題を分かりやすく反映している遊廓は、昔も今も「桃源郷」ではない。

さらに言えば、三春に限らず遊廓建築の歴史的価値を定められないままいたずらに時間ばかりが過ぎ去った今、「かつての賑わいの象徴」という欺瞞が残る文脈以外での再評価は難しいのではないか。遊廓建築保存の先行きの暗さ、これまで独力で保全に努めてきたKさんがついに漏らす嘆息、そしてKさんご夫妻と10年ぶりに会えた嬉しさが綯い交ぜになり、心に沈澱する──

4軒並んだ娼家のうち中央2軒は取り壊された。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止。2023年10月撮影)

ここ数年来、私が取材している遊女墓について尋ねると「ウチにもあるわ!」とのこと。やはり現地に行ってみないと分からない、話してみないと分からない。

Kさんに案内してもらい向かった檀家寺には、K家代々の墓域に遊女墓もあり、墓碑には以下と刻字されていた。

大正七年七月廿八日
馬来半島柔佛王國 ニ於テ死亡 行年三十四才
北村⚪︎⚪︎之墓
建主 坂本⚪︎⚪︎
(※⚪︎は本名、筆者による伏せ字)

身請けされて柔仏王国(現マレーシア・ジョホール州)に渡航し、現地で死亡した。引き取り手がないので、K家墓域に墓石を建立した。これ以上の言い伝えはもう残されていないとのこと。建立主の姓がKさんとは異なることからして、Kさんの先祖はかつての縁から墓域を提供したものと推察される。

山崎朋子『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(昭和42年)を原作とした映画、熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』(昭和44年)にも元娼婦の女主人キクが登場するが、柔佛王国に渡った元三春遊女がジョホールでどのように暮らしていたのか、分からない。没年と(行年)享年から察して、遊女として盛りを過ぎる20代後半に身請け話の水を向けられたとすれば、もう故郷には戻れない遠国への移住と引き換えにした縁談は、彼女にどう映ったのか。いずれにしても19世紀から20世紀にかけて東南アジアへ進出した日本人の一人に元三春遊女がいた。

Kさんからは他の元遊女のことも聞いた。元遊女Uは地元農家の妾として身請けされたが、娘(当然、血は繋がっていない)の嫁入りと一緒に他家に出された。血の繋がらない娘と一緒に嫁いだ先では、やはり先方の父の後添えとなった。街では行商などをし、孫の学資を捻出した。K家とUさんとは身請けされた後も関係が続き、盆暮の付き合いにUさんは「(孫はこちらの苦労が)分かっているのかねぇ…」と漏らしていたが、後に孫は「おばあちゃんのお陰で学校に行けた」とKさんに語ったという。

「(元遊女の)Uちゃんに聞かせたかった」とKさん。

美談ではある。一方で、他人から文字通り「値踏み」される半生を送った元遊女は、人一倍、他人が要求する存在意義に敏感だったとも取れる。井上靖『しろばんば』に登場する、おぬい婆さんも引かされた元芸者、妾だった。幼い靖はおぬい婆さんが愛情を注ぐ対象でありながら、同時に人質でもあった。靖少年にとって有益である限り、おぬい婆さんは存在を許された。これと重なる。

Uさんは地域の婦人会の催しでも、味付けなどを差配する役割だったという。東京で恋人に裏切られて娼婦稼業に飛び込んだ遊女や、読書好きだった別の遊女のことなども聞いた。

一概に「遊女」といっても当然様々な性格や経歴、その後の人生がある。「サラリーマン」に固定観念はないのに、「遊女」と聞いただけで、グラデーションを無視して型に当て嵌め、分かったつもりになる自分には間違いなく差別偏見が潜んでいる。

*1:三春町役場『三春 庚申坂 現況調査報告書』、本書は発行年が不明だが、抜き刷り元と推察される三春町住宅研究会『三春』は1994年の発行。渡辺憲司『江戸遊里盛衰記』P14

※ヘッダー画像:「馬来」(マレー)と刻字されている。以下は本文の通り。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

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