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洲崎パラダイス楼主の子に生まれて、感じた嫌悪感。右翼団体元会長・山口申氏(86)に訊く。その時代に何を見て、何を感じるか/(2023/11)取材記/東京都洲崎遊廓

戦後は洲崎パラダイスと看板を掛け替えた洲崎遊廓跡は、そのまま現在の東陽1丁目にあたる。

Googleマップで「東陽1丁目」と入れた街区全体が旧洲崎遊廓跡

今でこそ海が遠くなったが、明治期の地図で確かめれば一目瞭然、出島のように突き出ており、石川島監獄の囚人を使役して造成した埋め立て地である。

『東京一目新図』に描かれた洲崎遊廓(洲崎弁天町)(国際日本文化研究センター所蔵)

廓の入り口には洲崎橋が架けられ、戦後は橋の袂にあった一杯飲み屋を舞台にした短編集『洲崎パラダイス』を昭和30年、芝木好子が著した。これを原作とした川島雄三監督『洲崎パラダイス赤信号』も昭和31年に映画化された。

さらに歩を進めると、北方領土返還を求める看板が目に入ってくる。街歩き界隈では珍スポット扱いされている節がある当看板の設置主体は、右翼団体の「憂国青年同盟」である(管理は複合組織「民族革新会議」)。

洲崎橋跡に立つ北方領土返還を求める看板。画面奥に延びる道路がかつての洲崎遊廓のメインストリート

今回、同会元会長(議長)である山口申氏(昭和13年生まれ、インタビュー当時86才)にお話を伺った。山口氏は戦前戦後、洲崎で娼家を経営していた楼主の子にあたる。自らは娼家経営に就いてはいないが、関係者の高齢化が進むいま、当事者としては最高齢にあたるお一人。山口氏の両親は娼家「晴光」(戦前は晴光楼)を経営しており、山口氏は今も晴光があった同じ場所にお住まいである。

まずは山口氏の経歴を紹介する。

憂国青年同盟
結成年月日 昭和38年1月
主要役員 会長 山口申
目的 「万世一系の皇室の尊厳を尊び、日本の歴史と伝統を受けつぎ、これが発展に全力をつくすとともに、売国的共産主義を排除し真の自由と独立の精神を昂揚する」
性格 博徒、渥美組・組長渥美●●の娘婿山口申が、右翼転向をはかって結成した団体で、構成員はいずれも任侠出身である。結成以来、憂国健志会と称していたが、昭和42年8月1日に憂国青年同盟に改称した。
主要活動 会長山口申は昭和36年8月の日本青年連盟会長豊田●●狙撃事件の共犯として、昭和39年懲役2年の刑に服して、昭和41年4月出所した。

荒原朴水『大右翼史 』(昭和49年)(句読点と伏せ字処理は筆者)

のち、連合体組織「民族革新会議」(昭和48年結成)の会長(議長)に就任している。

山口氏(当時23才)が関わった襲撃事件。『読売新聞』(昭和36年8月17日夕刊)

────こんにちは。私は遊廓の歴史などを調べているのですが、山口さんのご両親が戦前戦後と娼家「晴光」の経営者と知り、お話を伺います。早速ですが、洲崎遊廓跡に来ると、まずは目に入っているのが、北方領土返還の看板なのですが、これの経緯について教えて下さい。

山口申氏(以下、山口) 洲崎橋の下の河を埋め立てようっていう計画が立てられたときに、下水道管も通したんだけど、子どもが上ったりして事故に遭わないよう、下水道管の回りに柵を建てられたんだよ。当時、ソ連との200海里問題が挙がったときで、北方領土奪還運動の気運が高まったときだな(筆者注・昭和52年前後か)。で、俺が看板を立てた。つまり、水道局が事故防止に建てた柵の上から、俺が看板を掛けたわけだ

────聞きづらいことですが、そもそも、あの土地の所有者は…?

山口 以前、橋があったときの橋台地だから、都の土地だな。その後、下水道管も地下に埋め立てることになったときに、看板の所有者が分からないから、水道局が警察に照会したらしい。警察の公安は、当然に俺のことを知ってるから、俺が建てたことも知ってた。公安と話し合いをして、水道局の柵を取り壊したあとに、改めて看板を戻すことで話が成った。それ以降、警察からも都からも何も言ってこないよ

右翼団体「民族革新会議」元会長、山口申氏

────話し合いで何とかなったとは、驚きです。遊廓について伺います。山口さんの家系はいつから娼家経営をされていたのでしょうか?

山口 戦前からやっていたことは間違いないけど、詳しいことは分からないな。遊廓が廃止させられた昭和18年は、俺が5歳の時。それから敗戦の7歳まで、そのくらいの間に、女郎衆や芸子衆とかかわった記憶もあまりない。

山口氏が話す昭和18年は洲崎遊廓における転換期にあたる。総力戦体制の一層の強化のため、洲崎遊廓は石川島造船所の工員宿舎として明け渡した。業者と娼婦は、都内の吉原、新宿、玉の井、羽田(穴守)、立川市、千葉県内の千葉市、船橋市、館山市、茂原市、茨木県の竜ヶ崎市など、既存の集娼街への合流、あるいはこれを機にして生まれた新興の集娼街へ移動した経緯がある。(『赤線S33/1958』〈カストリ出版〉)

『読売新聞』(昭和18年11月1日)

────昭和18年の営業廃止後はどこかへ移られた?

山口 昭和20年3月10日の東京大空襲まで洲崎に住んでた。空襲の記憶もあるよ。この辺りは逃げ場がなかった。隅田川と江戸川の内側が全部やられているわけだから。

────回りを運河に囲まれていた洲崎遊廓は、橋が2つ架けられているのみで、避難がままらなかったと聞きますが。

山口 西洲崎橋は木製だったから、焼夷弾で焼けちゃったんだな。昭和18年で営業廃止になったけど、芸子や女郎衆は置いておいたから、名目上廃止したけど、こっそり営業はしていた。東京大空襲で被災したあとは、千葉県の九十九里に疎開していた。どうやって疎開したのか経路も覚えていないな・・・。空襲の後、気がついたら九十九里で牛車に乗せられていた。九十九里から戻ってきたのは、小学校を卒業して中学に入るとき。6年間いた。その頃には洲崎はもう華やかだった。

江東区北砂には東京大空襲の被害を伝える唯一の学習施設「東京大空襲・戦災資料センター」があり、民間によって運営されている。当施設では史資料や語り部(映像)によって被害の声を聴くことができる。また折々のドキュメンタリーやノンフィクションによっても、痛ましい記憶に触れることができる。それらの多くは関係者にとって忘れがたく、それを反映してか濃密な記憶である。他方、山口氏のように被災後ぷっつりと記憶が途切れ、気がついたら千葉県の九十九里にいたという「記憶の欠如」もまた、濃密な記憶と同じくらい大切な当事者の声に違いない。

敗戦から2年目、米軍によって撮影された洲崎遊廓跡の航空写真を確認すると、一面まだ焼け野原状態で復興はごくまばらである。右下の大きな建物は洲崎病院で、娼妓(遊女)たちの性病検査および治療を行った。

昭和22年8月1日撮影。(出典・国土地理院)
洲崎の遊廓業者が、離散した組合員(楼主)と従業員(娼妓)に連絡や参集を呼びかける広告(『読売新聞』〈昭和20年12月14日〉)

────中学校入学するタイミングで帰京されて、その頃に覚えていることは?

山口 そりゃ覚えているよ。刺激が強いからね(笑)。それまで疎開先では地引き網を引っ張っているような子供の生活だったから、物心つくまで東京みたいに人の多い場所に住んだことなかったからね、嫌悪感を覚えたんだよ。女郎屋だとか、東京の人の考え方のようなものに。嫌悪感覚えたんだなぁ・・・。それで中学校2年のときに家出してまた九十九里へ帰った。親が「お前は東京に馴染まないから」というので、親父が千葉市登戸の遊廓に一軒買って、若い衆に任せた。俺はその登戸の遊廓に預けられたんだ。

────お父さんは山口さんに仕事を継がせる希望などは?そういう話をしたことは?

山口 ないね。家出から帰ってきたらね、家中がボコボコで、鬱憤を晴らすために親父がげんこつで穴を空けたりしていたんだろうね。まぁ。親父はヤクザだったんだけど、お互いそういう気が通じるところがあったんだろうね(笑)(筆者注・その後のご自身の半生を指してか?)

ろくな親父じゃなかったからね。モルヒネ中毒で48歳で死んだ。疎開先から戻ってきた中学生のときも学校に行けなかった。「胃が痛いから揉め!」とかね。クスリをやってるから半分、気が触れたようなものだったね。

〝鬱憤〟とは何だったのだろうか。薬物浸りのすさんだ生活を、娼婦を搾取した挙げ句の自業自得と切り捨てるのは容易い。

明治以降、廃娼運動が進展したことはよく知られる。大正時代の吉原を綴った作品に『大正・吉原私記』(昭和53年、青蛙房)がある。娼家・大文字楼の長男として生まれ、廃娼論者・山室軍平の影響を受けた青年時代を送った著者・波木井皓三は、娼家を経営する両親と廃娼を望む自身との軋轢を綴っている。後年は母親と絶縁状態にあった。廃娼という社会のうねりに飲み込まれて、一つの家庭が崩壊した歴史の1ページは記憶されていい。廃娼・売春禁止の高まりで社会悪と見做された楼主とその家族が抱えた葛藤はいかほどであったか。

────さきほどの嫌悪感を具体的に教えて頂けませんか。

山口 ん〜(長い沈黙)・・・女が好きじゃなかったんだなぁ。子供の頃は(大笑)

今回のインタビューは民族革新会議事務所で行っており、山口氏の他、団体関係者も同席している。沢山の目線が私と山口氏を往復していることを感じる。山口氏は、こわばっている私を気遣ってか、ときおり冗談なども挟んで、緊張を解こうとして下さっているのが分かる。私は山口氏の長い沈黙が言葉にならない言葉に思えた。

────親の職業で周囲から揶揄われたことはありますか?

山口 一切なかったなぁ、うん。中学校の頃なんかはさぁ、気に食わない女の子とかいるだろ。九十九里にいたとき、気に食わない女の家がパン屋だから、「おい、パン屋!」なんて言うと、「なんだ、おまえん家なんてパンパン家じゃないか!」って反対に返されたよ(笑)

────戦前、女郎さんに遊んで貰った記憶は?

山口 全くないね。昭和18年から昭和20年まで、5歳から7歳くらいの頃、自宅に女郎衆が居たかどうかもはっきり思い出せない。一人か二人は食客としてはいたかもしれない。遣り手婆も。

────昭和30年頃になると、売春防止法が取り沙汰されて、今後の身の振り方の話題もあったんじゃないでしょうか?

山口 うーん、恥ずかしい話だけど、そんな調子で中学校もろくに行ってなかったし、中学二年になると、少年院から少年鑑別所から何から入ってたし・・・

────あまりご家庭の事情が入ってこない状況だったのですね。売防法後に働いていた女性たちはどうなったのでしょう?

山口 田舎に帰ったか、青線に移ったか・・・。それから雨後の竹の子みたいに、この辺りにバーができた。当時できたバーというのは青線まがいのやつだった。まぁ、洲崎に戻ってきたのは22歳のとき(筆者注・昭和35年)だから。

売春防止法は娼婦たちにとって犯罪者扱いされることを意味している。昭和31年、都内の赤線娼婦らは連帯してこれに対抗しようとした。浅草公会堂において結成された「東京女子従業員連合会」の式上、赤線娼婦の代表が次のように指摘した。

「私たちは、表面に出ている赤線区域の業者よりも、一般社会からは自由であると見られている、青線や街娼の背後をあやつるヒモ、ボス等のダニのように食い付いている黒幕が恐ろしいのであります」

深江誠子「性道徳からの解放」(『女・エロス』9号〈昭和52年、社会評論社〉所収)

売春防止法成立過程を振り返り、国家責任について次の指摘もある。

公娼制度の責任をとらされたのは、公娼の側だった。売春防止法の眼目は売春の禁止である。同法の成立過程で公娼たちは組合を組織し、集娼地区の企業を国策としてきた政府の責任を問い、国家補償を要求した(中略)。ところが現実には転倒した決着がはかられた(中略)。売春防止法の制定で彼女たちは犯罪者扱いされるようになり、彼女たちの多くは地下犯罪の世界に追いこまれた。

藤目ゆき『「慰安婦」問題の本質』(2015年、白澤社)
筆者注・藤目は戦後の娼婦も「公娼」と表記している。

それを裏付けるかのように、売防法後の元娼婦の再就職先は芸妓25.1%を筆頭に、全体の約80%がいわゆる水商売、訳ありと見做される職業だった。(売春対策審議会『売春対策の現況』〈昭和34年〉)

元NHKアナウンサー高橋圭三が監修を務め、昭和44年に発行されたプレイゾーン案内書『東京生活は君のもの』(自由国民社)をめくると、「ズバリ座ブトン売春の店も数多い」と洲崎を紹介している。売春防止法から約10年後も、彼女らが恐れた「地下犯罪」に追い込まれていた。

────赤線廃止後、山口さんのご両親は転業されたのでしょうか?

山口 当時は木造二階建てで、1階に小さなタイルが貼ってるようなホールがあったんだ。どの女郎屋でもホールがあった。そのホールを改造してバーにして、女を置いていた。2階は物置や子供が寝る屋根裏部屋で、赤線当時の売春は1階で営業してた。3畳か四畳半が8か9部屋。四畳半でも大きい方で、女性が仮住まいしていて「本部屋」と呼んでた。3畳部屋はちょんの間。内風呂もあった。いい風呂だったよ、岩風呂で。店ごとに趣向があって、ある店は滝が流れていたり。

────戦後、洲崎でのお祭りはどのように行われてましたか?

山口 盆踊りは廓のどんつきでやっていた。昔はその先に橋はなかったから。その辺りが広場になってた。

山口氏が指す「どんつき」。赤線当時から同じ場所に公衆トイレがあり、共有地の雰囲気が残っている。(Googleマップから)

山口 兵隊に取られて担ぎ手が足りないから、田舎から人を呼んできてた。深川の神輿は三大祭りのなかでもいちばん距離があるんだよ。神輿を担ぐ距離が。富岡八幡宮の例大祭は50町がやってる。神社でお祓いを受けて、洲崎町内をぐるぐるまわる。そうなると10キロは担ぐわけ。俺の記憶では担ぎ手の肩が血だらけで(笑)

でも担ぎ手は洲崎に入ってくるのが楽しみなんだな。神輿がそれぞれ遊廓の店ごとに割り当てられて、店の前に横付けしてお茶飲んだり、弁当食べたり。それを女郎衆がみんな出てきて長襦袢姿でお世話をするわけ。子供が担ぐ神輿に出てきたのは、シロップだったな。赤いシロップと黄色いシロップのね。で、飲むと赤い汗と黄色い汗が出てくるわけ(笑)。今考えても、何でできてたんだろうな(笑)。当時は氷も貴重だったから、一升樽に氷をブッ込んで、シロップもブッ込んであるだけで、それが楽しみでしょうがなかった。

(子どもの頃の記憶が甦ったのか)これは俺が登戸でのことだけど、女郎衆には女郎衆の生活があるんだよな。女郎衆にも客の好き嫌いがあるから、泊まりであげておきながら、好きな客のほうにばかり行って、相手にしないこともあった。で、男が酔っ払ってたりすると、そのまま寝ちゃったり。朝目覚めた怒った男が「どういうことだ? 俺は宵越しの天麩羅じゃねえぞ!!」って。

────ええと・・・「宵越しの天麩羅」とは?

山口 あげっぱなしということだろうね(笑)

インタビューにはしばしばあることだが、「訊きたいことを訊く」は取材者の傲慢に過ぎない。取材対象者にとっては周縁部の記憶に過ぎず、そう都合良く記憶を辿れることは少ない。こちらの傲慢と焦りで、つい質問を重ねてしまいもする。しかしそれも無駄にならず、周縁部の記憶を丁寧に掘り起こすことで、忘れかけた記憶が生き生きと甦ってくることがある。山口氏にとって、祭りがそれだったのか、それまでの回答に比べて格段に饒舌に語ってくれた。遊廓史にとって、制度の転換期でもなく、高度に洗練された文化などでもなく、所詮は季節の祭りなど取るに足らないものかも知れない。が、こうした生活こそ、当時の一人一人が生きた跡であり、偉人が誰一人登場しなくとも後世の私たちが大切に耳を傾けたい歴史の一つではないか、と私は考えている。インタビューは終えた後に、脱線した後に、〝本当の声〟が訊ける。

山口 登戸の女郎屋ってのはね、長屋なんだよ。長屋に4軒くらいが入っていた。だから屋根瓦づたいに隣に入るなんてこともできた(笑)

────若い頃の山口さんがお隣へお邪魔したり・・・

山口 いや、悪さじゃなくてね、よく女郎に誘われてね。当時は甘いものが貴重だったから、客を取れない女郎が「今日はかりんとうがあるから」って、甘いもので俺を誘ってくるから、そっと屋根伝いに女の部屋に入ったりした。今じゃ考えられないけど。

────先ほど両親の稼業に嫌悪感があったとのお話でしたが、女郎さんとの関わりもあったのですね。

山口 そりゃね、田舎育ちの中学生がいきなり女郎屋に連れてこられたら、精神的におかしくなるよ。

────お時間なのでそろそろ。今日は興味深いお話を沢山ありがとうございました。

山口 いえいえ。女郎屋の頃の話は、覚えているものは話せるけど、「昭和何年はどうか?」とか「あの頃はどうか?」と訊かれると、なかなか話せないね。俺は少年院に入ってた時期の方が長いくらいだから(笑)。でも今と違って、俺たちの時代はあまりにも起伏が激しかったでしょ。いちばん記憶に残っているのは、九十九里に疎開していちばん最初に町会でしたことは、学校をつくることだった。玉音放送を聞いた8月15日は、まぁ、くそ暑い日で、何人かのガキたちと素っ裸で遊んでいて、ラジオもなかなかない時代だけど、俺の疎開した宅にはあって。電源ケーブルを引っ張って道に出して。放送が始まると、俺たち子供らは「静かにしろ!」って怒られてね、爺さん婆さんがボロボロ泣き出して。しゃがみ込んじゃう人もいたし。先生も豹変した。

────子供心に豹変が分かりましたか?

山口 ああ、全然分かるよ。男の先生は「この間までの教育は悪かった」とか、竹槍がダメだったとか(笑)。そうかと思うと「戦争で負けたとはいえ、君たちは決して落胆してはいけない。過去そうだったように、100年かけて何もないところからまた一等国になる。そのためには国に誇りを持ちなさい」と最初に言われたな、しかも女の先生にだよ。

(感嘆を込めて)・・・しかし早いもんだなぁ。戦後は国家主義から民主主義国家になっただろ。それを待ってましたとばかりに、声を上がる連中が現れた。戦中は戦地に行きたくないから醤油を飲んだり、胸を叩いていたようなやつだ。さっきの女先生を戦前回帰する教育だ!とか非難したり。自分の信念を貫いた人は、先生を辞めるとかしてたな。戦後の生活の変化ではなくて精神の豹変が、小学校1年の俺には堪えたよなぁ・・・。そういう掌返しの言葉を出していた先生のことは、生涯忘れられない・・・

────時間をオーバーしていますが、せっかくの機会なので伺います。私は遊廓の歴史を残すべきと考えていますが、山口さんはどうお考えになりますか?

山口 いいことだと思いますよ。あのね、民族文化ってね、国家として記憶に残したくないことも、あるかもしれないけど、良かれ悪しかれ自分たちが代々つくってきた歴史だからな。

「民族文化は国家として記憶に残したくないこともある」、奇しくも山口氏のインタビューから数ヶ月後にあたる今年2月、群馬県高崎市にある県立公園・群馬の森の「朝鮮人追悼碑」が県によって撤去された。「公権力が都合の悪い過去をなかったことにするもの」とする批判を招いた。遡れば、関東大震災から100年の節目にあたる2023年9月1日には、松野官房長官が当時の朝鮮人虐殺事件を指して「記録なし」との見解を示した。また小池都知事は当年も朝鮮人犠牲者に追悼文の送付を見送った。

国が期待する歴史とはどのようなものか、近年の政権や政治家が示す歴史観、とりわけアジア・太平洋戦争や、戦前日本の他国をルーツとする人々への行いを顧みる歴史観と重ね合わせると、考えざるを得ない。

山口 最近、小林秀雄を読んでるんだよ。小林が柳田国男について書いているんだけど、柳田が養子にやられた家には古い祠があって、死んだお婆さんが大事にしていた蝋の石を祀ってあると。祠の中を見てはいけないと言われたけど、柳田は誘惑に負けてしまって、中を見たら蝋の石があった。その途端、そのお婆さんを思い出して、宇宙が見えた。自分が誰なのか訳が分からなくなってしまった。たまたまヒヨドリが大きな声で「ピィ!」とかなんとか鳴いて、ハッと気がついた。そのときヒヨドリが鳴かなかったら、自分は気が違ってしまっていたのではないかと柳田が回想している。それを小林秀雄が「天才とはこういうものだ」って言うんだよね。

天才は何かが人と違う、感受性が違う。その当時の文学者は「遊女との後朝(きぬぎぬ)の別れの残り香」*1がどうだと書いてるんだよ。

同じ時代に、柳田国男が『遠野物語』*2の序文で書いているけれども、二人の子持ちの木こりが木を刈って炭焼きをやってるわけだよ。その木こりの親父が、いつも炭が売れずに子どもにひもじい思いをさせていて、ある日帰ると、長男が斧を研いでいて、「おとう、俺を殺してくれ」って言うんだって。腹が減ってあまりに苦しいから。自分が生きていけないなら、親はもっと生きていけないだろうと。まぁ、普通だったら殺せないよな。ところが親父はそんな思いをしてまで、と哀れんで子どもの首をはねてしまった。これをね、柳田は『遠野物語』の序文に書く。かたや「後朝の別れ」だよ。

その時代時代に生きて、その人が何を見て、何を感じるか? ということが大事なんだよね。感じるということは大切なことなんだ。

────改めて今日はありがとうございました。


◇筆者註
*1:「後朝の別れ」とは一晩過ごした遊女との朝の別れのこと。
*2:山口氏が紹介した逸話は、柳田の代表作の一つ『山の人生』収録「山に埋もれたる人生あること」と思われる。山口氏が手にした本は、『遠野物語』と『山の人生』を合冊した岩波文庫版か。青空文庫で読むことができる。
※文中年齢は取材時のもの(インタビューは2023年11月に行った)

※以下は有料ラインですが、以上がすべてなので、その下には何も書いていません。記事を有料化するためのものです。

ありがとうございます。取材頑張ります。


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